■感想など■

2009年06月27日

第10章「ドキッ!?女だらけの勉強会!?」

■■【1】■■

 自分には、人として大切な感情のいくつかが、すっぽりと心のどこかから抜け落ちてしまっている。

 「彼」に逢うまで、谷口健司は、いつもそんな風に思っていた。
 世界を構成しているいくつもの「きれいなもの」「きたないもの」「うつくしいもの」「みにくいもの」「しろいもの」「くろいもの」…………。
 それらにちっとも心動かされない、子供だった。
 最初にいぢめられた記憶は、幼稚園の年長組の時のものだっただろうか。
 教室で飼っていたミドリガメが、朝になったら死んでしまっていた事がある。その時、どんな顔をしていいかわからなかったから、とりあえず笑っておいた。もともと、感情を外に出すタイプではなかったし、生き物の生き死にに対しても、感情を示すのが苦手だった。
 いつも笑っていれば、みんな優しくしてくれた。先生も、父も母も、近所のおばちゃんも、にこにこと頭を撫でてくれた。
 だから、その日も同じように、笑った。

 「冷血人間」というあだ名がついた。

 ミドリガメが死んだら、笑うのではなく“泣かなくてはいけないのだ”と知った時には、もう周りに友達はいなくなってた。
 それでも、笑う事はやめられなかった。
 表情も無く黙っていると気味悪がられるけれど、笑ってさえいればみんな普通に優しかったから。
 笑顔は、とても便利だった。
 笑顔だけ張りつけておけば、たいていのコトは乗りきれた。
 そうして小学校に入学してしばらくすると、新しいあだ名がついた。

 「フク」。

 福笑いみたいに、いつも笑ってるから。
 ……毎日が楽しかったわけじゃ、ない。
 哀しいということがどういうことなのか、わからなかったから笑ってただけだ。
 自分が笑っていると周りも自然に笑ってくれるから、だから笑っていただけだ。
 本当に楽しい事なんて、一つも無かった。
 誰も自分に、ほんとうの事を教えてくやれしなかったから。
 なんとなく暮らして、なんとなく笑って、なんとなく毎日が過ぎていく。
 それでいいやと、そう思っていた。

 2年生の時に、あだ名は「キュースケ」(九官鳥)になった。

 叩いても蹴っても、筆箱を壊しても上履きを隠しても、それでも笑ってたから。
 ずっとずっと、何をされてもひたすら笑ってれば、いじめっこ達はすぐに飽きる。
 健司は、小学2年生でもうそれを学んでいた。

 豆腐屋を営んでいる父と母が、本当の両親ではないと知った時も、いつもと変わらずに笑っていた。
 兄弟喧嘩なんて滅多にしないし、両親にもどこか違和感みたいなものを感じていたから、なんとなくそうなんじゃないかとは思っていたけれど、それが事実になると、さすがにショックだった。
 けれど、2つ歳上の兄も知らなかった事を知ってしまっても、それでも健司は、いつものように笑っていた。
 こんな時、どうすればいいのか、どんな顔をすればいいのか、誰も教えてなんてくれなかったから。

 3年生になって、薮本康史(やぶもと やすし)といういじめっ子と同じクラスになった。
 いやだった。ゲンコツで人にいうことを聞かせようとするところが、たまらなくいやだった。
 でも、健司は笑った。
 笑っていれば、たとえいじめられてもそのうち飽きて別のターゲットを見つける。
 そう思っていた。
 でも、健司のどこかが、薮本という少年の何かを刺激したらしく、いつまでたってもいじめをやめてくれなかった。

