■感想など■

2009年07月11日

第12章「お母さんになれるということ」

■■【2】■■
「じゃあ、私が行ってくるね? 2人はここで待ってて」
 そう言いながら、由香は軒下から雨の降りしきる道路へと飛び出して行った。

 帰りの通学路の出来事だ。

 放課後までずっと降り続いていた雨が上がり、部活動を早々に切り上げた圭介は、待ち合わせ場所にした2年昇降口で2人を待った。
 街で会った時の事なんて綺麗サッパリ忘れてしまいそうなくらい、いつもの髪で、いつもの眼鏡で、部長…………元美術部部長の杉林先輩に“チチ揉み”攻撃を受けたりもしながら待つことしばし。待ち合わせの時間を10分遅れて由香が来て、それからさらに5分遅れて健司が来た。
 雨が降り出す前に帰りたかったけれど、久しぶりに3人で帰ることに、他ならぬ圭介自身が浮き立っていたのかもしれない。湿った特殊舗装道路を3人でてくてくと歩きながら、圭介が一番よく喋っていた。
 そんな風に、校門を出て、ほんの数メートル歩いた時だった。

 ――雨が。

 アスファルトに、水の芝生が生えたかと思った。
 大粒で重たい雨が、“びたびた”と頬を打ち、肩を濡らし、あっというまに全身が濡れてしまう。慌てて近くの民家の軒下に逃げ込んではみたものの、学校に取って返して忘れ物の傘を借りる……という選択肢は、どうも無さそうだった。今頃、学校では圭介と同じ事を考えた傘無し人達が、壮絶なる争奪戦を繰り広げているだろうからだ。
「どうしようか……」
 健司がいつもと変わらない顔で、それでもちょっと困った声で言った。
 彼の家は、学校から一直線の道の途中にあって、ここから走れば5分もかからない。放っておいたら、きっと「じゃあ俺が家まで走ってけーちゃんと由香ちゃんの分を持ってくるよ」と言い出していたかもしれなかった。
『どうしよう……』
 久しぶりのこの時間を、もう少しすごしていたい……と圭介は思った。その圭介の顔には、寂しさが出ていたのだろうか。
 健司がそう言い出すのを防いだのは、急にゴソゴソとサブバッグに右手を突っ込んだ、由香の声だった。
「私、傘持ってるよ」
 そう言いながら、由香はピンク色の折り畳み傘を取り出した。小さく畳んであるそれを手早く「ぱんっ」と開いて、目の前でくるくると回してみせる。
「あ、じゃあ由香ちゃんそれ貸してよ。俺が」
「じゃあ、行ってくるね」
「へ?」
 健司が言いかけた言葉を由香が遮り、圭介の間抜けな声が被さる。
「健司くんの家に私が行って、借りてきてあげる」
「あ、いや、それなら俺が」
「健司くんの身体じゃ、この傘に入んないし、けーちゃんが行ったらイロイロ問題がありそうだから」
「コラ、なんだよ問題って」
「じゃあ、私が行ってくるね? 2人はここで待ってて」
 人の言う事なんて、これっぽっちも聞きやしない。由香は圭介の抗議を気持ち良いくらい無視して、軒下から雨の降りしきる道路へと飛び出して行った。
 降りしきる雨のカーテンをくぐってゆく由香の後姿を見ながら、圭介は小さく溜息をついた。
 健司の家まで、走って5分。この雨の中での由香の脚で考えても、せいぜい8分くらいの距離だ。
 往復でだいたい15分……くらいだろうか。
 それまで、ここで健司と2人で何を話せというのか……。
 話したいことは山ほどあるはずなのに、3人の時は何も考えないで話せたのに、2人っきりになると何を話したらいいのかわからなかった。
 濡れた髪を整え、少し火照る頬を俯かせて、圭介は雨粒の跳ね上がるアスファルトをみつめた。意識しないようにしようと思えば思うほど、右隣に立つ健司の存在を如実に感じてしまう。
 右に立っている健司の身体が内包している“熱”を、圭介の身体の中心が感じてしまうのだ。
 軒先から雨が滝のように落ちて、びちゃびちゃとアスファルトで跳ねる。時々、下校する生徒が圭介を見つけて手を振るけれど、隣に健司がいるためそのまま通り過ぎてゆく。意味深な表情で、中には“にやにや”と「やーらしい」笑みを浮かべる男子生徒もいて、ちょっと居心地が悪かった。
『なにじろじろ見てんだよ……カンジわるいなぁ……』
 なんとなく身の置き所が無くて、圭介は通学鞄を両手で持って溜息をついた。
 スカートの前で鞄を持つと、ただでさえ豊かな胸が腕に両側から寄せられてさらに盛り上がり、凶悪な形に歪んでいたけれど、圭介にその自覚が無いためにかろうじて「凶器」にならずにいた。もし圭介が自覚して「視覚演出」を加えたら、彼の乳房は他の男に対して立派な「戦略決戦兵器」になったに違いない。
 髪が濡れて額に張り付き、ブラウスもチェックのスカートも濡れてしまっている。スカートから覗く白い太股に雫が垂れて、背が低く子供っぽい顔付きであるにも関わらず、今の圭介はひどく色っぽかった。
 つまり、おっぱいを寄せて、ちょっと身体を捻り、上目遣いで道行く男子生徒に
「……傘…………貸して欲しいな……」
 と言ったらどうなるか?
 ……つまりは、まあ、そういう事なのだ。
 けれど、圭介はただ右横に立つ幼馴染みにばかり意識が行っていて、今の自分の姿が「女として」どれだけ「えっち」か、これっぽっちも気付いていなかったのだった。

