■感想など■

2009年05月03日

第1章「男と女の境界線」

■■【2】■■
 彼、山中圭介がこの街に引っ越してきたのは、小学校の3年生の時だった。
 自分では、もうそれが本当にあったことなのか定かではないが、両親の話によると小学2年生の1学期の時、原因のわからない高熱で一週間ほど昏睡状態となった事があるらしい。
 その時は夜間でもあり、家から近く、また救急救命センターとしても機能している大学医学部附属病院へと運ばれたのだと、母は言った。
 けれど、その病院は地元でも優秀な医師が揃っている事で有名だったものの、医師達の少年に対する扱いが気に食わなかったとかで、父が強引に病院を移してしまったのだ。
 昔も今も強引で人の迷惑を考えない自分勝手な父だが、もしそれで彼が死んでいたらどうするつもりだったのか、圭介は一度聞いてみた事がある。すると父親は、茶の間で近所の煎餅屋で買ってきた堅煎餅をバリバリ齧りながら
「次は女の子が良かったな」
 圭介は何も言わず父の顔面にドロップキックを食らわせ、逃げた。

 その時の後遺症なのか、はたまた全く別の原因なのか、小学三年生の頃から毎年この時期になると、圭介は高い熱が出たり、やたらと眠くなったり…………と、体の調子が不安定になる。季節の変わり目でもあるし、今まで特に気にした事も無かったが、今年はもう一週間も微熱が続き、時折襲ってくる倦怠感と慢性的な眠気も、例年に無く強烈だった。実際、由香がこうして毎日わざわざ家まで起こしに来てくれていなければ、無理矢理にでも理由をつけて、家でゴロゴロと寝ていたいくらいだ。
「まだ、熱あるの?」
 不意に由香が心配そうに言った。眠くて眠くて仕方が無く、少し気を抜くと瞼(まぶた)が“とろん”と下りてきてしまうのを、熱のせいで気だるくなっているのだとでも思ったのだろう。
 だが、微熱で少し体が重く感じる以外は、特に頭が痛いとか苦しいとか、不快感を感じる事は無い。
「まあ、ちょっと、な」
「ねえ、やっぱり休んだ方がいいんじゃない?だってヘンだよ?声も、なんかヘンだもん」
「大丈夫だって」
「でも体だるいんでしょ?」
「だるいっていうか…………眠いだけだよ。こんなのいつものことだろ?毎年、今頃はいっつもこうなるんだって」
「でも…………なんか、けーちゃん声がヘンだよ?…………あ、ひょっとして声変わり?」
「ばか、普通は高くなるんじゃなくて低くなるんだろうが」
「そうだよねぇ。なんかちょっと高くなってる気がするもんねぇ…………じゃあ牛乳の飲み過ぎ?」
「…………飲んで声が変わるような牛乳、どっかおかしいだろ。放射能でも入ってんのかよ」
 早く背を伸ばしたくて仕方ない圭介は、毎朝、コップに2杯の牛乳を必ず飲んでから登校する。本当は1リットル紙パックを1本まるまる飲みたい所だが、母が涙目になって抗議するものだからコップ2杯で手を打ったのだ。もちろん、過保護で子離れの出来ていない母親の、いつも潤んでいるような黒目がちの瞳が届かない学校内では、水を飲むより牛乳を飲んでいる方が多い。それでも、圭介の経済力では、1日100円のパック牛乳2本が限界だった。

 由香と話しながら、気だるい体を奮い立たせつつ豆腐屋の角を曲がる。ここを曲がれば後は学校まで一直線だ。
 …………と、
「おはよ」
 “のそっ”と、豆腐屋の看板の陰から背の高い男が、実にのんびりとした口調のまま姿を現した。
 でかい。
