■感想など■

2009年06月22日

第9章「イヴの目覚め」

■■【1】■■
 山ほどの試供品とカタログと、化粧水と乳液と、それに敏感肌用低刺激石鹸を入れた手提げ袋を抱えながら、由香は駅のホームのベンチに圭介と一緒に座っていた。
 駅のホームは、夜の8時近くにもなれば、人影もぐっと少なくなる。
 もうすぐ19時52分発の普通列車が到着する予定だ。学校帰り……と言うには、少し遅い時間かもしれない。
 繁華街にはまだまだ人はたくさんいて、圭介がそこを避けて通ったために、本当ならデパートから10分くらいで着くところを、20分近くもかかってしまったのだ。
 買い物の前にデパートのトイレで、胃の中身を全部吐き出してしまった圭介は、お腹が空いているのか、妙に無口だった。せっかく彼のために試供品をいっぱいもらってきたのに、由香にはそれを渡すきっかけが無かった。普段使わない乳液まで奮発(ふんぱつ)して買ったのだから、出来ればこれからちょっと家にお邪魔して、彼の顔にいろいろしてあげたかったのに。
 それに、彼がどんな下着を買ったのか、由香は知らない。見せてくれないから。
「ちゃんと可愛いの、買った?」
 と聞けば、
「うん」
 と、ちょっと憮然とした顔で返事するし、
「もしかして、ものすごくえっちなの買ったの?」
 と聞けば、
「ばっ……ばばば……ばかっ……んな事あるかっ!」
 と顔を真っ赤にしながらもちゃんと答えるから、彼をほったらかしにした事を怒ってるわけではなさそうだった。もっとも、肌の状態を診てもらった上、スキンケアのテストやちょっとしたメイクまでしてもらったから予定よりずっと時間がかかってしまった…………なんてことは、とてもとても言えないのだけれど。
「ねえ、けーちゃん」
「んー?」
 横に座る圭介の顔をちらちらと見ながら言うと、彼は気の無い返事をしながら唇をむにむにと動かした。これは、何かを考えている時の圭介のクセのようなものだ。自分でもうまくまとまらないけれど、それでも何か答えを出したいと思っている時の。
「ん。なんでもない」
「んー……」
 電車がホームに滑り込み、少し遅れて風が圭介のセミロングの髪をなぶる。その風は、17年間も慣れ親しんだ、ホコリと排気ガスと湿気の匂いだった。ベンチから立ち上がって、出来るだけ人の少ない車両を選んで乗り込んだ圭介を、由香は少し後からついて歩く。
 車内は適当に空いていて、一日の終わりの、あの独特の気だるい雰囲気が車両に満ちていた。乗り込んできた2人に視線を向ける人は特に無く、心なしか圭介も“ほっ”としたように見える。
「まだ、人がいっぱいいるのはイヤ?」
 不意に向けられた言葉に、圭介は由香を見た。
「なんで?」
 圭介の問いに、由香は周りを見て近くに人がいない事を確かめてから少し声を潜め、
「……べつに。ただなんとなく、けーちゃん、行きの電車の中でものすごく辛そうだったし、それってやっぱり急に“オンナのコのカラダ”になったことと関係あるんじゃないかな?って思ったから。私だって、時々すごく人ごみが苦手になる時があるし、けーちゃん、デパートで吐いたでしょ?そういう経験、私にもあるから」
 ……と言った。
「…………由香も?」
「うん。あのねぇ、女の子の体って、すごくデリケートなんだよ。精神的に不安定だと、体も正直で、すぐに気分悪くなるの。自分でもイヤなんだけど、前にソラ先生が言ってた。女の子は次の世代を産むための大事な身体を護るために、男よりずっと繊細で丈夫に出来てるんだって」
「繊細で丈夫……って矛盾してない?」
「ちょっとの変化や悪環境にも反応して自分に警告を出すくらい繊細じゃないと、人は自分の身体を大事にしないから。でも、その環境にちょっとやそっとじゃ負けない丈夫さも持ってないと、子供は産めない。環境に負ける女性は消えて、そういう変化や悪環境にも耐えて子供を産める者だけが、次の世代を産む権利を得る…………って、ソラ先生は言ってたよ」
「へえ…………」
 圭介は、母と同じ『星人』である美智子の、あまり女性を感じさせない顔を思い浮かべた。そして由香の、顔に似合わない頭の良さを改めて実感する。圭介には、たとえ美智子に聞いたとしてもそれを理解して、その上でこうして誰かに伝える事なんて出来そうになかった。
 由香は、圭介がなんとなく感心しながら自分を見ている事に気付かない素振(そぶ)りで、
「あんまりムチャしないでね?」
 ……と、ポツリと呟いた。
「…………オ…………ボク、ムチャしてる?」
「うん。女の子なのに、男の子と同じ気持ちでいる」
「だってそれは……」
 『しょうがないじゃないか』という言葉を飲み込む。
 17年間男として生きてきた習慣や感覚が、そんなにすぐに変わるものではない。それに、自分でも変えるつもりは無かったのだ。
 圭介は胸を隠すようにして抱え込んだ、デパートの紙袋を見下ろした。

