■感想など■

2009年07月12日

第12章「お母さんになれるということ」

■■【3】■■
 雨は相変わらず降りしきっている。
 時計を見ると、由香が健司の家に傘を借りに行って14分が過ぎようとしていた。いくらのんびりとした彼女でも、もうそろそろ戻ってきても良い頃だ。そう思いながら健司は小さく溜息をつくと、視線を正面に固定したまま目を瞑った。
 男としての“限界”が近付いている。
 ――そう思った。
「それにしても良く降るよな」
 その“限界”の「原因」である傍らの少女から、溜息と共に吐き出された呟くような言葉に、彼は頷くだけで同意した。
 そうしてから、頷くだけでは返事として不十分だと感じて、身体の極一部分が反応しないように細心の注意を払いながら
「そうだね」
 感情を抑制した言葉で呟く。
 少女の方を見るのは、今はまずい。

 ――――“ゆさり”としていた。

 あの健康診断の時に見てしまった、親友の…………親友だった……親友だと今でも思っている「少女」の、隠されるべき秘密。
 それは、白くて、大きくて、重そうで…………そしてやわらかそうであったかそうな、

 おっぱい。

 あの時、頭を殴られたような衝撃に、心まで震えた。下腹部が熱くなって、自分の身体の、そのあまりの無節操さ、情けなさに、泣きたくなった。
『…………けーちゃんに…………おっぱい…………』
 健司は「おっぱい」が好きだ。
 「おっぱい星人」なんて、どこの狂ったノータリンが言い始めたか知らない、まっとうな人間なら知性を疑いかねないような呼称で呼ばれるのは我慢出来なかったけれど、それでもやっぱり「おっぱい」が大好きだった。特に、世間では「巨乳」とか「爆乳」とか言われている「でっかいおっぱい」が大好きだったし、健康な高校男児らしくその手の本だってビデオだっていくつか持ってて、家族に知られないようにこっそりと隠していたりなんかする。
 血の繋がらない兄のパソコンを密かに借りて巨乳系サイトを見たのなんて一度や二度じゃないし(もちろん後でバレてしっかり怒られた)、ビデオも「レンタルで借りる」なんて、今時の高校生なら誰もしない方法はもちろん取らず、クラスメイトの友人から無修正のビデオをダビングしてもらったりもした事だって、あるのだ。
 従姉妹のれーちゃん(岬 玲奈)にふざけ半分で胸を押し付けられたりすれば、いくら従姉妹とはいっても正直な身体はそんな分別など聞きやしないから、いつもドキドキしてた。

 女の子のおっぱいには男の甘い幻想がいっぱいに詰まってる。

 それは真理だと思う。
 やわらかそうで、あったかそうで、“ふにふに”“ぷにぷに”していそうで、顔を埋めるときっと女の子のいー匂いがするのだ。
 そして健司はその「甘い幻想」に股間を熱くしてしまう、健康優良男児だった。
 けれど、健康な高校生男子であれば“そうなってしかるべき”反応であっても、相手が自分の“親友”であるなら話は別だった。
 決して“そうなってはいけない”相手だからだ。
 「彼」とは、小さい頃から一緒に遊んできた。
 小学校三年生で初めて出会ってから、一緒に勉強して一緒に遊んで、一緒に悪戯なんてものまでしたことがある。それまで笑顔の仮面を被るしか知らなかった自分が、初めて人の迷惑になるようなことをした。それは「彼」と一緒だったからだ。「彼」と一緒なら恐くなかった。「彼」と一緒なら、なんでも出来るような気がしたのだ。