 180センチはありそうだった。体つきも、背に比例するようにガッチリとして胸板が厚い。そして、肩が盛り上がって、ひどく逞しく見えた。腕を一振りすれば、同じ歳の男子どころか、上級生…………いや、大学生ですら薙ぎ倒してしまえそうだ。
 にも関わらず、彼からは殺伐とした雰囲気は微塵も感じられない。いや、むしろ…………牧歌的…………だった。
 眉が、海苔でも貼り付けたように太く、濃い。その下の目はくりくりとして大きく、けれど笑うと“きゅっ”と細くなって皺に隠れてしまう。顎がガッチリと張っているので、顔の形そのものは角張ってゴツく見えるが、鼻が少し丸くてぽってりとしているため、怖さよりも愛嬌が勝っていた。
 彼を一言で言い表すならば、たぶん
『牧場の牛』
 だろうか。
 牧場でのんびりと草を食(は)みながら道行く人を眺めている牛。
 そんな感じだ。
「おっす」
「なに?けーちゃん、また由香ちゃんいぢめてるの?」
 圭介と由香に歩調を合わせながら、牛男が歩き始める。背が高い分、歩幅も広いのだろうが、二人の歩く速さにキチンと合わせていた。特に意識していないのは、もうすっかり慣れてしまっているからだろう。
「いぢめてねーよ。コイツがヘンな事言うから教育的指導してやってたんだよ」
「ひどぉい、私、けーちゃんの事心配して…………」
「はいはい。な?この調子だよ」
「ふーん…………教育的指導…………ね」
 牛男…………健司は、きゅっと目を細めて、にこにこと邪気の全く無い笑みを浮かべた。笑うと、左の口元に笑窪(えくぼ)が出来て、柔和な雰囲気がさらに促進される。体格からは想像も出来ないくらい優しい笑みは、エプロンを着ければ今すぐにでも保父さんが勤まりそうな感じだった。
「…………んだよ?」
「将来のため?大変だね、由香ちゃん」
「…………あのな健司…………オマエ、たまには違ったこと言えねーのかよ…………」
「仕方ないでしょ?俺の幸せは、けーちゃんと由香ちゃんが幸せになる事なんだから」
「いや、だからさ、なんでオレと由香がオマエの幸せのためにくっつかなきゃなんねーんだ?」
「俺の幸せのためじゃないよ。けーちゃんと由香ちゃんの幸せのためだよ」
「はぁ?」
「けーちゃんと由香ちゃんが幸せになる一番手っ取り早いのは、二人が結婚する事なんだ。それで二人が幸せになれば、俺も安心出来るんだよ」
「何を安心するんだよ。…………ったく…………あたまいたくなってきた…………おい、由香も何か言ってやれ」
「ひゅあ?」
「…………何真っ赤になってんだよオマエわ」
 頬を真っ赤に染めながらにこにこと圭介の横顔を見ていた由香の頭を“ぺしっ”と叩き、圭介は呆れたように溜息を吐(つ)いた。
「で、今日は朝練はいいのか?」
「試験前だからね。それに、今週はプールの補修工事が入るから、陸トレ中心なんだ」
 健司を見る人は、大抵が、彼は柔道か空手かバスケットの選手だと思ってしまう。けれど本当の所は、彼は県下でも指折りの水泳選手なのだ。豪快なストロ−クで水を掻き驀進(ばくしん)するその姿は、健司を知る圭介でさえも「すごい」と思ってしまう迫力だった。
 そして彼はさっきの豆腐屋の次男坊でもあり、その実家で彼が作る豆腐は、近所の奥様方の間でも評判の味だった。
 背が高くて優しくて、運動も出来て豆腐作りも上手い………………豆腐はどうか知らないが、これで彼女の一人もいないのは圭介も不思議に思っている。
 けれど、いいのだ。
 彼がイイヤツなのは事実だし、友人として、また小学校からの『兄貴分』として、コイツの事が大好きなのだから。
