■感想など■

2009年05月07日

第1章「男と女の境界線」

■■【5】■■
 家に帰り、玄関の鍵を開けて、どうにか2階の自分の部屋まで上がったところまでは覚えている。
 けれど、圭介にはその先の記憶が無かった。
 気持ち悪い。
 胸がムカムカして、胃がぐるぐると動いているのがわかる。胃がせりあがって、何も入っていない中身をそれでも放出しようと痙攣するように震えた。なんとか制服を脱いでベッドに潜り込んだものの、圭介には、もう自分がどんな格好をしているのかさえわからなかった。
 シャツを着ているのかどうかもわからない。
 ズボンは?ベルトは外しただろうか?
 そもそも本当に自分は制服を脱いだのだろうか?
「……ぅ……んっ……」
 体の感覚が無かった。
 ただ、熱かった。
 汗の染みたシーツの中に、ずぶずぶとどこまでも沈み込んでいく気がする。
 暗闇に。
 覗き込めばそのまま見えない腕で引き擦り込まれ、2度と戻ってこられないような恐怖。

 闇に、喰われる。

 ゾッとして、全身が震えた。
 怖かった。
 こんな感覚は、もうずいぶんと感じていない。
 風邪で倒れた時も、「たかが風邪」とどこかで楽観していた。けれど今度のは違う。これは、違う。このまま自分の体がどうなってしまうのか、自分がどうなっていくのか、ただ、恐怖だけがあった。
『……健司…………由香…………』
 幼馴染の名を呼んだ。
 ぽややんとした顔や、妙に牧歌的なのほほんとした顔を思い浮かべた。
『ちくしょう……オレが苦しんでるのに、なんでオマエらは笑ってんだよ……』
 理不尽な怒りが湧き起こり、次いで、すぐにそれは哀しみに代わった。彼等が離れていく。遠ざかってゆく。
 いや。
 自分が置いていかれるのだ。
 捨てられるのだ。
 お前などもういらない、と、置き去りにされるのだ。
『待ってくれ…………待ってくれよ健司…………』
 涙が溢れた。
 置いていかれる哀しさで心が凍て付いた。
 もう、ダメなのか?
 こんなオレではダメなのか?
 もう一緒にいられないのか?
 何度叫ぶように問い掛けても、優しい笑みの幼馴染は、ただ、笑いながら去っていくだけだった。

 彼は一度、夢か現(うつつ)かはわからないけれど、自分を静かに覗き込む母の姿を見た。
「か…………さん…………オ……レ…………」
「しゃべらないで。いいの。いいのよ?今は眠りなさい」
 いつも、黒目がちで大きな優しい瞳が、どこまでも澄んだ色を映していた。今、自分の息子の体に起こっている事を全て理解し、そこには恐れなど無いのだと諭しているような瞳だった。
 額に当てられた、母の白くてほっそりとした手が、ひんやりと気持ち良かった。汗を拭い、眠りながら少し嘔吐してしまった口元を拭い、母は、子供の頃のように熱く火照った額にキスをしてくれた。それが、
 それが、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
 闇は続き、体が溶けてゆく夢を見た。
 熱が出て、体が軋む。骨が、関節が、ギシギシと音を立てて罅割れ、砕け、形を無くしていくイメージが圭介の脳を満たした。
 そしてそれは、蛹(さなぎ)になる夢に変わっていく。手も足も体も頭も、全てがどろどろに溶けて、再構成され、生まれ変わる。
 自分は「何か」に生まれ変わるのだ。その感覚だけが、不思議と理解の中にあった。

