■感想など■

2009年07月21日

第13章「覚悟と決意」

■■【1】■■
 日々に悩み、己の境遇を憂いても、毎日の生活は何事も無かったかの如く無情に過ぎてゆく。

 まー坊に逢ってから、圭介が今の自分という存在について「何も思わなかった」という事は決して無い。
 けれど、今の自分の境遇や周囲に対しての姿勢……なんてものは、それこそうんざりするほど考え、悩み、時には後ろ向きになりながら“もがいて”きたのだ。「悩んでいても仕方ない」……と、考える事を保留にしてしまうまで、さほど時間はかからなかった。出る事の無い答えにいつまでも全身全霊を注いでいられるほど、今の圭介はヒマでは無いからだ。
 結局、あの少年がどう思おうとも、今の圭介は以前の圭介と同じ『人間』であり、「男」から「女」になったからといって“本質的な部分”では圭介は圭介のままで、少なくとも本人は変わっていないと思っている点では、揺るぎが無かった。
 一晩が過ぎた翌朝、迎えに来た由香に、いつものように髪を梳(くしけず)られながら圭介は思う。
 少年の言葉に、今なら反論出来る……と。

『おまえ、男が好きなんだろ!?』

 ――別に女になったからって、男を好きなわけじゃない。
  「男を好きにならなくちゃいけない」なんて事は、無い。

『女ならそーだよな!?』

 ――勝手に決めるな馬鹿。まー坊、オマエはまだ子供だから視野が狭いんだよ。

『でもケイにーちゃんは男だ! だから男なんか好きにならない!』

 ――別にボクは男が好きなわけじゃないけど、男が好きな男もこの世にはいるんだ。
   自分と他人の住み分けが出来ないと、これからどんどん辛くなるぞ?

『おまえはケイにーちゃんじゃない!! 女のおまえはケイにーちゃんじゃないっ!』

 ――ごめんな。まー坊。『オマエの好きだったケイにーちゃん』じゃなくなって。
   でもボクはボクなんだ。どう変わろうとも、どんな姿になろうとも、ボクはボクなんだ。
   それが認められるようになったら、そうしたら、また一緒に遊ぼうな?
   それがいつになるかは、ボクにもわかんないけど……さ。

 たぶん……今の少年にこうやって反論したとしても、無駄なのは目に見えている。
 彼は子供特有の狭い世界に自分を当てはめ、自分の見たもの、聞いたこと、感じたことだけを信じているから。
 自分の考えが永久不変の真実のように思い、固まった価値観でしか身の回りのものを見ることが出来ずにいるから。

 他人を認めるにはまだ…………自分の考えと周囲の考えが同じであるべきだ……と、精神(こころ)が哀しいくらいに、幼いから。

『それがわかるから、たぶん、ボクはこれからも自分からアイツと話をしようとは思わない』
 アイツがもうちょっと大きくなって、少なくとも自分以外の存在も、認められるようになるまで――。

 圭介はそう思った。

         §         §         §

 彼に生理が来て4日目の、6月22日水曜日。
 ――4日目ともなると下腹部の痛みもほとんど無くなり、残るのは腰にわだかまる重い感じとちょっとした微熱、それにタンポンに染み込んだ黒っぽくも薄い色の経血だけ……というくらいには、なった。由香やクラスメイトの女子達は、思ってたよりも軽い圭介の生理を少し羨ましがったけれど、何もかも初めての彼にしてみれば、たった4日間でさえも長く感じられる、まさに苦痛の日々だった。『血と激動の4日間』と名打って、今までの人生の中でも一二を争う波瀾の日々として密かに心に刻み付けてもいいくらいだ。
 もしあの痛みが、煩わしい感覚が、期末考査の最中だったら……と思うと、本気でゾッとする。けれど、生理はこれからまた……たぶん……何年も――ひょっとしたら閉塞するまで――付き合う事になるかもしれないのだ。
 それを思うと、気分は果てしなく重かった。

 ところで、27日から始る期末テストまでの一週間は、『テスト週間』として半日授業である。
 その間、基本的には部活動は休みであり、もちろん遊びの外出なども認められておらず、外出する際には生徒手帳の所持が義務付けられていたりする。つまりは「学生の本分は勉学にこそあるのだから良い子は大人しく部屋で教科書とにらめっこしてろ」……ってことだ。
 もちろん、それを律儀に守ってキチンとテスト範囲の復習&暗記に励む学生は、さすがにこの学校でも珍しい部類に入る。圭介も生理さえ来ていなければ、勉強なんかそっちのけで遊びに行っていたかもしれないのだ。
 巡回している生活指導担当の教師や生活指導主任であるアナゴに見つかる可能性も無くは無いけれど、圭介に言わせれば、見つかるようなヘマをする生徒の方が悪い。繁華街やデパートやゲーセンや映画館などに行けば、それはもう「見つけてくれ」と言わんばかりの行為だからだ。
 もっとも、健司や由香に捕まって『勉強会』という名目の強制収容に付き合わされる事もしょっちゅうだったから、彼自身もそんなに遊びに行けていたわけでもないのだけれど。