「そういえば、けーちゃん、ちゃんと勉強してる?」
「ん〜…………オレは実戦派だからな。オマエも知ってるだろ?」
「まだそんな事言ってるんだ?いい加減、ちゃんと勉強しないと、どこにも入れないよ?大学」
「由香みたいな事言うなよ。オマエまでそんな事言い出したら、お袋が3人に増えちまうだろ?」
 顔をしかめる圭介に、由香が“ぷうっ”とほっぺたを膨らませてみせるが、もちろん彼はそれを見てやしなかった。
「おっと…………」
 足を絡ませてよろけた圭介を、健司が支える。体の大きさに比べて俊敏な動きだった。
「大丈夫?」
「…………わ、わりぃ…………」
「まだ調子悪いの?」
 健司の逞しい腕に少し嫉妬を覚えながら、圭介は強引に体を起こして苦笑した。
「お前まで心配すんなってば。お袋一人でさえ鬱陶しくてかなわねぇのに」
「あんな美人なお母さんに、あんまりひどい事言うもんじゃないよ?」
「美人かよアレが」
「去年の映画、『ふた恋』の女優さんをつかまえてそれは無いんじゃない?」
 『ふた恋』というのは、去年の暮れに関東圏で公開された邦画で、一部に熱狂的なファンを獲得したものの、年末公開のハリウッド大作に呑まれてしまった、圭介の母の出演映画だった。『ふたりの恋』というのが正式な題名だけれど、一般には『ふた恋』と言った方が通りが良いのだ。圭介はその、“母娘二人のそれぞれの恋模様”に“国家規模の霊的守護都市計画”を絡めた、なんだかわけのわからない変化球的恋愛映画を、まだ一度も見ていない。自分の母親がスクリーンに映る姿なんてものは、恥ずかしくて見てらんないというのが正直な感想だった。
「ダブルヒロインって言っても、主演だったアイドルの香坂舞菜を完全に食っちゃってたんだよ?」
「そうそう。冷たい視線と氷のような話し方、それと、すっごいプロポーション」
「ものすごい美人だから、ああいう格好も似合うんだよねー」
「ねー」
 圭介を真ん中にして盛り上がる健司と由香をぼんやりと見ながら、圭介は家を出る時、涙目になりながら自分を抱き締めて離さなかった母親を思い出していた。
 いつまでたっても「過保護」を絵に描いて立派な額縁に飾り、美術館の特別展覧室に飾ったような母。
 今の圭介よりもずっと若い時に息子を産み、32歳という年齢にしては、母親というより歳の離れた姉と言われた方がしっくりくる顔立ちをした母。
 小学校の時、仕事が忙しい中、せっかく授業参観に来てくれたのに、友達の母親と比べて若すぎる事を「気持ち悪い」と言ってしまい、泣かせてしまった母。
 ちょっと熱が出たらすぐに薬を持ってきて学校に休みの電話を入れようとするし、夜遅くなる時など必ず電話して帰宅時間を言わないとすぐ拗ねて涙目で抗議する。たっぷりと豊かで重たいバストにぎゅっと抱き締めて「けーちゃん、好きよ。愛してる」なんて言うのは日常茶飯事で、高校生にもなる息子にそんなマネをする母親なんていうのはハッキリ言って異常だった。
 バストよりウエストの方が遥かに豊かになった健司の母親がそんなマネをすると気持ち悪いだけだが、圭介の母親はそういうマネが妙に似合ってしまう分、ずっと質(たち)が悪い。
『でもなぁ…………』
 自分があの時、高熱で死にかけた事を、母はまだ忘れられなくて、そしてそれを今でもまだ恐れている。
 それがわかるからこそ、圭介も母親を邪険には出来ずにいるのだった。
 もし自分が息子ではなく娘だったら、そうしたら、母親ともっと正直に向き合えたのだろうか?