 なのに。

 健司の“親友”だった「けーちゃん」は、ある日突然「女」になった。
 いや、「女だった」と聞かされた。
 そして、毎日少しずつどんどん、どんどん……ホントの「女」になっていった。今の「彼」は、もう胸も“どかん”とブラウスを内側から突き破らんばかりにふくらんでいるし、セミロングの艶やかな黒髪もさらさらで、細い腕も小さい手も白い首も肩も足首だって細くて華奢(きゃしゃ)で、どこからどうみても可愛らしい「女の子」だった。しかも、たぶん、きっと、誰が見ても『美少女』と呼ばれてもいいくらいの(「美しい」というより、本当に「可愛い」といった感じではあったけれど)。
 さっき触れられた時に感じた「彼」の手は、健司の知っている手では無かった。いつか、昼休みにソラ先生から逃げる時に握った手も、もう健司の知っているものでは無かった。ほっそりして、少しひんやりして、そして頼りないくらいにちっちゃかった。
 鼈甲(べっこう)のカチューシャなんてして、学校指定の女子制服……丸襟のブラウスにチェックのミニスカートを身に着けて、紺のハイソックスに学校指定のクツを履いた「彼」は、健司から見ても御世辞ヌキに可愛らしいのだ。
 そして健司は思った。
 結論付けた。

――もう、あのけーちゃんは、どこにもいない――

 自分が憧れ、目標にし、求めた、強くて優しくていぢわるで、プライドが高くてちょっと乱暴な「山中圭介」という「男の子」は、もうこの世にはいないのだ、と。
 それは彼にとっては、心の中で輝き続けていた「星」がその輝きを曇らせてしまったほどの事実だった。
「…………ぅ…………」
 自分の想いに没入していた健司は、小さく聞こえたうめくような声に“はっ”として圭介を見下ろした。
 「彼」の顔は、俯いているために顔が見えない。けれど、左手で鞄とサブバッグを持ったまま、右手で自分を抱くようにしながら左手の二の腕を掴んでいた。凶悪なまでにヴォリューム溢れた胸がえっちなカタチに変形し、腕の間から盛り上がっているのが目に飛び込んでくる。
「……どうしたの?」
 慌てて目を逸らしながら問うものの、応えは無い。
「けーちゃん?」
「……なんでも…………」
 押し殺したような声が聞こえた。
 なんだか、立っているのも辛そうだ。健司は不安になって周囲を見回したけれど、人影は無く、由香の姿もまだ見えない。
『学校に戻ろうか』
 一瞬、そう思う。
「…………ぅくっ……」
「けーちゃん!」
 健司は、“ふらっ”とよろけ崩れ落ちそうになった圭介を慌てて支えた。その腕を、「彼」がぎゅっと掴んで胸に掻き抱いた。
 「頼れるものは、この世でもうこの腕しかないのだ」と、そう言われた気がした。
「けーちゃんっ!!」
「ば…………聞こえてる…………耳元で……叫ぶなって……」
 健司は鞄を足元に置き、自分の左手を抱くようにして身体を支える圭介の左手から「彼」の鞄を取り上げた。
「持つよ」
「……いい……って…………」
「どうしたの? 体調悪いの? 風邪引いた?」
 健司は矢継ぎ早に声をかけた。
 「彼」が心配だった事もあるけれど、本当は左腕にふにふにと押しつけられる大きくてやわらかな乳房を意識しないようにしようとするいじましい行為だった。
『……あ……』
 カチューシャで押さえられた黒髪が、健司の頬をさらさらと撫でる。少女の体温が腕を伝い、そして少女から“ふあっ”と立ち昇ってくる香りは、まぎれも無い“女の子の匂い”だった。雨で濡れたのに……いや、雨で濡れたからこそ強く香ってくる、頭の芯を揺さぶるような、甘くしびれる……芳(かぐわ)しい香りだった。
「け……あ、だ……」
 じわ……と染み込んでくるような甘美な“やわらかさ”と、神経を侵すような陶然とする“いいにおい”に、健司はただ、おろおろとうろたえるしかない。それは、何の心構えも無いままに振るわれた、不意打ちの剣のようだった。容易く身体の奥深くまで刺し込まれ、官能を露にしてしまうのだ。
「……はぁ…………」
 その時、健司の葛藤を知ってか知らずか、圭介は大きく息を吐いた。
 溜息のようなその熱い吐息は、健司の剥き出しの左腕を撫で、彼の身体の中に蹲(うづくま)ってずっと“その”機会を窺っていた『ケモノ』の尻尾を踏んづける。
 その『ケモノ』は「女の子にさわりたい」と願う健康的かつ思春期真っ只中の男の子には誰でも棲んでいる類(たぐい)の、至極まっとうなものだったけれど、時々、それ以上の事を渇望したり「行きつくとこまで行っちゃえ!」と“暴動を煽動する狂信的革命家みたいな行為”を嬉々として行うような、そんな危険な『ケモノ』でもあった。
 どきんどきんと心臓が高鳴り、体の奥から黒くて大きくて逞しいケモノが「この女の子とえっちなことしたい」「めちゃめちゃにしたい」「自分の好きにしちゃいたい」などと喚き散らしながら身を起こそうとしているのを感じる。圭介の鞄を持った右手がその鞄を地面に下ろして、“そのまま、自分の左腕に縋っておおきくてやわらかくてあったかくていいにおいのするおっぱいを押し付けてくる少女を抱き締めてしまえ”とでも言いたげに小刻みに震えた。