 女の下着。

 ランジェリー。

 レースのパンツを見ている時、綺麗で可愛くて、なんだか嬉しくなった。
 これは男だった時には考えもしなかった事だ。
 けれど、今ではその「嬉しい」という気持ちを認めている自分がいる。
『心まで、完全に女になってきている』
 そう感じる。
 少し前までは、それを「イヤだ」「気持ち悪い」「怖い」と感じる自分がいた。
 けれど、今はどうだろうか?
「もう、ムチャしないでね?」
「でも……」
「しないでね?」
 真剣な由香の眼差しが、胸を刺した。
 自分は本当に男に戻りたいのだろうか?
 それとも、女のままでいいのだろうか?

 このままでいたいと、思っているのだろうか?

『お前は健司が好きなんだ。好きで好きでたまらないから、女になった。お前の体が、健司との子供を欲しがってるんだ』
 ソラ先生の言葉が、鮮明に蘇る。
《男に戻るには、健司と物理的にも精神的にも遠く離れ、その上で他の女性に恋しなければならない》
《それが出来ないのであれば、誰でもいいから男と寝て、精液を膣内で感じた時に強烈なストレス感知を期待するしかない》
 それをまた、思い出す。
 健司と離れる事も、すぐに男とセックスする事も、両方とも出来ないのであれば、また変化するまで何ヶ月も……ひょっとしたら何年も、気長に待たなければならない。
 それまで女として生きなければならないのは、もはや決定事項のように思えた。
 母やソラ先生は、圭介が健司の子を身篭る事を期待している。今ではそう思える。もちろん、地球人の男で、圭介がそれを了承さえしていれば、たぶん誰でもいいのだろうけれど、そこでストレスを感じて男に戻ったら、今度は恐らく、由香を身篭らせる事を望むような気がした。
 由香を異性として見るのは、健司を異性として見るのと同じくらい難しいというのに。
『健司と…………セックス…………??……』
 なんだか妙な気分だ。今はまだ、健司を異性として見るには抵抗があるのだ。無意識ではどう感じているかは自分でもわからないけれど、理性の上では、まだ彼は「親友」なのだから。
『もう……慣れていくしかないのかな……』