「けーちゃん?」
 圭介がふと気が付くと、健司と由香が心配そうに顔を覗き込んでいた。いつの間か立ち止まり、じっとアスファルトを見ていたらしい。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
「でも、すごい汗だよ?」
「天気いいから、な」
「でも…………」
「本当に大丈夫だって。マジ体調悪かったら、ちゃんとそう言うよ」
 去年、風邪を引いて、それでも展覧会が近かったから無理に登校して、美術部の部活動時間に倒れてしまった時、由香は保健室のベッドの横でずっと泣いていた。泣かれるだけでも勘弁して欲しいのに、泣きながら「けーちゃんのバカ」と言われ続けるのは、精神的に堪える。
『けど…………あ〜…………こりゃ…………やべぇ…………かも…………』
 視界の中で、アスファルトが歪む。気だるさが全身を襲い、一歩一歩踏みしめる足が異様に重い。痛みは無いけれど、意識に薄い膜がかかったようで、現実感が乏しかった。にもかかわらず、どきんどきんと心臓の鼓動がいやに大きく聞こえ、体中を嫌な汗がじっとりと濡らす。
「けーちゃん、アナゴだよ」
 健司の声に顔を上げれば、校門の所に生活指導の教師が2人立っていた。
 一人は3年の担任で、圭介には、あまり馴染みは無い教師だったが、もう一人は見覚えがある顔だった。いや、見覚えなんてものじゃない。イヤになるくらい馴染みのある顔だ。
 買い物しに街まで出掛けていながらお金を財布ごと忘れてしまうよう愉快な(これを「愉快」というかどうかはかなり微妙な時代になったと思うけれど)主婦を主人公にした、日本人ならたぶん誰でも知っている国民的アニメがある。そのアニメに出て来る、主人公の夫の同僚に良く似ていることから、生徒からはそのキャラクターの名前で「アナゴ」とか、演じている声優の名前から「ノリオ」とか呼ばれている教師だった。
「どうした山中?ん?体調でも悪いのか?」
 分厚い唇を歪め、角刈り気味に切った髪には「必要ないんじゃないか?」といつも思う整髪料をべっとりとつけて、40代の中年教師が圭介に言った。その言いようは、言われた相手にもれなく不快感を与えるくらい尊大で横柄だ。若い頃は生徒の生活が“乱れ”ないよう『指導』する事に人生をかけていたけれど、いつの間にかその情熱が惰性に代わり、手段と目的がすっかり入れ替わってしまった………………と言われたら思わず納得してしまうような、そんな目をしていた。
「高尾先生…………」
 由香が何か言おうとするのを止めて、圭介は背中をしゃんと伸ばして正面から教師を見上げた。昭和30年代生まれのくせに身長が180近くもある(偏見だ)教師には、どうしても見上げるしかなくなってしまう。それでも、この教師に弱味など見せたくなかった。
「いやぁ…………更年期障害っすよ」
「17でもう年か?体を鍛えんからだ。チマチマと絵なんぞ描いてるから体から先に老ける」
「それって偏見じゃないすか?はるかちゃんに言いつけますよ?」
 自分がこの教師に持っている偏見を心の棚に置いて、圭介は「反抗的」と書かれた矢でも射そうな目で見上げる。口調がなんだか妙に蓮っ葉なのは、この教師に対する時の圭介のクセみたいなものだ。前に健司に聞かれた時は、「マトモな口を利くのもイヤだって体が拒否してるんだ」と妙な屁理屈をこねていた。
「自分の担任をちゃん付けするなと言っとるだろう」
「あれ?ヤキモチっすか?」
「たわけ。お前のように、無駄に人生を送ってるようなヤツに軽く扱われるような人間は、この学校にはおらん」
 わざわざ『無駄に』の所にアクセントを置いて、アナゴは“ふんっ”と鼻を鳴らした。
「無駄じゃないっすよ」
「無駄だ。絵なんぞ描いとる暇があるなら、体を鍛えるなり勉強するなりしろ。くだらない事で人生を無駄にするな」
「へぇ〜〜…………くだらないねぇ…………」
 軽い感じで口を開いているけれど、目が笑っていない。アナゴが暗に「絵を描くのはくだらない事だ」と言った事に、本気で怒っているのだ。

