■感想など■

2009年06月23日

第9章「イヴの目覚め」

■■【2】■■
 由香の家の前で彼女と別れると、圭介は夜の道を一人歩いた。
 「夜道は危ないから、パパが帰ってきたら、そしたら送ってもらおうよ」と心配そうな由香に「だいじょうぶ」と手を振って、すたすたと歩く。
「高尾先生も言ってたじゃない。その、ぺろぺろする変質者に会ったりしたら、どうするの?」
「そん時は、蹴倒して殴って捕まえてやるよ」
 そう軽口を叩いて、圭介は薄闇に紛れた。

 慣れ親しんだ道だ。危ないもなにもあるものか。

 そう思った。
 由香の家から圭介の家のある住宅街まで、ものの数分の距離だし、薄暗いとはいっても20メートル間隔で外灯も点いている。たとえ痴漢が出ようと、普通のかよわい少女ではない圭介にとって、そんなものは台所に顔を出す“茶色いヤツ”より簡単にツブしてやれると思ったし、変質者がロングコートを広げて粗末なちんちんを無理矢理見せたとしても、「指差して大笑いしてやるぜ」というくらいの余裕があった。
 両手に下げた紙袋には、右の紙袋には下着、そして左には化粧品の試供品と乳液の瓶がごっちゃりと入っている。いざとなれば左手のスナップで瓶入り紙袋を振り回し、襲撃者の頭にジャストミートしてやるだけの自信があるのだ。もちろん、少し邪魔だけれど、走って逃げる事だって出来る。
 そう。
 何も問題は無い。

 由香の家からは、煉瓦(れんが)造りの塀を曲がり、一方通行の道路標識を左に見ながらコンビニの前を通り、鶏の脚の指みたいな3つ路を左に曲がる。少し坂になってる道を上がって、次の道を左に曲がり20メートルも歩けば、そこが8年間住み慣れた我が家だった。
『コンビニが近いのは、いいよな』
 そう思いながらコンビニの前を通った時、レジの前に立っていた男と目が合った。
 圭介は慌てて目を逸らす。
 向こうは明るい店内で、こっちは暗い夜道だ。人が通ったのはわかってるだろうけれど、目が合った事まではわからないだろう。
 けれど。
『…………あ……れ?…………』
 3つ路を左に曲がったところで、後を歩く足音を聞いた。

 ぞくっ……と、背筋に震えが走った。

 ぞわぞわぞわ……と首筋の産毛が立ち上がり、“きゅっ”とお尻の穴に力がこもる。体が、足音に反応していた。
『気にするな。気のせいだ』
 そう思おうとしても、どうしても足音がついてくる気がして、震えが止まらない。
 おかしい。
 自分はもと男で、ケンカだって慣れたものではなかったか?今日だって吉崎を追い回して転ばせて、さんざん上履きで張り倒してやったではないか。大丈夫。たとえ相手が何かしようとしても、そんなヤツは吉崎みたいに

 ――――相手が抵抗しなかったからな。

 ドキン!とした。
 自分が女になってから、何回も何回も、男とケンカした。張り倒したし、蹴倒した。
 けれど、一度として相手から張り倒された事はあったか?
 蹴倒された事は、あったか?

 男の暴力に晒された事は、あったか?

 もし、後の男が変質者だったら。
 痴漢だったら。
 強姦魔だったら。
 強盗だったら。
 自分はほんとうに抵抗出来るのか?逃げられるのか?自分を護れるのか?
 10キロの米袋すら持てなくなった腕で、
 少し走るだけで息の上がってしまう体で、
 細くて華奢な足首で、
 それでも、自分は自分を護れるのか?
『…………ぅ…………』
 ぶあっと汗が吹き出た。
 背中と脇の下と胸の谷間に、汗を感じた。
『おちつけ……おちつけ……』
 コンビニの男の、やけに角張った顔が目に焼き付いて離れない。知らない顔だった。近所では見ない顔だ。
 短めの髪、ジャンパー……それから、ジーンズ…………それから…………それから………………
 思い出そうとしても思い出せない。他に特徴は無かったか?
 もし何かされたら警察に…………

 ちょっと待て、何かって、なんだ?

