■感想など■

2009年05月13日

第2章「今日からオレは!」

■■【5】■■
 息子が突然娘になってしまった事について、母は特に気にしていないようだった。目覚めてからずっと聞かされた話で、事の概要は理解したつもりだけれど、それでも、もうちょっと哀しんでくれてもいい気がする。
 これで悲嘆に暮れて自殺でもしたらどうするつもりだったのか、圭介が少し不機嫌に言うと、
「そのための『ネクタル』よ」
 と言ってにこにこと微笑んだ。

 『ネクタル』というのはギリシャ(ヘレネス)神話に出て来る神々の飲み物であり、不死の酒の事だ。同じく神の食べ物の『アムブロシア』と共に、全能の神「ゼウス」から眷属の神々に振舞われたり、神々の子供達に与えられたりする、神話上の飲み物と言われている。
 ……が、もちろん実際は、そんな伝説の飲み物が現実に存在する筈もなく、『ネクタル』というのは母があの液体に、勝手に名付けた名前らしかった。圭介が夢現(ゆめうつつ)をさまよい、意識混濁の時、母が飲ませてくれた「蜂蜜みたいなトロリとした金色の液体」と「やたらと喉越しの爽やかな水」が、共に母の言うところの『ネクタル』であり、どちらも基本的には似たようなもので、その時の肉体の状態によってどちらを与えるかを変えたのだという。

「で、それって大丈夫なの?」
 圭介が、風呂に入ってさっぱりした身体で、覚醒した状態では3日ぶりとなる食事を口に運びながらそう聞くと、母は傷ついた!という顔をして唇を突き出し、
「お母さんが、可愛いけーちゃんに危ないもの食べさせたり飲ませたりした事があった?」
 と大変憤慨あそばされた。
 圭介はキッチンのテーブルに載った母のたっぷりとした胸を見て、それから母の真剣な目をちらっと見て。
「おかわり」
 と、卵粥の2杯目を所望した。
 本当は、時々テーブルに現れる、生焼けのホットケーキや塩の入ったミルクセーキは危ないものじゃないのか、膝を突き合わせてじっくり聞いてみたい気もしたけれど、きっとたぶん「愛情がこもってるからいいの」などと言って煙に撒かれるのは目に見えていたので、ちゃんと無視しておいた。
 たぶん、実際には栄養剤とか、精神安定剤とか、そういうものなんだろうと、圭介は思っているのだが。
 とにもかくにも、圭介が必要以上に悲嘆したり、発作的に世を儚(はかな)んで自殺したりしなかったのは、その『ネクタル』のおかげらしかった。
「ね?ね?お母さんだって、ちゃんと考えてるのよ?」
 そう言って、『どーん!』と白いブラウスを突き破るのではないかと思うくらい突出した、豊かで重たげな胸を張って得意げに言う母を見て、それでも安心出来る人間は、きっとそうはいないに違いないけれど……と、圭介はひっそりと思った。


 そんな母だったが、圭介が寝込んでいる間に買い物をしておいたのか、下着から何から女モノをちゃっかり用意しておいてくれたのには、本気で、ちょっと……絶句したものだ。しかもサイズは測ったようにピッタリだった。眠っている間に身体を拭いた……とか言っていたから、きっとその時にでもサイズを測ったのだろう……と圭介は思ったけれど。
 確かに、正直に言えばズボンを履いていると、トランクスだと股間に当たる硬い布地があの『肉の裂け目』に食い込んで、時々……ホントに時々、すごく痛くなったから、女モノの柔らかい下着は…………不本意ながら、ありがたかった。
 そう思っていた。
 実際に履いてみるまでは。
「さ、履いてみて」
 食事が終わった後で、にこにこと満面の笑みで言われながら、駅前の大きなデパートの紙袋に入った、それなりに有名なメーカーの下着を母から受け取った時、圭介はたぶんきっと死刑宣告を受けた囚人みたいな顔をしていたのだと思う。