 由香が雨の中に飛び出していって、もう3分は経っただろうか。それでも、そのたった3分がひどく長い時間に思えるのは、健司が一言も話さないからかもしれなかった。
 隣に立つ健司をひっそりと上目遣いに見上げて圭介は溜息をつき、俯きかけて顔を“ぷるぷる”と振ると、何かを決意したかのように毅然と顔を上げた。
 そして何かを話そうとして口を開き…………閉じた。
 少ししてまた開き…………閉じる。
 それを何度も繰り返して、ようやく
「……雨…………よく降るな」
「……うん」

 …………会話は続かなかった。

『……なんだよ……。そんなにボクと話すのがイヤかよ……。そんなにボクと2人なのがイヤなのかよ……』
 情けない。
 そう思った。
 健司が、ではなく、自分自身が。
 あれだけ勢い込んで誘っておいて、いざとなれば何も言えない自分自身が。
 毅然と上げた顔は、時を刻むごとにゆっくりと下がり、やがて、雨粒が跳ねるアスファルトの路面へと落ちた。
 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとする。
『あ……ヤバい……』
 涙が出る。
 そう思った。
 ……と、
「ねえ、けーちゃん。覚えてる?」
 ふと、健司が言った。
「え? あ、な、なに?」
「そういえばよく、雨の中、濡れながら一緒に帰ったよね」
 一瞬、健司が何を言いたいのかわからなかった。
「……なにが?」
「小学校の頃の話」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。市営プールに行った時なんて、帰りに夕立になってさ、せっかく乾いた髪も服もびしょびしょになっちゃって」
「プール?」
「うん」
 今はもう移転してしまったけれど、健司の家から5分ほどの場所には、昔、25メートルプールをメインにした市営のプールがあった。幼児用……というか低学年用プールもあって、そこは、ここ近辺の小学校の指定プールにもなっていたのだ。
 夏になるとプールの無かった小学校から、そのプールまで炎天下の下、歩いて通うのがひどく億劫だったのを覚えている。もちろん、一旦プールに入ってしまえば、いつもそんなものはすぐに吹き飛んでしまうのだけれど。
 もっとも、圭介達が中学3年の1学期に、小学校と隣接する形で新しいプールが建設されると、そこは取り壊されて更地(さらち)となり、今では老人達がゲートボールをする広場になっていたりする。
「あ〜〜〜……変電所近くの『かどや』で、オデン食べたっけ」
「そうそう。けーちゃん、俺が最後までタマゴとっといたのに、いっつも横から取ろうとしたよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。すごく食いしん坊だった」
 くすくすと健司に笑われて、圭介のほっぺたが赤くなった。
「んなことは……ないだろ」
 本人は気付かないけれど、ちょっとムッとして可愛らしい唇を突き出す圭介は、まるで恋人にいぢわるされた女の子、そのものの顔をしている。
「オデン食べてジュース飲んで駄菓子食べて……それでも足りなくてウチで汲み出し豆腐食べてったじゃない」
「…………いや、だって…………泳いで腹減ったら、そりゃ食うだろ……」
「食べ過ぎ」

 キッパリ言われた。

「……なんだよ。オマエだって、30円の綿菓子が好きで、いっつもそればっかり食べてたもんだから、3本も虫歯になったくせに」
「けーちゃんは6本もあったよね」
「そんなに無かった」
「あったよ」
「無かった!」
「そう? じゃあ何本?」
「…………5本」
 俯いて“ぽちょぽちょ”と呟く圭介は、隠しておいたテストの答案を見つけられた小学生みたいだ。
 健司はちらっと彼を見ると、なんとも言えないような顔をしてすぐに視線を前に戻した。
「……『かどや』って、まだあるのかな?」
「駄菓子なんて、いまどきの子供は食べないだろ。添加物がどーとかって、親がうるさいらしいし。……それに……」
「それに?」
 健司が聞き返すと、圭介は口篭もって小さく息を吸った。
「…………中2の時に、おばちゃんが死んで、店……やる人がいなくなったって聞いた」
「…………そう…………」
「……うん」
「……………………もう、無いのか……」
 健司は小さく溜息を吐くと、視線を正面に戻して降りしきる雨を見つめた。