 電車の中の、あの感覚。
 男達の、あの欲望にまみれた想像が、現実になって襲い掛かってきたら。
 あの電車の中で、自分は何回男達に犯された?
 自分は何回、男達に好きにされた?
 どこを嘗められた?
 どこを噛まれ、引っ叩かれ、何を突っ込まれた?
 ぶるっ……と体が大きく震えた。
 あの時。
 あの電車の車内で、何人もの男達に弄ばれた胸が、じんじんと熱を持ったように疼いた。
『ちがう……想像だ。イメージだ。ホントにされたワケじゃない……』
 無理矢理キスされ、服を剥かれ、乳房を、乳首を好きに嬲られ、弄られた。あの想像。頭に流れ込んできた、痛覚さえも感じてしまいそうな、濃厚なイメージ。
 前から、後から、立ったまま、無理矢理ちんちんを根元まで突っ込まれ、好き勝手にガツガツと動かれて、泣き喚く自分に男達は何を心の中で思った?

 たっぷり注ぎ込んでやる。

 流し込んでやる。

 どろどろの精液だ。

 孕(はら)め。

 俺の子を孕め。

「……っ……」
 唾を飲み込んだ。
 “ごくっ”と大きい音がした。後の男に聞こえなかっただろうかと、心が萎縮(いしゅく)した。
 歩く速度が無意識に速まる。
 ゆるやかな坂を登る。
 その角を左だ。
 きっと足音の主は右に曲がる。
 きっとそうだ。
 別に自分の後をつけているわけじゃない。
 自分は関係無い。
 襲われたら?

 ばか!
 考えるな!

 関係無い。
 自分は襲われない。
 自分はもと男だ。
 そんな人間を襲うヤツなんていない。

『その、可愛いと……思うぜ?』

 ばかっ!吉崎てめー!出てくんなっ!
『俺だけじゃなくてさ、加原も金子も、そう思ってる』
 うるさいっ!ばかっ!ばかっ!出るなっ!

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 角を曲がった。
 あと20メートル。
 ほら、屋根が見える。青い屋根だ。明かりがついてる。母さんが帰ってきている。
 聞こえない。
 足音なんか聞こえない。
 立ち止まる。
 耳を澄ます。
 ほら、聞こえ

コツ……

「…………っ……ぅぁ…………」
 怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い……。
 女になって初めて、ただ夜の道を歩く事が怖かった。人の足音が怖かった。
 どうしようもなく体が震え、何かにすがりたかった。
『……ぁさん……母さん…………』

 声が。

 出ない。

コツ……コツ……コツ……

 身が竦む。
 動けない。
 後を振り返れない。

 馬鹿っ!走れ!走れ!

 家はすぐ目の前だ。あと15メートル無い。走って、玄関に飛び込め!

コツ……コツ……コツ……

『……け…………健司…………健司健司けんじ健司ケンジけんじけん』
 助けてくれ。
 ここに来てくれ。
 オレを護ってくれ。

 じゃないとオレはっ…………!!

「よお」
「ひっ!?」
 背中に声を掛けられて、圭介はそのちっちゃい身を縮こまらせた。
「……どこのカワイコチャンかと思ったら圭介じゃねーか。こりゃまた可愛くなったなぁ。どうだ?今夜は久しぶりに一緒に風呂に入るか?親子の語らいってヤツだな」
 能天気な口調でガハハと笑う中年の男を、圭介は良く知っていた。
 それはもう、知りすぎるくらいに良く知っていた。
「それはそうと、その紙袋はなんだ?久しぶりに我が家に帰ってきた父上に、お土産でも」
「うるせーーーーーーー!!」
 圭介のドロップキックが鳩尾に突き刺さり、男はB級香港映画のアクションばりに高速回転しながらアスファルトを転がっていった。
 容赦無かった。
 するつもりも無かった。
 せいせいした。
「ブッ殺すぞクソオヤジ!!」
 砂まみれになりながら立ち上がった圭介は、誰かがマナー違反して置いていった燃えるゴミの中へ、頭から突っ込んだ自分の父親に向けて、右手の中指を「びしっ!」と立てた。

 涙ぐんでいるのが、ちょっと可愛くてキマっていなかったけれど。
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