 そんな時、転校生がやってきた。

 担任だったミサ子先生に案内されて教室に入ってきた背のちっちゃい子を見て、健司は「可愛い(女の)子だな」と思った。でもミサ子先生に紹介されて男の子だと知って、びっくりした。
 その上、女の子みたいな顔の事でからかった薮本と、あっという間に取っ組み合いのケンカを始めてしまい、さらに驚いた。
 クラスの中でも飛び抜けて体も大きく、ふてぶてしい顔付きの薮本に、その少年は真正面から向かっていって、鼻血を流しながら薮本が泣き出すまで彼の耳に噛み付いていた。
 「ばかだな」と思った。
 そして、ちょっとホッとした。
 明日から、きっとターゲットはあの少年になる。そうすれば、もう自分はいぢめられない。
 ずるい、考えだった。
 そして、ずるい人間はぜったいに報われない。御伽噺(おとぎばなし)でも、大昔からそう決まっている。根性の捻じ曲がった「はなさかじいさん」の隣のじじいは、最後には必ずひどいめにあうのだ。世界というものはそうでなければならないし、正しいものが報われるのは自然なカタチだったから。
 だから世界のルールどおり、ターゲットは変わらず、薮本は健司をいじめることをやめなかった。

 あの少年が、そんな健司にどうして声をかけたのか、健司にはわからない。きっと少年自身も覚えてやしないだろう。
 影が長く伸びる夕焼けの下校の時間、ゴミ箱の中に隠されていた水で濡れてぐちゃぐちゃの靴を手に持ち、それでも笑ってみせる健司に、少年は言った。

「オマエ、ばかだろ?」

 仕方ないよ。
「なんでだ?」
 だって、ケンカしてもしょうがないもん。
「悔しくないのかよ」
 悔しくなんかないよ。
「オマエ、男だろ?」
 見ればわかるでしょ?
「チンチンついてるなら、頭きたら怒れよ」
 怒ってどうにかなる?
「すっきりする」
 笑ってた方がいいよ。
「ウソつけ」

「オマエの顔、ウソっぽい」

 まっすぐ、目を見ながら言われた。
 綺麗な、目だった。
 人の心の奥の方まで見透かすような、そんな目だった。
「泣け」
 ガツンと、きた。
 頭をゲンコツで叩かれたのだと気付いた時には、視界が滲んでいた。
「泣け、ばか」
 痛いよ。
「痛くしたんだ。泣け」
 なんで、こんなことするの?
「泣きたいのに泣かないヤツは、見てて腹立つ」

 そうなのか、と思った。

 そうだったんだ、と思った。

 自分は、ずっとこうしたかったんだ。
 ずっとずっと、こうしたかったんだ。
 初めて人前で、声を上げて泣いた。涙があとからあとから溢れて、止まらなかった。
 鼻水が出た。
 涎(よだれ)が出た。
 ミドリガメが死んでも
 友達がいなくなっても
 筆箱を壊されても
 上履きを隠されても
 カスタネットを取られても
 ノートに落書きされても
 父と母が本当の両親ではないと知っても
 それでも泣かなかったのに、いつの間にか大きな声を上げしゃくりあげて、泣きじゃくっていた。
 そして少年は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった健司に
「きったねーなぁ……」
 と言いながら、それでもずっと、そばにいてくれた。
 そしてその日から、少年は健司の「兄貴分」であり「親友」であり「ヒーロー」に、なったのだ。

 健司は人と争うのが苦手で気が弱く、けれどその分、頭は良かった。
 少年は喧嘩っ早くて気が強く、勉強なんて大嫌いだった。
 正反対の2人だから、逆に惹かれたのかもしれない。
 少年は負けず嫌いで、気に食わないヤツには絶対に弱味を見せたがらなくて、だから薮本よりテストの点が低いとムキになった。その頃、少年とよく一緒にいた川野辺由香というおとなしい少女と、3人でよく勉強会なんてものをした覚えがある。真面目な健司と比べて、すぐに「飽きた!」と鉛筆を投げ出してしまう少年に、由香が「ダメだよぉぅ」と舌っ足らずな口調で窘めるのを見るのが、健司は好きだった。
 由香の家のそばで、散歩の途中に犬の糞を処理しないで放置してしまうニ丁目の柴オヤジに、少年が真っ向から向かって行った時は、彼がオヤジの連れた気の荒い「ジロウ」という柴犬に左手の服の袖を噛みつかれて力任せに振り回された。その時はさすがの少年も顔が引き攣って、泣きそうになってた。でも、それでも少年は怯まずに、柴オヤジにしつこく何度も何度も何度も何度も文句を言って、とうとう最後には由香に謝らせたのだ。