 それでも21日には多恵さんのところに行って、生理用パンツとか新しい下着などを購入したり、由香と一緒に(元)美術部部長の杉林先輩の実家に行き、この街でも結構古い名家と言われるその家の大きさに、ポカンと大口開けて家政婦さん(洋装ではなく着物だったから、これでいいのだ)に笑われたりもしたのだけれど――それはまた、別の話。
 ただ、多恵さんや杉林先輩のところに行った時、『おねーさん視点』からの「えっちについて」「オトコという生物について」という、非常に興味深い『考察』を“ちょっとだけ”だったけれど聞けたのは、圭介にとっても由香にとっても収穫だった。
 男の時は普通だと思ってた事も、こと『えっち(セックス)』に関してはまたもや男と女の間には深くて幅の広い溝が横たわっている――と知ったからだ。
 圭介も、そして由香も、まだ男との経験は全く無かったし、これからの予定もまったくもって未定だったから、多恵さんや先輩の話はすごくすごくすごく勉強になった。これがエロエロ大魔人の桑園京香だったりしたら、とてもこんなふうにメンタルな観点からの話など聞けなかったに違いない。
 特に、

 ――男は目で濡れて、女は心で濡れる――。

 という多恵さんの言葉は、なんとなく『目からウロコ』な御言葉だった。
 これは多恵さんの経験から来たもので、他の女性――そう、例えば多恵さんの同僚のタカちゃん(鷹森美咲/たかもりみさき)とかマリさん(神林茉莉江/かんばやしまりえ)だったら、また違うのだろうけれど、「ランジェリー」という“ハダカのココロを護る最後のドレス”を扱っている多恵さんだから言えた言葉なのかな? ……なんてことも思うのだ。

『女は……他はどうか知らないけれど私は、相手の人が好きじゃないと、そういう気持ちにはならないな。
 その人を好きで、“その人に愛されている自分”を想像すると、すごく――イイカンジになる。
 ふふ。
 イイカンジ。わかる? ――わかるんだ? へぇ〜……ケイちゃんってば、えっち。
 うそ。ごめん。
 ふふふ…………うん。そうだね。ケイちゃんもオンナノコだもんね。
 ……なあに? ヘンな顔してぇ……。
 けどほんと、オトコは違うよね。うん。違う。見てて思うもん。
 あ〜……「馬鹿だなぁ」……って。
 ひどい? そうかな?
 だって、オトコとオンナじゃあ、圧倒的にオトコの方が「馬鹿」よ?
 好きな相手じゃなくても裸を見たら興奮するし、えっちな声にニヤニヤするし。
 女は…………私は、たとえば目の前に裸のオトコの人がいたら、とりあえず笑っちゃう。
 うん。
 だってヘンじゃない?
 知らないオトコのムーディな声なんて、突然聞いたら大爆笑よ?
 うーん……そうねぇ……。
 オンナはムードが大事……ってのは、つまり雰囲気をきちんとしないと興奮出来ないからなのね。
 白けちゃったら、イイカンジになんかならないもん』

 ――だからケイちゃんも、好きな子にアピール出来る下着の一枚や二枚は持ってた方がいいかもだよ?

 そう締めくくって、多恵さんはものすごく可愛くて過激でえっちな下着のカタログを、2冊もくれた。
 …………今、そのカタログは机の下から2番目の引き出しの、その裏側に、封筒に入れてセロテープで貼り付けてある。
 自分もいつか、そういう下着を身につける日が来るのだろうか…………と考えてしまうと、ドキドキして恥ずかしくて、自分がなんだかものすごいヘンタイになった気がして、すごくすごくいたたまれなくなってくる。しかも、“そういう下着を身に着けた自分”を誰かに見られる…………と思うと、顔から火が出るどころか息も出来ないくらい体が火照ってくるから、これはもう自分は“そういうこと”を考えない方がいいと思ったのだ。