 圭介と由香と健司の、3人の思い出を標(しる)すものが、どんどん姿を消して行く。
 市営プールも、駄菓子屋も、よく中に入って遊んだ、土壁の崩れた土倉も。
 2丁目の柴オヤジは、娘夫婦と暮らすのだと言って大阪に行ってしまった。
 子供会で使っていた掘建て小屋みたいな木造の集会所は、鉄筋コンクリートの商工会議所になってしまった。
 中学の時、よく健司と学校帰りにタコヤキを買って食べていたスーパーは、不景気で去年潰れた。
 フナやザリガニやホウネンエビやカブトエビやドジョウを捕まえた農業用水路は、子供が下に降りると危ないとかで、コンクリートの蓋で覆われてしまった。
 自転車で健司とハゼを捕りに行っていた溜池は埋め立てられ、春になるとタンポポがたくさん咲いて由香を喜ばせていた場所は、山ごと削られて新興住宅地になっている。
 残っているのは、記憶と想いだけだ。
 でも、この思い出だけは、いくつになっても、どこにいても、決して忘れないだろう。
 そう……圭介は思う。

 ふと圭介は腕時計を見て、まだ由香が飛び出して行ってから8分程度しか経っていない事を知り、一瞬、時計が止まってしまったのかと思った。あまりにも、時間の経つのが遅すぎる。
 雨は一向にやむ気配も無く、雨に濡れたブラウスが冷えて、ぶるるっ……と身体が震えた。
「……っ……へぷちっ!」
 突然、くしゃみが出た。
「あ……」
 たり……と鼻水まで垂れて、圭介は慌てて「じゅるっ」と鼻を啜ると、バッグの中のポーチからゴソゴソとティッシュを出した。そしていつものように「びーーーっ!」と思い切り鼻をかもうとして息を吸い込んだところで、
「…………っ…………」
 健司が見ている事に気付いて、なんだか急に恥ずかしくなり“もそもそ”と拭うだけにした。
「けーちゃん、寒い?」
「……いや、べつに……」
 鼻水が垂れたのを見られたかもしれない……と思い、なんとなく顔を上げられない圭介の肩に、不意に水色のバスタオルがかけられる。
「部活の後だからちょっと濡れてるけど、でも無いよりマシでしょ?」
 びっくりして見上げれば、健司が赤い顔でちょっとムッとしたような顔をしていた。
「……あ、悪い」
「いいよ。風邪引くと困るし、それに……」
 一瞬だけ下がった健司の視線に気付き、圭介は自分の胸元を見た。
 ……濡れたブラウスが胸に張りついていて、ブラが透けて見えている事に気付いた。
「別にいーよ。しょーがないもん」
「でも……」
 口篭もる健司を見上げると、彼の顔は面白いくらい真っ赤になっていた。
「……ナニ赤くなってんだよバカ……」
「だって……」
 所在なげに視線をさ迷わせ、困ったように顔を背ける健司に、圭介は自分でもおかしいとは思うけれど、なんだかホッとした。ムッとしているように見えたのは、ブラを見てしまったからなのだと気づいたからだ。別に自分の事を疎ましく思っているわけではないのだ。
 逆に、健康診断の時にはハッキリバッチリ裸の胸を見たにも関わらず、ただブラが透けているだけでこんなにもギクシャクしてしまう健司が、なんだか可笑しかった。
 可笑しくて、ちょっと可愛いと、思った。
『健司の……タオル……』
 ニヤニヤしてしまう顔を隠すために顔を拭くふりをしながら、圭介は何の気なしに“くん”と匂いを嗅いでみた。
 塩素の匂いに混じって、汗の匂いがした。

 健司の匂いが、した。

『あ……』
 健司の、男の匂い……オスのフェロモン(性喚起物質)に反応して、圭介の身体が熱くなる。急に心臓の鼓動が早まり、喉が渇いたように感じた。
 身体の変化は、女の体が男の匂いに反応した、生物的な肉体反射だ。それには、恋とか愛とか、そういうものは関係していないと、圭介は思う。また、そう思ったことで、彼は今の自分が「女」なのだという事を生々しく感じた。
 男の性に欲情してしまえる身体なのだという認識だ。
 圭介はなんとなく、ほんのちょっとだけ健司から離れてみた。