 カッコ良かった。

 ケンカも強くて駆けっ子も早くて、肝試しもへっちゃらで、ニンジンもピーマンもちゃんと食べられてクラスで一番最初に50メートル泳げるようになった少年が、健司は大好きだった。
 少年のようになりたいと思った。
 少年のように、強く、優しく、それでいて“男のプライド”ってヤツを持った男の中の男になりたかった。
 今は泣き虫で少年の後に隠れているしか出来ない自分だけれど、いつか彼と並んで一緒に闘いたいと思った。何と闘うのかわからなかったけれど、ずっと一緒にいたいと思った。
 それが出来る自分に、なりたいと思った。
 それは、中学生になっても高校生になっても、少年より背も高く力が強くなっても、それでもずっと、変わらなかった。

 でも。

 その「彼」が、ある日突然「女」になってしまった。
 いや、本当はもともと「彼」ではなく「彼女」だったのだという。
 正直に言えば…………可愛いと思った。
 ものすごくタイプだった。
 髪がさらさらのツヤツヤでちっちゃくって可愛くて、ぎゅっと抱くと折れてしまいそうで、でも気が強くて睨み付ける瞳には命の強さが満ち満ちていた。
 でも、少年は…………いや、その「少女」は、つい先日まで、自分の親友だったのだ。目指すべく目標だったのだ。ヒーローだったのだ。
 そんなのは無い……と思った。
 神様を恨んだ。
 少年さえも恨んだ。
 でも、嫌いになんて、なれなかった。
 逢うたびに少しずつ、「女」の「彼」に惹かれていく。
 話すたびに「女」の姿をした「少年」に心が奪われる。

 そして、昨日の月曜日。

 男子生徒を追いかける少年を見た。シルエットが、めちゃくちゃ変わってた。胸が“どかん”とふくらんで、“ぶるんぶるん”と揺れまくっていた。
 びっくりした。
 先週までぺったんこだったのに、なんという不意打ちだろうか。
 強烈に、「女」を感じた。
 もう、「彼」ではなく「彼女」であり、「少年」ではなく「少女」だと思った。
 でも正直を言えば、あの胸は何かの冗談だと思った。悪ふざけの好きな「彼」の、冗談なのだと。

 ……なのに。

「おー健司、先生いたか?」
 体育館に引き返すと、クラスメイトがそう声をかけた。
 はっとして、咄嗟(とっさ)に「いなかった」と言ってしまった。
 そうだ、自分は保健委員で、職員室に担任の先生を探しに行ったんだ。でも
 おっぱい。
 ……じゃなくて。渡り廊下を歩いていたら、1階の保健室の方から
 おっぱい。
 …………じゃなくて。けーちゃんが
 おっぱい。
「おい、健司、お前……大丈夫か?」
 口元を押さえ、体育館の壁に寄りかかった健司に、クラスメイトが訝しげに言った。
「大丈夫。もうすぐ俺達のクラスでしょ?準備しとこうよ。先生には後で言っておくから」
 女子は保健室で健康診断を受けるけれど、男子は体育館でまとめて受ける。まるで農場の畜産みたいに並んだ男子生徒が、流れ作業的に次々と各検査を受けていく。上半身裸になった男子生徒の汗臭い肌が、体育館のワックス輝く床板に反射していた。
『あ、そうだ』
 検便を忘れた生徒が6人もいたので、それを級長の自分が担任に報告して、指示を仰ごうと思ったのだ。
 それで職員室に行こうとして…………職員室は保健室の上で…………それで…………。

 おっぱいが。

『あれ、けーちゃん…………だよね』
 上半身裸の女生徒。
 ブラが首元にずり上がっていて、真っ白で豊かな胸が、重そうに揺れていた。
 大きくてやわらかそうで、それで、ぽっちりした2つの紅い乳首が……
『わ…………わ…………』
 健司は慌ててそのビジョンを振り払う。股間のモノが、正直過ぎるくらい正直に“反応”しようとしていたのだ。
『けーちゃんに……コーフンするなんて……』
 健司は、自分がものすごく穢れた、汚い人間だと思った。
 もし圭介に、あの「少年」に興奮してアレが勃起なんてするような事があったら、もうきっと自分は「彼」と顔を合わせられない……。

 そう思った。
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