         §         §         §

 生理も、“おりもの”はちょっとあったけれど、『これで、まあ……終わったかな?』と思える6月23日の金曜日。
 前々から予定されていた『進路指導』があった。
 新任2年目のはるかちゃんには荷が重いかな? と誰もが思っていた進路指導だったけれど、意外にも的確な判断とアドバイスで、若い担任に不安そうな顔をしていた保護者達も、なんとか納得してくれたようだった。もともと1学期の進路指導はフラフラしている2年生の、たるんだ心を引き締める程度のものだったから、さしたるトラブルも無く、滞りなく指導は終わり、後は週明けの期末考査に直行するだけ……となった。

 そして小学3年生から今まで、ずっと一緒だった圭介と由香と健司……の3人も、ここに来てとうとう、それぞれの道へと別れ、歩んで行くこととなる…………そのビジョンを明確にする時が来た事を知る。

 由香は地元の……とは言っても、電車とバスを乗り継いで徒歩も含めると40分もかかる、この辺りでは『名門』で通っている山間の女子大学へ。
 圭介は、ひとまず隣の県にある私立の芸術大学が希望だ。
 まがりなりにも自分の実力と、分相応という言葉を知っている彼だったから、東京芸大とか多摩美大などの、いわゆる有名大学は最初からターゲットからは外してある。別に芸術家になりたいわけではないし、絵の勉強が出来て、あとは好きに描ければ実際のところどこでも良く、そう言う意味では大学にも行く必要は無いのだけれど、芸大を諦め、家の都合で卒業後すぐに結婚して家に入らなければならない杉林先輩の境遇を思えば、やはり社会に出る前の4年間という時間はそれなりに…………いや、結構貴重だと思えたのだ。
 もちろん、大学進学に迷いが無かったわけではない。
 これから自分はどうするのか、どうしたいのか、どうなっていくのか、まったく先が見えないというのに進路が決められるわけもなく…………そして、あれだけ没入していた絵に対して、自分でも、まるで一歩引いたような思いを感じてしまうのは、たぶんそれが関係している……と思うのだ。
 体の事がある。
 自分が純粋な地球人ではない……ということもある。
 何より、『星人』達が今後、自分をどうしていきたいのか、どうにも「見えない」という事もある。
 母は、
「けーちゃんはけーちゃんのしたい事をしたいようにすればいいのよ? 私も善ちゃんも、けーちゃんのしたいことを全面的にバックアップするわ」
 と言うし、父は父で、
「なんでもいいから早いトコ孫の顔見せてくれ」
 ……と、ビールを飲みながら息子の…………娘の大事な将来をかなりすっ飛ばして、もう孫と遊ぶ事ばかり考えている。
 とりあえず父の向こう脛にケリを食らわせておいたけれど、あれはぜったいに自分で名前を付けるつもりに違いない。圭介は根拠も無くそう思ったものの、進路指導の話を持ち出した次の日に、父は山ほど姓名判断の本を買い込んでいたから、あながち的外れでもないのかもしれなかった。
 ともかく、圭介は漠然とした不安を抱えたまま、自分の進むべき道が見えずに、とりあえず……というビジョンを『絵』をキーにする事で決めておいた。
 いっそ、健司と同じ大学……と決めてしまえたら、どんなに楽だっただろう……と思わなくも無い。
 その健司は、早々と東京の体育大に決めてしまい、夏の選考会のタイム如何によっては推薦入学の道も開けるらしい。何も、よりによって「体育大」にする事もなかろうに……と、圭介はちょっとむくれたけれど、健司が自分で決めた道を、自分がどうこう言えるわけもなく、それもまた圭介の憂鬱の一部を形作る原因となっていた。
 あと、1年と半年。
 卒業してしまえば、今までのように会えなくなるのは明白だ。
 自分の胸の“もやもや”にも、一刻も早くケリをつけなければ。
 そう思う、圭介だった。

         §         §         §

 そして。

 なにはともあれ、進路指導は終わり、後は夏休みまでの『障害』は期末考査のみ……となった6月25日の日曜日。
 圭介は晩御飯の後のリビングで、父と母を前にしながら、雨に濡れた子犬が耳をぺたんと寝かせて道行く人々を見やるような表情で、にこにこと笑う母の手の中の紙を上目遣いに見上げていた。
「お母さん、善ちゃんと色々考えたの。
 でね? やっぱりそうしたほうがいいんじゃないかな〜? って思うのよ。
 ほら、やっぱり女の子なんだし、これから色々不都合でしょ?
 最初は、善ちゃんと一緒に本とか見て考えたんだけど、けーちゃんの『圭介』ってね、お母さんのお父さんの名前をもらったものだから、やっぱり一文字残したいな〜って」
 そう言いながら母は、邪気の全く無い笑顔で圭介の目の前のガラステーブルに紙を一枚“ひらり”と置いた。
 そこには、
 「圭子」「佳子」「桂子」「珪子」
 「圭代」「佳代」「佳世」
 「佳奈子」「佳那子」「佳菜子」「佳名子」「圭永子」
 「佳奈美」「佳菜美」
 などなどなど……。
 数十にも及ぶ女名が列挙されていた。
 どれも最初の一文字は必ず「圭」を含み、「ケイ」と読ませるものばかりだ。