 “女である”ことに。
 “女をやる”ということに。

 圭介は車窓の外を流れる夜の街並みに目をやりながら、小さく溜息を吐き、
「わかった」
 と、由香に呟いてみせた。

         §         §         §

 駅のトイレで一応制服に着替えてから外に出ると、駅前ロータリー広場の時計の針は、8時17分を指していた。
「すっかり遅くなっちゃったな」
「うん」
 駅前商店街は、8時を過ぎるとほとんどの店がシャッターを下ろし、閑散としてしまう。ロータリーに停まっている数台のタクシーだけが、人の生活を意識させていた。金曜ならば9時を過ぎる頃から通勤帰りの酔っ払いが増えるところだけれど、今日はまだ月曜なのだ。そのせいか、タクシーの台数も心なしか少なかった。
 今日一日で、いろんな事があったな……と、圭介はしみじみと思った。
 朝起きて、胸がE…………Gカップになってた時は、笑うしかなかった。ノーブラで学校に行って、すごく痛い思いをしたり、女子連中にもみくちゃにされたり、吉崎を追い回して張り倒したり…………。
『ソラ先生…………』
 中性的な保健教諭が、実は『星人』だったと知ったのも、まだたった9時間程度前の話なのだ。それから、『星人』のこと、自分の体のこと、この街のことなどを聞いた。今、この瞬間も、自分は『星人』達に見守られているのだろうか……。
『あんまり自覚無いけど』
 周囲を見ても、それらしい人影は無い。たぶん、それなりの設備……というか、機械でモニターしているのだろう。対象である圭介の、精神的な負担にならない程度に。
 そして昼休みには「男に戻る方法」をソラ先生に聞いた。
 それは、健司と遠く離れ、その上で他の女性に恋するか、または誰でもいいから男とセックスして、精液を膣内で感じた時に強烈なストレス感知するか……。
『ムチャ言ってくれるよな……』
 ソラ先生の、人を食ったような笑みが脳裏に浮かぶ。
 胸がGカップなんていう体格からは大きく外れたサイズになったのは、健司が「おっぱい星人」だと知っていたから、その健司に気に入られるように肉体が変化したのだと、彼女は言った。そして、それはたぶん健司の近くにいる限り、元に戻る事は無いのだろう。
 結局、今日明日どうこう出来るような問題ではないから、放課後に部活を休んで由香と遠く離れたデパートまでブラジャーを買いに行ったのだ。
 思い返すだけで頭が痛くなってくる。
 恋愛シミュレーションで言えば、数か月分のイベントを一気に消化した気分だった。