 あと3秒遅かったら、イロイロとまずい事になっていたのは明かだった。

「けーちゃーん! 健司くーん!」
 由香だった。
 その声を聞いた途端、健司の身体から“すうっ”と『熱』が抜けた。メルトダウン寸前まで行ってた原子炉が、ギリギリの土壇場で冷却水の供給を受けて、急速に通常運転へと移行していくみたいな感じがした。
「お、来たな」
 気がつくと、圭介が身を起こして平気な顔をして言った。
「けーちゃん…………あの…………あれ? ……体調おかしかったんじゃ…………」
「ん? ああ、もうヘーキ」
 そう言って圭介は「ははは」と笑った。
「なんか、オマエが緊張してるのが面白くてさ、ちょっとからかっただけ」
 そう言いながら「びっくりしたか?」と、いたづらっぽい顔で圭介は笑った。その目は、小学校の時に一緒に悪戯をして見つかった時の目と、そっくりだった。
「なんかさー食いモンに当たったみたいで、急に…………」
「は?」
「いやー……やっぱり昼に食べた弁当のオカズがまずかったのかもしんないなぁ」
 圭介は「まいったまいった」と言いながら健司から鞄を受け取り、走ってくる由香に小さく手を振った。
『からかった? …………俺を?』

 急に、心が冷えた。

 自分がこんなにオロオロして、ドキドキして、それでずっとずっと悩んで“むにゃむにゃ”してたのに、圭介は「からかった」と言った。
 そして、笑った。
 心配している俺を、笑った。
 健司はそう思った。
 今までも圭介に笑われた事はあるし、ズケズケとひどい事を言われた時だって何度もある。それでも嫌いになんてなれなかったのは、「彼」は基本的に相手を傷つけようとしてそういう風にするような人間ではないのだと、知っていたから。それは元気付けるためであったり発奮させるためであったり、とにかく健司をポジティブな方向へと持っていこうとするためのものだったとわかっていたから。

 でも、今回はあんまりだ。

 ある日突然、自分が女なんだって明かして、それで俺がそれをどんな風に思ってるか知らないで、それであんなことをする。
 あんな風におっぱいを押し付けて、それで俺がイヤらしい考えになったりするのを見てて笑ってた。
 健司は、そう思った途端、悔しくて苦しくて…………そしてムカムカした。
 圭介に対してこんな気持ちになるのは、本当に久しぶりだった。
「俺、先に行くね」
 やってきた由香から傘をもぎ取るようにして受け取ると、彼らしくないことに、「ありがとう」も言わずに雨の中へ歩き出した。
「……健司くん……」
 由香がちょっとびっくりしたような顔をしたけれど、構わなかった。
「ちょっと待てよ健司、ボク達といっしょに」
「こないでよっ!」
 我ながら驚いた。
 圭介に、怒鳴る事が出来たなんて。
「……なっ…………」
 その時の圭介の顔は見物だった。鼻白んで、目を白黒させていた。可愛がってた犬に噛み付かれたような顔をしていた。
 もう振り返らなかった。
 ずんずんと歩いた。
 降りしきる雨の中、まるで健司を責めるように傘を叩く雨の中、彼はただ前を向いて歩いた。
 ずっとムカムカしていた。
「けーちゃん!!」
 由香の、悲鳴のような声を耳にするまで。

 崩れ落ちる圭介を、必死に支えている由香をその目で見るまで――――。
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