■感想など■

2009年07月23日

第13章「覚悟と決意」

■■【3】■■
 以前、街に出た時に頭の悪い馬鹿中学生達に絡まれたことを話すと、由香は「じゃあ制服で行こ?」と言ってさっさと切符を買ってしまった。水着を買うのは学校の体育授業のためだし、何より制服なら軽々しく声をかけられる事も無いだろう……という計算らしい。
 「んなわけねーだろ」と思わなくも無い桂だったけれど、着替えの服を何も持ってきていなかったので仕方が無い。
 そして電車に乗り、街に出て、デパートに行き、水着売り場に到着するまでにも、桂は無遠慮でいやらしい視線を幾度も幾度も感じた。カチューシャを外していたら、今頃大変な事になっていたに違いない。とりあえず視線が鬱陶しかったものの、擦れ違う街中の男達に片っ端から『犯されるビジョン』を流し込まれるという事態だけは避けられたわけだ。
 ソラ先生が聞いたら、男達の視線がそんなに気になるのなら、水着もネット通販などで買ってしまえばいい……と言うに違いないのだけれど、由香が「やっぱり実際に見てみないと」……と言うので、わざわざこうしてやってきたのである。

 デパートの水着売り場は、スポーツ用品売り場の近くにある。
 こんな基本的な事を、桂はすっかり忘れていた。
 他のデパートではどうか知らないけれど、どうせなら女性水着売り場も婦人服売り場と同じフロアにあればいいのに…………と桂は思った。フロアには、男の姿がちらほらとあるのだ。彼らの視線を気にしながら水着を買わなければならない……と思うと、桂は少し気が重くなるのを感じる。きっと彼女が水着を手にしたりするたびに、頭の中でその水着を着ている桂を想像したりするに違いないのだ。
 由香と言えば、そんな事は気にもせず、ずんずんと女性用水着コーナーへと入ってゆく。桂は彼女の神経の太さに、驚きと共に感心すらしてしまった。
 たぶんこれが、生まれてからずっと“女をやってきた”女の強みなのだろう。
 ……そんな風に思ったりしたから。

