■感想など■

2009年06月16日

第8章「初めてのボクの下着」

■■【2】■■
 婦人服売り場の階段横の椅子で、圭介はぐったりと背もたれに身を預けていた。
 由香が、水に浸したハンカチを目に被せてくれる。ひんやりと冷たくて気持ちよくて、いい匂いがした。
 由香の匂いだった。
「だいじょうぶ?」
「…………へーき……」
「平気じゃないじゃない……」
 由香は、「しょうがないな」とでも言いたそうな口調でそう言うと、なでなでと圭介の頭を撫でた。
「……なんだよ」
「ん…………なんとなく」
「……ガキ扱いすんな」
「……イヤ?じゃあ、やめるけど」
 彼が「う〜」とか「あ〜」とか言ったようだけれど、特にやめろと言われなかったので、由香は彼のさらさらの髪を撫で続けた。真黒でツヤツヤで、そして柔らかい。見た感じ、枝毛がぜんぜん無いのがすごく羨ましかった。引っ張ってやろうかと由香は思ったけれど、抜けたら嫌だし、第一もったいないのでやめておいた。
 『女の子なんだなぁ』と、唐突に思う。
 小学校3年生の時から見続けて来た、あの強くて優しくていぢわるでずるくてちょっと乱暴で、でも大好きな男の子の圭介は、もうここにはいない。ここにいるのは、強くて優しくていぢわるでずるくてちょっと乱暴で、でも大好きな女の子だ。
 体が変わり、周囲の目が変わり、それでも彼自身の根本的な部分は何も変わっていないように思える。さっきだって、自分の気分が悪いのに懸命に護ってくれた。押し付けられた胸はやわらかかったけれど、引っ張ってくれた手は白くて細くて頼り無かったけれど、でも、彼は彼だった。
「ね、けーちゃん。そのままで聞いて」
「……うん?」
「あのね?けーちゃん、自分の体、嫌い?」
 長い沈黙があった。
 由香がじっと黙っていると、やがて観念したように圭介が口を開いた。
「…………なんだよ突然……」
「いいから答えて」
「………………あんまり……好きじゃねーな。…………いろいろめんどくせーし」
「そう……」
『もし生理が始まったら、もっともっと面倒になるんだよ?』
 由香はそう言いたかったけれど、今の、ぐったりして弱々(よわよわ)に弱った圭介には鞭打つみたいで気が引けた。
「……なんでそんな事、今になって聞くんだ?」
「なんとなく」
「なんとなくって…………」
「ね、けーちゃん。けーちゃんは女の子の体とか、胸がおっきいのとか、イヤみたいだけど、自分の身体の特徴……というか、自分で欠点だって思ってる部分を『チャームポイント』にするのも、『デメリット』にするのも、結局はけーちゃんの考え方一つなんだよ?」
「…………そうか?」
「そうだよ。けーちゃん、私の体、どう思う?」
「どう……って…………」
「ちっちゃいでしょ?それに胸もぺったぺただし、ウエストは締まってないし、お尻も……その……ちっちゃい」
 ハンカチを載せているので由香の顔は圭介には見えなかったけれど、圭介には彼女の顔が赤くなってるのが、声でわかった。
「ハッキリ言って、幼児体型……でしょ?」
「…………あ〜〜……」
「いいよ。ホントにそうだもん。でも、ちっちゃいってのは本当だし、中学生みたいだってのも本当」
 圭介は思わず『小学生でも通るぞ』と言いかけたけど、黙っておいた。
「でも、ちっちゃくて子供っぽいから、初対面でもあんまり警戒されないし、子供と仲良くなるのも早いんだよぉ?」
「精神年齢がいっしょだからだろ?」
「ちゃかさないの」
「へいへい」
「洋服も、そりゃあ確かにオトナっぽい感じのは似合わないけど、でもサイズがあんまり変わらないから、昔の服だって着れるし」
 デザインはどうなんだ?……とツッコミたいのを、圭介は堪えた。
「なんか後ろ向き過ぎねぇ?」
「いいの。それに、さっきみたいにけーちゃんに庇(かば)ってもらえちゃったりもするし」
「ばか」
「ふふふ……」
 由香は椅子の背もたれに圭介みたく体を預けると、少し汚れた、階段の踊り場の天井を見た。ぐてーとだらしなく両足を投げ出している2人の少女を、通りすがりの女性が訝しげに眺めていく。
「……オレの体は、どう考えれば『チャームポイント』になるんだ?」
「すごく女の子っぽい」
「…………それっていいことなのかよ」
「可愛くてグラマーだと、男の子がいろいろ無理聞いてくれるよ?」
「下心ありありでな」
「いや?」
「キモチワリイ」
「だよね」
「コラ」
「でもいいんだよそれで。下心のある男の子は、可愛い女の子のお願いを聞いてあげるのが好きなの。可愛い女の子のお願いを聞いて、『女の子の言うことを聞いてやる僕って、なんて優しいんだろう』って思うのが好きなの。自己満足が大好きなんだよ。だから無理言ってもいいの。自己満足させてあげてるんだから」