 2人とも、並んで立ちながら言葉も無く雨を見ていた。
 耳に届くのは、土砂降りの雨の音、車の音、遠くを走る電車の音……。
 雨の中、目の前を全力疾走で、自転車通学の学生が横切っていった。
『健司の心が知りたい』
 唐突に、圭介の心の奥でむくむくと頭をもたげるものがあった。
『ボクのこと、ほんとはどう想ってるんだろう……』
 健康診断の時、裸の胸を見た後、健司は回れ右をして逃げるように走り去って行った。
 じゃあ、今は?
 ブラが透けているのを見て、真っ赤になって、こっちを意識しまくっている今は?
 もし……本当に嫌われてるなら……ウザイって、気持ち悪いって思われているなら、もしそうなら……
『あきらめる。もう、コイツには近づかない』
 心を、決めた。
 自分の中の『禁忌』を破る。
 ドキドキした。
 右手で鞄とサブバッグを持って、健司がその事に気付いているはずが無いのに彼の視線に注意しながら、そろそろと左手を上げた。
 そして、カチューシャを…………外す。
 思わず圭介は目を瞑った。

 ――――――空白。

 10秒が過ぎた。

 ……15秒が過ぎた。

 …………30秒が過ぎても、何も、伝わってこなかった。
『?? ? ……どうして? ……』
 健司の心がわからない。
 カチューシャを外せば、男性の心の声が伝わってくるのではなかったのか?
『……あ……』
 「欲望」を向けられないと伝わってこないのだ……と気付くまで、たっぷり1分かかった。
 つまり今、健司は圭介に欲望を向けていない……という事なのだ。
 半分ホッとして、半分がっかりした。
 わからないとなると、どうしても知りたくなる。
 「人の心を覗く」という犯されざるべき禁忌をあえて犯そうというのに、この時の圭介には、罪悪感よりも「出来ると思った事が出来なかった」という不快の方が勝っていた。
『……どうしよう……』
 ふと、多恵さんにおでこにキスされた時の事を思い出した。
 あの時、カチューシャをしていたのに、相手が女性だったのに、性的な感情では無かったのに、多恵さんの心が強く感じられた。
 では、もしカチューシャを外して、そして触れたら……?
 キス…………なんてのは出来ないけれど、もし触れたら、ただカチューシャを外した時よりも、もっと強く感じられるのではないだろうか?
「……け…………健司」
「ん? なあに?」
「あ、あのさ、オマエは寒くないのか?」
「大丈夫。俺、水泳部だよ? もっと冷たい水の中にだって長いこと入ってたりもするから」
「そ、そうか……でもさ、こんなに濡れてんじゃん」
 『こんなに』のところで、右手で健司の剥き出しの左手に触れた。

 ――――スパーク。

 時間にして、ほんの一瞬のはずだった。
 それは、白濁した意志の奔流。明確なビジョンではなかった。
 けれどそれは、確かに健司の思念だった。
 彼の心の「声」だった。
「だ……大丈夫だよ。いいよ。濡れるからっ」
 圭介の手を避けるように健司が身を引いても、圭介は彼の腕に触れた時のままの姿で、目を瞑っていた。
『……なんて……』

 ――――なんてあったかいんだろう。

 どっ……と押し寄せるように、流れ込んできた健司の心は、明確なビジョンではなかった。言葉にもなっていなかった。
 現れては消え、一つに纏まっては解ける。
 収縮し、拡大し、拡散し、そしてまた収縮する。
 様々な色彩の乱舞。
 その中から拾い上げた「いろ」は、泣きたくなるくらい優しい色をしていた。

 彼は、いっしょうけんめい、いやらしいことを考えまいとしていた。

 戸惑いながらも、それでもなお、前と同じように親友として見てくれようとしていた。

 それが、強く強く、胸に染みた。
『ああ…………健司…………オマエって…………』
 こんなにも純粋で、純朴で、馬鹿がつくくらい正直な人間はどこにもいない。
『こいつと親友でよかった』
 これからもずっとずっと友達でいたい。
『友達でいい』
 嫌われるより、ずっといい。
 そう思う。
 そう思った。
 もしそれが自分の心を偽っているのだとしても、その偽りを通そう。
 自分に言い聞かせよう。
 コイツには、そうすべきだ。
 圭介はそう思った。
「けーちゃん? どうしたの?」
 気がつくと、健司が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「……え? あ、う……ううん。なんでも……」
 圭介は慌てて身を引いて、ぷるぷると首を振る。セミロングの艶やかな髪が濡れたまま頬に当たり、ちょっと痛かった。
 ――――そして、その時感じた痛みは、頬だけではなかった――。
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