         §         §         §

「ん……ちょっと寒いね」
 ロータリーをぐるりと回りながら、由香がぶるっと身を震わせる。
「昼間降った雨のせいだろ」
「6月なのに……」
「6月だからだよ」
 横断歩道を渡り、駅前コンビニの前を横切る時、不意に由香が圭介のセーターを摘んだ。
「ね、けーちゃん。なんか買ってく?ほら、お腹減ってるでしょ?」
「いいよ。家で食うから」
 電車に乗っている時、圭介のケータイに母からメイルが届いた。家に帰っているから、早く帰りなさいというメッセージだった。買い物に行っていた事と、もうすぐ駅に着く事をメイルしておいたから、今頃晩御飯の用意をしてくれているに違いない。
 これだけお腹が減っていれば、たとえどんなとんでもない料理が出てきても、食べられるものなら全部平らげてしまえそうだ。
「山中?それに川野辺も。どうしたんだお前ら」
 ふと聞こえた声に顔を上げると、コンビニから見知った顔が出て来るところだった。
 しかも、圭介にとっては、ちょっと会いたくない相手だ。
「げっ」
「なんだ『げっ』てのは。お前ら、こんな時間までナニしてんだ」
 高校教師、高尾(アナゴ)は、生活指導主任らしく、憮然とした顔で圭介を睨み付ける。
 圭介にとっては、先日の彼からの謝罪で1年の頃からの確執が少しは和らいだとはいえ、苦手である事には変わりのない相手なのだった。
「買い物」
 手に下げた紙袋を上げて憮然と言う圭介は、アナゴの目が自分の大きく張った乳房に留まったのを見て、
「生徒のチチにキョーミあんのか?」
「いや、お前、それ……」
 アナゴとは今日、一度も顔を合わせていない。だから、話には聞いていたとしても、実際に大きくふくらんだ胸を見るのは、たぶんこれが初めてなのだろう。
「ふくれた」
「…………ふくれたぁ……?……」
「見たいのか?見るか?見せてやろーか?」
 挑発的に“ほれほれ”と胸を揺する圭介の頭に、由香が後から“ずびしっ”と“ちょっぷ”した。
「……さっさと帰れ。こんな遅くまで、こんなとこフラフラしてんじゃない。お前達、自分が女だって事、ちゃんと自覚してるか?」
「……わーってるよ」
「けーちゃん、言葉遣い」
 また“ちょっぷ”が落ちた。
 今度はちょっと強かった。
「…………わかってます」
 由香の『女の子チェック』は、目上の人への言葉遣いにも適用される厳粛(げんしゅく)なルールなのだ。
「こんばんは。高尾先生」
「おう」
 高尾(アナゴ)は由香に答えると軽く右手を上げ、
「さっさと行け」
 と横柄に言った。なんだか挙動が不審だ。
「先生は、買い物ですか?」
「ん……ああ、まあ…………いいから早く行け」
 その不審さに圭介が何か言おうとした時、
「先生?アイスはバニラが良かったですか?一応、チョコも買っておきましたけど……」
「あ」
「え?」
 アナゴの後から買い物袋をゴソゴソ覗きながら出てきた人物と、圭介達の目が合った。
 童顔の顔にソバージュの髪、黒縁眼鏡にちょっと似合っていない堅苦しいスーツ、そしてオトナっぽいローファー……。
「きゃっ!?あ、あああぁあぁぁ、山中クン?川野辺サン?」
「はるかちゃん…………ナニしてんの?」
 顔を真っ赤にして、アナゴの陰に隠れるように身を縮こまらせたのは、圭介と由香の担任のはるかだった。
「あの、あのあのあのあの、あのね、これはね、違うの。あのね、職員会議が長引いてね、それに部活の定例会があったものだから遅くなってね、それで小テストの採点もしてたら晩御飯食べそこなっちゃって、そしたら高尾先生も晩御飯まだだっておっしゃるもんだから、私、最近ちょっと料理覚えたの、煮物とか、煮魚とか、だから、その、決してやましいことなんかないのよ?ぜんぜん、そうまったく、ちょっと残念なくらい……じゃなくて、あの、そう、ええと、これは教師間のコミュニケーションを潤滑にするためのいわば」
「坂上先生。ちょっと黙ってなさい」
「はい……」
 アナゴの溜息混じりの制止に、たちまちはるかちゃんは“しゅん”としてしまった。
「へー…………」
「なんだ山中」
「いえ、べぇつぅにぃ」
 23歳のはるかちゃんと43歳のアナゴでは、親子ほども歳が違うものの、はるかちゃんが恩師の事を男として好きな事を知っている圭介としては、祝福すべきなのかもしれない。でも、面白くなかった。アナゴが4年前に奥さんを亡くしていて、今はフリーだから問題無いのだとしても、なんだか面白くなかった。
「…………言っておくが、最近ここらあたりで女子高生を相手にした変質者が目撃されてな。それの巡回も兼ねて見回ってるだけの話だ。誤解するなよ?」
「へー……ほー……ふーん……」
「…………お前の思ってるような事は一切無いんだからな」
「全然?これっぽっちも?」
「これっぽっちもだ。今後も一切、そういう事は無い」
「え〜〜〜〜〜〜…………」
 アナゴのキッパリとした言葉に、間延びした不満の声が上がる。
「坂上先生……」
「すみません……」
 圭介は、ここまで困り切ったアナゴの顔を、初めて見た気がした。
『まあ、いいか……』
 今日はこれで許してやる。
 ありがたく思え。
 そんな気分だった。
「変質者……ですか?」
 由香が、ちょっと不安そうな顔をする。
「ああ。特に乱暴をするとか、そういうんじゃないらしいが…………嘗める、らしい」
「は?嘗める?」
「……何が楽しいのか知らんが、顔を、べろべろと」
「やだっ……」
「それも背の低い子を中心にしてな。お前らも気をつけろよ?」
 『背の低い子』という言葉が引っかかったけれど、圭介と由香は一応頷いておいた。
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