 そうなのだ。

 スパゲティナポリタンとコンソメスープとバターロールとトマトサラダを平らげて、そろそろ2階に戻ろうか……と思っていた矢先、父と母は圭介を神妙な顔で呼び止めると、いきなり
『名前を変えない?』
 と言ったのだった。
「母さんの父さん……って、『星人』でしょ? 漢字使ってたの?」
 圭介は思わず絶句して、それから母の言葉を聞きながら頭の中でぐるぐるといろんな事を考えて、それから“ぽちょぽちょ”と呟くようにして、あくまでにこやかな顔の母に尋ねた。
「ううん、違う違う。キュゥイ※ゥ●ュ▼§□っていうの」
「は?」
 『ケイシュゥリュケ』……と聞こえた。
「あん……やっぱり人間の声帯だと発音しにくいわねぇ」
 とりあえず母のこの言葉で、『人間じゃない』という事だけはわかった。
「でも……女の名前なんて……」
「女の子が女の名前になって、何が悪い?」
 口篭もる圭介に、父は腕を組んでにやにやとした笑いを貼り付けながら、まるで謁見に来た臣下に対する暴君みたいな、ものすごく横柄な態度で断言した。

 『初潮』を迎え、最近の圭介の体は、以前に比べてますます女としての“まるみ”を増していた。
 “まろやかさ”と言ってもいい“それ”は、彼の「心」と「記憶」を置き去りにして、いっそうの“女としての充実”を見せている。
 男が本能的に持つ、『好ましいメスを選ぶための嗅覚』を刺激するのだ。
 もちろん、そこで表される『嗅覚』というのは、なにも「匂い」だけのものではない。視覚的なものや聴覚的なものも含めた、『女の存在感を捉える感覚』……とでもいうものだ。
 生理中、絶えず男達の視線が集中していた圭介には、生理が終わった後も常に何かしらの視線を感じるようになっていた。そのため、今ではいつも、いつでも自分の顔や髪型や格好などを意識しなければならなくなり、自然と、自己の肉体反応によって内側から、そして第三者の視線による肉体反応によって外観までもが、ますます「女としての自分」を圭介に対して顕著に意識させる事となっていたのだ。
 それは、女優や歌手やモデルが、絶えず他人の目を意識する事によって、善しにつけ悪しきにつけ「美」というものを体現するべく努力する様にも似ていた。
 そして圭介は、「他人にみっともないところを見られたくない」という想いがあるからこそ、髪型や制服の乱れに気を使い、アンダースコートや下着、それに靴下や靴やメイクにまで気を使うようになった。
 が、もちろんそれは彼にとって、自分から「女らしくなろう」として行っているものではないのだ。ただ、男だった時の記憶を引き摺ったまま女の体裁を整えてもダメだ……と思っただけなのである。
 しかし、それが結果として「女らしく」なる最短距離となる事に、圭介自身が気付いていなかった。
 だから、由香に
「最近、けーちゃんってすごく女の子らしくなったね」
 と言われれば憮然とするしかないし、
 健司に
「うん。なんか、すごく可愛くなった」
 などと、ちょっと複雑そうな、それでいて照れ臭そうな顔で何の衒(てら)いもなく言われれば、反論出来ずに赤くなって、口篭もってしまうしかない。
 そんな圭介だったから、両親のこの申し出も、不服でありこそすれ納得など出来ようはずも無かった。

 いずれにせよ、これまで悩み、苦しみ、考え抜いて、時々後ろ向きになりながらも自分を見つめ続けて来た圭介にとって、今この時が、ある種の『決断の時』であるのは確かだった。
 名前を変えるということは、公私共に女となり、名実共に女となるということだ。家族や友人のみならず、近隣の人々にも女として認識され、その上、肉体だけでなく名前の上でも女として認識させられるようになる。
 確かに、今となってはもうそこに「恐怖」は無い。
 たとえ「困惑」や「躊躇」はあっても、「完全な女になってしまう」という事に対しての「恐れ」は、無いのだ。
 最初に高熱と共に肉体が変化したのは、今月の初め……6月1日のことである。
 それからおよそ一ヶ月弱で、圭介のアイデンティティは解体され、価値観は揺らぎ、記憶は薄れ、対人関係は変貌を見せた。「男」とか「女」である前に、まず「一人の人間」であるという、その、当たり前過ぎるほどに当たり前な事実へと思い至るまで、様々な葛藤や苦悩や悲哀や苦痛があった。自分がいくら否定しようとも、他人がどう否定しようとも、事実は事実として厳然と存在し、そして今ここに圭介は「女」の「性」を身体に宿して、在る。
 だから、そういう意味での――完全な「女」になってしまうという意味においての――「恐怖」は、無いのだ。