「…………ひでぇ……」
「そう?」
「…………じゃあ、オレもそうだったのか?オレの事も…………そう思ってたのか?」
 恐る恐る言う彼が、可愛くて愛しくて、由香は思わず“ぎゅっ”としたくなった。けれどそんな事は出来ないので、ぐったりした彼の左手を右手でそっと握る。細くて白くてちっちゃくて、爪が丸くて可愛い手がびくっと震えた。ちょっとびっくりしたみたいだったけれど、彼は振り解(ほど)いたりはしなかった。
「けーちゃんは違うよ」
「どこが」
「だってけーちゃんは下心なんか無かったもん。『由香ってばかだなぁ』『オマエってトロイなぁ』『仕方ないなぁ』『ぐずぐずすんなよぉ』…………いっつもいぢわるな言い方ばっかりして、ほかの女の子にだって、いっつも乱暴な言い方ばっかり。でも、そんな人は下心なんて無いの」
「…………わかんねーだろ?わざとそういう言い方して、隙を作る作戦だったのかもしんねーだろ?」
「それはないよ」
「なんで?」
「けーちゃん、そんなに器用じゃないもん」
「…………馬鹿ってことかよ」
 ちっと行儀悪く舌打ちする圭介に、由香は本当におかしそうにくすくすと笑った。
「違うよ。けーちゃんは、優しいの。きっとたぶん誰にでも優しいんだよ。でも、優しい自分が照れ臭くて、そう思われるのが恥ずかしいから乱暴な口調になっちゃうの」
「………………………………なんでそんな事がわかるんだよ」
「わかるよ。だってずっとけーちゃんだけ見てきたんだもん」
 目の前を小さな子の手を引いた若い母親が通り過ぎてゆく。こどもが圭介の胸を指差して「おっぱい!」と嬉しそうに言うのを、由香はなんとなく微笑んで見ていた。
『けーちゃんのお嫁さんになりたいな』
 そう思っていた自分が、ひどく遠く感じる。
「ねえけーちゃん」
「……うん?」
「そろそろ、その『オレ』ってゆーの、やめない?」
 圭介が、息を飲んだ。
 彼女はそれに気付かなかったように少し深めに息を吸い込む。
「けーちゃん、もう胸もそんなにふくらんで、髪もさらさらで、手も肩も首も足首だって細くて華奢(きゃしゃ)で、どこからどうみても女の子だもん。女の子が『オレ』なんて言ってるの、ヘンだよ?目立っちゃうよ?さっき電車の中でみんなが見てたのって、けーちゃんが乱暴な口調だったからじゃないかな?けーちゃんは男の子だった時の事をずっとずっと忘れたくないから、だからずっと乱暴な口調でいるのかもしれないけど、すごく可愛い子がすごく乱暴な口調で『オレ』って言ってると、やっぱり嫌な事言うオトナだっていると思うし、みんなだってずっとずっとどう接してたらいいのかわかんないと思う」
 そこまで言うと、由香は圭介の顔を見た。桜色の可愛らしい唇が、への字にひん曲がっていた。
 圭介はハンカチの下で瞼(まぶた)を開き、見えない天井を見上げた。
 真っ白いものしか、見えなかった。
「『私(わたし)』にしない?」
 圭介は、さっきの電車の中の出来事を、彼女に一つも説明出来ないもどかしさを感じていた。
 いっそのこと、由香に全てを話せたらどんなにか楽だろう?
 確かに由香の言う通りだった。口調まで女らしくすると、身も心もどんどん女になってゆく……『女でいること』にどんどん馴染んでいって、もう男に戻りたい気持ちとか、男だった頃の記憶とか、そういうものが今よりもっともっと希薄になって、17年間の自分を自分で“無いもの”としてしまうんじゃないだろうか?……そう思っていたのだ。
 男であったこと……もとはちゃんとした男だったことを、ずっとずっと忘れたくなかったのだ。

 けれど。

 ……けれど、それももう限界なのかもしれない……。
 圭介はハンカチの下で瞼を閉じて、小さく息を吐いた。
「…………どうしても?」
「『あたし』でもいいし『あたい』でもいいけど、『オレ』はだめ」
 ひん曲がった圭介の“への字口”が、何か言いたげにむにむにと動く。
「……あ……」
「あ?」
「あた…………あた…………」
「…………?……」
「あた……あたあた…………あたた…………」
 ……なんだか世紀末救世主伝説の幕が上がりそうだった。
 どうしても「あたし」と言えない圭介に、由香はくすくすと笑って、
「じゃあ、『ボク』は?」
「……やだよそんな子供っぽい」
「じゃあ『私』」
 由香が圭介の左手を“きゅっ”と握った。
 逃げ道は残されていなかった。絶体絶命の崖っぷちだ。
 そして、長い長い逡巡を経て、
「…………ボク……」
 圭介はようやくそれだけを口にしたのだった。
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