 これを履いたら、もう戻れない。

 そんな気分だったのは確かだ。
「覗かないでよ?」
 そう言って、圭介は部屋に入り、袋から下着を取り出して広げてみた。光に透ける白い布地のそれは、少年漫画でよく「パンティ」とか「ショーツ」とか「スキャンティ」とか呼ばれてる、圭介が想像していたような、過度な細かい刺繍で彩られた色っぽい下着などではなかった。サイドも幅があって、まるで前に穴が開いていないブリーフみたいだった。もっとブリーフとの違いが顕著なのは、布地が想像していたよりもずっと薄い事だった。
 圭介は一呼吸すると、意を決してパジャマごとトランクスを脱いだ。脱ぐ直前、あたりをきょろきょろと見てしまい、自分の部屋なのに何をそんなに警戒しているのか、自分で自分が可笑しくなった。骨盤が張って、お尻の肉が、男だった時よりもむっちりと付いているため、その肉を全部包むようにして下着に押し込む。腰骨の位置がなんだか微妙なためか、ゴムが当たる部分がよくわからないけれど、たぶんこんな感じだろう……と適当に引き上げた。
「…………ヘン……」
 鏡に映して見てみた自分の姿に、圭介は顔をしかめて溜息をついた。正面から見ると、前が膨らんでいない股間がこんなにも頼り無く見えるとは思わなかった。それに、なんだか今にもずり落ちそうで、どうにも心もとない。
 くるっと背中を向けてパジャマの上着を捲り上げ、お尻を鏡に映してみる。そんなに大きくないけれど、それでも男だった時から比べると明らかに大きい。ぽってりとしたお尻の肉は決して垂れてなどいないものの、下着からむちっとはみ出た肉が、なんだかすごく恥ずかしくて、圭介は下着の端を指できゅっと引っ張って、隠した。
 その瞬間。
 圭介は、突然感じたのだった。
『ああ、もう、戻れないんだな……』
 鏡の中でパジャマの上と下着だけの姿で立ち尽くす少女は、肩を落として今にも泣き出しそうな顔をしていた。

         §         §         §

 こうまで用意周到では、息子が女になったのを気にしていないどころではない。やはり、母はむしろ喜んでいるのではないのか?……と、圭介は思った。
 けれど、それに対して圭介は、一抹の寂しさと共に「女親なんてこんなものか」と、思ったりもした。
 過保護に纏わりつく自分を疎ましく思う息子よりも、一緒に何か出来る……出来そうな娘の方が、やっぱりいいのだろう……と。

 ところが、目が覚めて3日目の夜、リビングのソファで寝入ってしまった時、圭介は見てしまった。
 消えたテレビに映る、母の顔を。
 母は、辛そうだった。
 これ以上ないくらい、哀しそうだった。
 それも、ただの哀しみようではなかった。息子の境遇を思い、痛ましさに胸が張り裂けそうな、聖母マリアのような顔をしていた(もちろん、実際に見た事なんて無かったけれど)。
 母は、息子が薄目を開けてテレビの画面に映った自分の顔を見ているなんて、ちっとも気付いていないのだろう。
 顔を歪め、唇を震わせて、母は、息子の後姿をじっと見つめていた。
 圭介がいたたまれずにもぞもぞと身体を動かすと、慌てて欠伸したようなポーズを取り、
「お母さん、眠いから、もう寝ない?」
 と言って、優しく圭介の細い肩を揺すってくれた。

 胸が、痛かった。

 圭介がそばにいる時はいつもにこにこして、嬉しそうで、悩みなんてこれっぽちも無さそうな母だったのに。
 思えば、テレビの収録やマスコミの取材などでいつも忙しそうな母が、圭介が寝込んでからずっと側にいてくれたのだ。超が付くくらい過保護で子離れ出来ていない“減点ママ”なのは変わらないけれど、いや、むしろ加速しているような気もするけれど、今までなら圭介が目覚め、身体的には異常が無いとわかった時点で、仕事に戻っていただろうに。
 ただ能天気に、息子の肉体が『固定化』したことを喜んでいたわけではなかったのだ。
 肉体的に精神的にもまだまだ不安定な圭介を、一番近いところで見つめ、癒し、そして慈しむために、息子の姿がどうあれ、全てを受け入れるために、母にも時間が必要だったのだろう。
 そして、そばに能天気で何も考えていないような明るい人間がいると、大抵の人間は暗く落ち込む事なんて出来なくなるということを、母は知っていた。能天気な人間に引き摺られて、悩んでいることそのものが馬鹿らしくなるか、または、能天気な人間に対して呆れや怒り、または反発心からくる発奮を感じるようになる。いずれにしろ、暗いエネルギーを維持出来なくなるのだ。
 だからこそ、母はあの話をしてからずっと、能天気で何も考えていない母を演じ続けてきたのだろう。
 母の言葉は、嘘では無かったのだ。圭介はそう、思った。
『信じて欲しいのは、お母さんがけーちゃんの事を愛しているってこと』
 あの言葉が、胸を締め付けた。
 もちろん、何も考えていない能天気で明るい母が地じゃないなんてことを、圭介はとても否定なんて出来やしなかったのだけれど。

 圭介は、珍しく母に「おやすみなさい……お母さん」と告げ、階段を上がった。
 「おやすみ」でも「おやすみ、母さん」でもなかった。
 小学生の頃、母の胸に抱かれながらキスのお返しをして、そして甘えるように言った言葉だった。
 まだ、キスは出来ないけれど、
 母からキスされるのも照れ臭くて嫌だけれど、
 でも、ようやく母と、ちゃんと向き合えるようになれるのかもしれない……と思った。
 母は、いつものように優しく微笑んで、
「おやすみなさい、けーちゃん」
 と言った。
 その声を聞いた時、圭介は感じた。
 あの日、目覚めてから聞いた母の言葉を、ようやく冷静に振り返る事が出来そうだ……と。
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