 ――――けれど、“それ”は“それ”、“これ”は“これ”、だ。

 「圭介」という名前には、彼にとっての17年間という「時の積み重ね」がある。
 名前と共に生き、名前と共に育ち、それはもう心と身体の両方に、摘み取る事が出来ないほどの深い根を下ろしているのだ。
 それを、変える。
 どうしてそれを笑顔で了承出来ようか。
「もう少し……考えさせてくれない……かな?」
 苦いものを口一杯に頬張ったような顔をして、圭介は父の目を見ないまま、ガラステーブルの上の紙切れを睨みつけたまま、呟いた。
「手続きや書類や、戸籍とかは気にしなくてもいいのよ? そういう『記録』をどーにかするのなんて、善ちゃん大得意なんだから」

 ――――恐ろしい事を母はさらりと言う。

 17年間という時間の中で、「山中圭介」という名前が紙や磁気記憶や人間のシナプシス(記憶細胞網)に刻み込まれる機会は、幾千、幾万……いや、幾億回とあったはずだ。それらを全て、消したり改変したり出来る……とでも言うのだろうか?
 圭介がそう問うと、父は
「涼子ちゃんの“力”があれば、半月もしないうちに『圭介』という単語に対しての『意味』を無くす事は簡単だ」
「意味?」
「『圭介』という名前が、今ここにいるお前の名前を示すという『意味』だ。
 名前そのものを無理に消したり変えたりする必要は無いんだ。
 その『意味』に連なるリンクを断絶(き)って、人の意識を逸らしてさえやれば、後は人自らがその『意味』を示すものを記憶から削除する。
 俺達がいちいち手を下す必要も無く、『圭介』という名前を知る者は“その名の存在”そのものを疑問に思い、正しいカタチへと直そうとする。まあ、後は……」
「『星人』の技術……」
「そういう事だ」
 ……納得出来ない。
 けれど、納得しておかなければならないのだろう。考えると頭が過負荷を起こして、ショートしてしまいそうだった。
「おかーさんにまかせなさーい」
 どんっと胸を叩いて豊かな乳房をゆさゆさと揺らしながら、母が『えっへん』と偉そうに言う。
「もし……」
「ん?」
「もし、ボクがまた『女』から『男』に戻る事があったら……そしたら、また『圭介』に戻れる?」
「お前が望むなら」
 キッパリと言う父を見て、それからにこにこと笑みを絶やさない母を見て、圭介は小さく息を吐(つ)いた。

 記憶を無理に操作するわけではないから、圭介が『圭介』という名前だったこと、名前を変えたことなどは、人の記憶に残るらしい。けれど、どうやって名前を変えたか、戸籍や法律上の手続きの際にどうやったかまでは、追求出来ない仕組みに“する”のだと父は言った。
 これは、母を連れて世界中を旅した時に手に入れたコネクションと、『星人』のコミュニティとテクノロジー、それに父自身の持つ“力”(この場合は超常的な力ではなく、あくまで地球人レベルでの“力”)の一部を活用して行われる……らしい。
 だから、例えば『圭介』が『ヒカル』という名前に変えたとしたら、周囲はある日突然『ヒカル』の名で圭介を呼び始めるのではなく、あくまで徐々に、ゆるやかに認識を深めてゆくこととなる。もちろん、学校や市役所などの書類も、人間が人間自身の手で変えていくため、しばらくは「普通の手続き」と同じように多少の混乱も起こるだろう……ということだ。
 書類を作成する際に、最も名前を参照する機会の多い日本国籍や戸籍謄本、住民票などの公的文書が『ヒカル』になってさえいれば、情報偏重のこの世の中では、余程の事が無ければそれに疑いを持つ者はいない。
 もちろん、疑いを持つ者や『星人』の力を求める者達から目を眩ませるための物理的・精神的ガードは、幾重にも掛けられる事となるのだけれど。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/30416225

この記事へのトラックバック

★足跡代わりにポチッとしてってくださいな★