 毎度、顔を合わせるたびに応酬される2人の言い合いに、由香と健司だけでなく周囲にいた登校途中の生徒までがうんざりとした顔をする。一回りも二回りも年の違う経験豊富で老獪な中年教師に、たかだか17年しか生きていない少年が口で敵うはずも無いのだけれど、圭介にそれを言っても無駄だと幼馴染の2人は早々に理解し、それ以来、大人しく事の成り行きを眺めるだけにしているのだった。

 中学の時、陸上部に所属してた圭介は、そこそこ良い成績を残していた。卒業式直前の休みに由香と行った展覧会で、一枚の絵と運命的な出会いをしなければ、圭介自身、高校でも陸上をやっていただろう…………と、自分でも思っている。
 陸上部の顧問を担当しているアナゴは、そんな圭介に入学当時から目をつけていたらしく、実際、何度か直接誘われた事があった。けれど圭介はあっさりとその誘いを断り、陸上部ではなく、あまり人気も無い上に部員も6人しかいない美術部を選んだのだった。
 問題はその後で、何度目かの勧誘の時、些細な口論からアナゴが洩らした「絵なんぞ書いていても無駄だ。お前に才能は無い」という言葉に、「うるせぇクソジジィ!」と叫んだのがまずかった。
 きっとアナゴはその時の事を、まだ根に持っているに違いない。少なくとも圭介はそう思っている。
 なにせ一年以上も、なにかと圭介の事を目の敵のように扱うのだから。

「はるかちゃん、今年から美術部の副顧問になったの知ってるっしょ?んな古臭い事、言っていいんすかね?」
「オマエには関係無いだろう?おら、ボタンを留めんか!」
「さわんな!」
 手を伸ばしてくるアナゴを睨みつけ、圭介は胸元のボタンを右手で握った。アナゴの背後ではもう一人の教師が、「まだやってるのか」という顔をしてこちらを見ている。けれど見ているだけだ。この2人の口論に口を出す教師は、この学校には一人もいない。口を出しても無駄だという事が、よおくわかっているからだった。
「…………あんまり世話を焼かせるな。また親を呼んでもいいんだぞ?」
「卑怯くせぇな。今月に入ってそのセリフ、7回も使ってんぞ」
「男のクセに細かいヤツだな?…………あんまり小さい事言ってると、背が縮むぞ?」
「なっ!?」
「まあ、それ以上縮みようも無いだろうがな」
「んだとコラ!」
「けーちゃん!」
 気色ばむ圭介に、由香がしがみ付いて腕を引いた。気がつくと、いつの間にか健司もさりげなく圭介の左前にいて、いつでも圭介とアナゴの両方を止められるように立っている。
 健司は、圭介が実際に手を出す事は無いとは思っているが、子供の頃、やたらと喧嘩っ早かった圭介もよぉく知っている彼は、いつもこうして圭介が熱くなり過ぎないようにフォローするのが役目となっていた。
 しかも、アナゴは圭介に対して身長の事を口にした。
 この話題は、圭介には禁句なのだと知っていて。
 健司は、しがみつく由香を振り解こうとして、けれど乱暴には出来なくて苦々しい顔でいる圭介を見ながら、
『結局、根っこのところでは良く似てるんだこの二人は』
 と、思った。
「先生、そろそろ始業時間ですから、もう行っていいですか?」
「コラ健司!ナニ勝手にぬかしてんだ!」
「はいはい、けーちゃん、わかったわかった」
「わかってねー!おいっ!下ろせバカ!」
 ひょいっと圭介を担ぎ上げ、健司がにこやかに軽く会釈する。毒気を抜かれたアナゴは小さく笑うと、さっさと行けとばかりに右手をひらひらさせて、登校する生徒の群れへと戻っていった。

 校舎を回り込んで校門から見えなくなると、圭介は途端に静かになった。
 微熱とはいえ、発熱が一週間も続けば、体だって結構だるいはずだ。しかも、さっきは足をもつれさせてさえいた。
 こんな状態で、よくあそこまでアナゴにつっかかっていけるものだ…………と、健司はのんびりと思った。
『昔からけーちゃんは負けず嫌いだったしなぁ…………』
 気に食わないヤツには、絶対に弱味を見せたくない。