 もう、何も怖くなかった。


 目が覚めた時、窓の外には夜空が広がっていた。空には浩々と月が輝いている。
 静かだった。
 窓から見える家々には、明かりが一つもついていない。今がいったい何時なのか、知りたいと思わなかった。だから時計も見なかった。聞こえるのは時計の秒針が時を刻む音。そして、窓の外から聞こえる、近所の犬の声。
 住宅街のためか、自動車の走る音もしない。眠っている間に人類が滅びて、今、世界中で生きているのは自分だけだと言われたらそのまま信じてしまいそうだった。
 重たくて、まだ感覚の戻らない体を、ほとんど引き摺るようにして部屋を出た。長時間正座して足が痺れ、そのまま立った時の、あの全く感覚の無くなった状態に似ていた。床を確かに踏んでいる筈なのに、足にはその感覚が無いのだ。どこか、自分の足じゃない借り物のような感じがつきまとう。
 手摺に掴まって、転げ落ちないように気をつけながら階段を下りた。両親はまだ帰っていないのか、家の中は静まり返っている。眠っているのだろうか?とも思ったけれど、玄関を横切る時にクツが無い事を確かめた。
 キッチンに行くと、テーブルの上に紙があるのが見えた。読まなくてもわかる。きっと今日は帰れないとか、遅くなるとか、そういった文と「ごめんね」と「愛してる」の文字達が“いつものように”綴られているのだろう。やはりさっき見た母は夢だったのだ。……いや、それとも一度帰ってきて、それから再び仕事に出掛けたのだろうか?
 どちらでもいい。
 今はただ、喉がひりついて痛かった。
 シンクに寄りかかって水道の蛇口を開き、コップに水を注いで一口飲んだ。すると、今まで感じた事の無いような喉の渇きを感じてそのまま立て続けに3杯の水を飲み、そして咽(むせ)て、体を折りながら床に膝をついた。
 まだ、体が熱い。
「……どう……なっちまったんだ?……俺……」
 ひゅうひゅうと、喉が鳴った。自分の声と思えなかった。甲高くて、声を出すだけで声帯がじんじんと痛む。鈍い全身の感覚の中で、喉の痛みだけが、これが現実なのだと教えてくれているようだ。
「……カッ……けへっ…………っ…………」
 咳き込みながら立ち上がり、グラスをシンクに置くと、圭介はトイレに向かった。尿意はほとんど無い。膀胱……というか、膀胱と陰茎の間に妙な違和感がある。何かが詰まっているような、逆に何かが抜け落ちてしまったような、不思議な感覚だ。
 トイレに入り、洋式便器の蓋を上げて、そこでようやく圭介は、自分が身に着けているのがTシャツとトランクスだけだという事に気付いた。両方共、汗を吸ってぐっしょりと濡れている。たぶん、冷えて冷たいのだろうけれど、その感覚さえも希薄だった。
「…………おい……ぉぃ…………」
 いつものようにトランクスの横から指で性器を引き出そうとして、思わず声が漏れた。
 陰茎が、小さく縮み上がっている。指で触れた感じは、まるで小学生のモノみたいだ。親指の三分の二くらいの長さと太さしか無い。
『……やべ…………高熱が続くと、インポになるとか聞いたな』
 陰茎も縮んで小さくなるのだろうか?
『…………やだな…………』
 トランクスの横から外に引き出せなくて、仕方ないので下着は脱いで「大」の方をする時みたいに便座に座って用を足した。親指よりちょっと小さい陰茎を指でちょっと押さえながら放尿する自分に、圭介は情けなくて思わず苦笑してしまう。小学生の頃は、上手に便器に放尿出来なくて、よくこうして女の子みたいに便座に座って用を足した事を思い出したのだ。
『オレは……あの頃からなにも変わってねーや…………』
 健司も由香も、どんどん変わってゆく。
 変わらないのは自分だけだ。
 それを、強く強く感じる。
 変わりたい。
 本当は、圭介も変わりたいのだ。
 けれど、どうすればいいのか、それが全くわからなかった。
『……いや……』
 きっとわかっているんだろう。
 でも、わかろうとしないだけなのだ。
『ほんと…………ガキの頃から進歩してねーよな…………』
 健司や由香を護りたくて、本当は怖くて仕方ないのにカッコだけつけて強がって見せた、あの頃と。

 便座から立ち上がる時、膀胱に残っていたらしい尿が不意に漏れて、太股とトランクスを濡らしてしまった。高校に上がってまでオモラシをしてしまう自分を恥ずかしく思ったけれど、こういう状態なら仕方ない……と無理矢理自分を納得させる事にする。でも、小学校5年生までオネショをしていた健司を、これではもう笑えない。
 2階で着替えてから、また階下の脱衣所に戻ってくるのは難しそうだった。だから、家に誰もいない事をいいことに洗濯カゴへ下着を放り込んで、下半身裸のまま2階へ上がる。なんとも情けない格好だけれど、背に腹は代えられないというのはまさにこの事だ。
「ふう…………ふぅ…………」
 息が上がる。部屋に戻って新しい下着を履き、シャツを脱いでパジャマに着替える頃には、もう体力が残っていなかった。体の中が全部、どろどろとした泥に変わってしまったような気がする。
 ベッドに倒れ込むようにして寝転がると、毛布を被った。
 あっという間に意識を持っていかれる。
 夢も見ない闇の中、圭介は、ギシギシと体が軋み、内臓をかき回されるような不快感に全身を震わせていた。
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