 小学三年生で初めて会った時から、圭介は小さいなりに男のプライドを持った、子供だった。
 いじめっ子の薮本康史にも、いつも散歩で犬の糞の始末をしないニ丁目の柴オヤジ(気の荒い柴犬を飼っていたから)にも、圭介は負けなかった。言いたい事を良い、自分の正しいと思う事を通した。
 気が優しくて体も小さく、苛められっ子だった健司にとって、そんな圭介は兄貴分であり親友であり、そしてヒーローだった。圭介のようになりたかった。圭介のように、強くなりたかった。今は体も力も圭介よりも大きく強くなったけれど、もっと本質的な所で圭介にはまだまだ敵わないと思っている。
 だから、健司は圭介が好きなのだ。
 親友として、幼馴染として、そして、同じ男として。
「けーちゃんにも困ったもんだよねぇ…………」
 由香が小さく溜息を吐きながら、健司の右肩に担がれたままの圭介を見やった。
「…………うるせー…………」
 不機嫌そのもの…………といった感じの声で呟きながら、当の本人はぐったりと健司の肩にしがみついている。
「調子悪いんだから、いちいち突っかかってても仕方ないでしょ?余計悪くしちゃうぶんだけ、ソンだよ?」
「あいつはなぁ…………あいつは…………」
「『絵を馬鹿にした』」
「………………そうだ」
 由香は、苦も無く圭介を担いで歩く健司と、どちらからともなく顔を見合わせた。その顔に浮かぶのは「しょうがないね」という、まるでワガママな年下の弟を見る姉と兄の表情だ。
 陸上部でそれなりに活躍していた圭介が、ある日突然「高校に行ったら美術部に入る」と言い出した時は、2人とも結構驚いたものだ。けれど実は2人とも圭介が、身長が伸びない事で陸上競技において行き詰まりを感じている事を知っていたから、あえて止めようとは思わなかった。「陸上を続けた方がいいよ」とも、言わなかった。
 ずっと、心の奥底に重い石を抱え込んでいるような、そんな思い詰めた顔をしていた圭介が、由香と行った展覧会の日から、前みたいにまっすぐ前を見るようになり、ずっと明るくなっただけで、2人にはそれで良かったから。

 二年生用の昇降口まで来た時、後から来た男子生徒が擦れ違いざま、
「お?今日の獲物か?」
「…………別に狩りしたわけじゃないよ」
「食っても食いでは無さそうだしな」
 そう言ったのは、…………どこからどこまでも「四角い」男だった。
 角刈りにした髪に、本当に高校生か真偽を確かめたくなる顔付き。全体的に、岩を削って肌色に塗ったらこうなりました、といった感じだ。身長に比べて横幅のある体躯は、一見、太っているのか筋肉なのか判断がつかない。港町で長靴を履いて歩いていたら、そのまま漁師か魚河岸のオヤジに見られそうな男だった。
「おはよう。伸吾くん」
「おっす川野辺(かわのべ)。相変わらず仲良いな、お前ら」
 川野辺というのは由香の苗字だ。他のクラスメイトは、ちょっと言いにくいこの苗字を縮めて「のべ」とか「かわっち」とか好き勝手呼んでいるが、伸吾は律儀に「川野辺」と呼ぶ、数少ない人間なのだ。
「仲良いな、じゃないよぉ。さっきは大変だったんだから」
「んだ?またアナゴとやりあったんか?」
「そぉなの。まったくコドモなんだからけーちゃんは」
 …………男としては、制服を脱いだらきっとたぶんどこからどう見ても子供にしか見えない女の子には、絶対に言われたくないセリフNo.1に違いない。
「ははは、まあ、圭介だから」
 白い歯を見せ、意外に爽やかな笑いを浮かべながら伸吾は何が言いたいのか良くわからない事を言った。圭介がアナゴと折り合いが悪いのは、クラスの人間なら誰でも知っている事だ。校門にアナゴがいた時点で、圭介が一悶着起こすだろう事は、登校してきた時点で誰もが想像出来た事に違いない。
「ところで」
 不意に伸吾が真面目な顔で、健司に担がれたままの圭介を指差した。
「こいつ、死んでるんじゃないか?」
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