 色とりどりの、デザインも多様な水着に目を奪われながら由香に追い付くと、彼女はこの夏の新作が陳列されたコーナーの前で「うーん」と一人で唸っているところだった。
「どうした?」
「うん。あのね? けーちゃん、胸のサイズが『規格外』でしょ?」
 そう言いながら、由香は両手で桂のすごいヴォリュームの胸を“たふっ”と持ち上げた。
 そのあまりにも自然な動作に、桂は反応すら出来ず、ようやく気付いた時には由香はもう、むこうを向いて水着を2・3着手に取って選び始めていた。
 桂はなんとなく自分の胸に“そっ……”と両手を置いてみる。もう、何度も触れた自分の身体の一部なのだ。ブラをしていても、そのやわらかさとあたたかさは、手に取るように感じられた。
 最近、由香は桂の体へと、ごく当たり前のように触れてくるようになった。それが「女同士の気安さからくるもの」なのか、「由香だから」なのか、それは桂にはわからない。けれど、それがちっともイヤじゃないのは、由香があまりにも自然な流れの上で触れてくるから……なのは、確かだった。
『でも……』
 そう思いかけて、ぷるぷると頭を振った。『規格外』と言われたのは、正直、少しカチンときたけれど、事実なので仕方ない。言い返せないのがちょっと悔しいけれど無視しておくことにする。
「だから、ワンピースは無理かも。それよりセパレートとか……」
「セパレート?」
「ツーピース……ええと、つまり二部式水着のこと。うーん……ワンピースみたいに1枚じゃなくて、スクール水着みたいに2つに分かれてる水着のこと」
「え? あれって分かれてるのか!?」
 確かに腰のところで分かれている風に見えなくも無いから、どうなってるのかな? と思っていたのだけれど、本当に分かれているとは思っていなかった。
「サイドでくっついてて分かれてないのもあるけど、私達が通ってた中学の指定スクール水着は分かれてたよ? …………知らなかったの?」
「……だって、自分が着るわけじゃないんだし……」
「はいはい。で、ね? けーちゃん、胸とかお尻とか脚とか、男子に見られるの、恥ずかしいでしょ?」
「……う……うん……まあ……」
 言葉にされると、恥ずかしさが10パーセントくらい増すような気がした。
「でも、パレオは先生がいい顔しないから、タンキニとかいいんじゃないかな?」
「タンキニ?」
「あ、タンキニ[Tan-kini]ってゆーのは、タンクトップとビキニを合わせて短くした言葉で、ビキニより肌の露出が少ないし、ワンピースより上下のサイズが合わせやすいから、けーちゃんにぴったりかもしんないよ」
「……ふーん……」
 実際のところ、「タンキニ」というのは「タンク・トップ」と「ボトム」からなる「セパレーツ」の俗称……らしい。「キャミソール・トップ」でも、こう呼ぶことが多いけれど、「トップ」用の「カバーアップ」としてそれらが付属している水着まで“タンキニ”と呼ぶのは、間違いだったりする。
「他は……キャミキニ[cami-kini]とか……」
「キャミキニ? …………ええと……キャミソール+ビキニ?」
「あたり。けーちゃんすごぉい」
「……オマエ、馬鹿にしてるだろ」
 目を丸くして“ぱちぱちぱち”と手を叩く由香を、桂は睨んだ。わざと“ぷう”とふくれてみせると、慌てて胸の前で両手を“ぷるぷる”と振ってみせるのが、なんだか子供っぽい。
「してないよぉ」
「目が笑ってる」
「う……で、でも、キャミキニは学校ではペケかもね。泳ぎにくいし、ちょっとハデに見えるから」
「ふーん……」
「それに、私達が着ると、ちょっとオバサンくさいかもしんない」
「う……やだなぁそれ……」
「きちんと着こなせる人にはいいけど、私達ってほら……背……低いし……」
「……ははは」
 なんとなく2人で顔を見合わせて笑っておく。胸はパットでどうにでもなる(もちろん、桂みたいにでっかいのを小さくするのは、やっぱりどうにも「無理」なのだけれど)にせよ、身長だけはどうにもならないのだ。
「なあ」
「なあに?」
 店内をきょろきょろと見ていた桂が、由香を呼んで広告を指差した。
「セパレート水着とセパレーツ水着って、どう違うんだ?」
「…………おんなじ」
「へ?」
「ええと……両方ともツーピース水着の事で、どっちかってゆーと別称ってカンジ……じゃないかな? けど、ツーピースの代表選手としてはセパレーツの方が通りがいい……かなぁ……」
「なんだよ。女のくせに自信無さげだな」
 言葉を濁す由香に、桂はまるで自分が勝者にでもなったかのように「ふんっ」と鼻息も荒く唇を歪めて笑った。
 特撮ヒーロー物で悪の女性幹部がよくやるような、そんな微笑だ。
「あ、そーゆー『女のくせに』ってゆーのは男女差別で女性蔑視(べっし)なんだよ?」
「う」
「だいたい、けーちゃんも女の子なんだから、そーゆーんだったら知らないけーちゃんも落第生じゃない」
 旗色が悪い。
 桂はたちまち唇を突き出して、ちょっと拗ねたみたいな顔になった。
「うっせ。ボクはいーんだ。まだ女になって日が浅いんだから」
「もうっ勝手なんだからっ」
「でさぁ……」
「なに?」
 ちょっとトゲのある由香の返事に、桂は努めてにこにこと笑みを浮かべた。
 機嫌の悪い由香には、とりあえず微笑んでおくに限る。
「んと……ツーピースとビキニって違うの?」
「え? ビキニはビキニだよ」
「…………? …………けど、ビキニもツーピースだろ?」
「ビキニは、エロ水着だもん」
「エロ…………」
「エロいよ〜〜〜。もんのっすごく、エロいよ〜〜〜」
 にやにやと笑う由香が、ちょっと恐い。
「けーちゃんみたいな『どかん』で『きゅん』で『ぼぼーん』がこーんな三角ブラと、こーんなTバックなんか着ちゃったら、もう、学校の授業なんてパニックだよ? エロエロだよ? 18歳未満観賞禁止でR指定なんだからっ!」
 由香が「こーんな」と言いながら指差したのは、ホントに「こんなのはダレが着るんだ!?」というような“ちんまい”布地のトップと、「履いたらお尻の穴とかも見えてしまうんじゃなか?」というような驚異的なカタチのボトムだった。こんな、ちょっと動くだけで乳首とかあそことか、いろんなところがはみ出てしまいそうな水着を着るのは、きっとエロ雑誌のグラビアに出るような女か、頭のイカレた痴女に違いない。
 そう思いながら、思わず自分がそれらを身につけている姿を想像してしまうのは、これはもう女になってからの、桂の習性みたいなものだ。
 学校のプール。
 降り注ぐ日差し。
 教師とクラスメイト。
 その中に立つ、重たくてでっかくてゆらゆらと揺れるおっぱいと、まあるくてつるりとした白いお尻を、これらのビキニで申し訳程度に隠しながら立つ自分。
 グラビアみたいな笑顔を浮かべ、グラビアみたいに『女ヒョウのポーズ』とかとってみる自分…………。
『…………もんのすげー……バカっぽー…………』
 うんざりした。
 うんざりして、げんなりして、想像してしまった自分自身を頭の中で20回ほど蹴っ飛ばした。
「それに、飛び込んだりするとビキニって取れちゃったりするから、先生も許可してないし」
「そうなの?」
「そうなの」
 くすくすと由香は笑って、ツーピースの水着がある一角へと向かった。
 その後を、餌を持った飼い主の跡をついてゆくネコのように、桂も歩く。
「あ、そうだ。ねえけーちゃん、夏休みになったら、前みたいに海に行こうか?」
「え? ……な、なんで?」
 ……ものすごくヤな予感がした。
 確かに、中学までは由香や健司を含めた、友達の何人かと一緒に、海やプールにも行っていた。ちっとも成長しない由香をからかったりするのも楽しかったし、健司と沖のブイまで競争するのも楽しかった。
 けれど、高校に上がってからは由香と一緒にどこかに遊びに行った事は、あまり無かった。それは桂が絵にハマってしまったからでもあり、一緒に行った場所はと言えば、美術館とか展覧会とかの、インドアの方が圧倒的に多い。しかも、一緒に見た……というのではなく、桂が時間をかけてじっくり絵を見ているうちに由香がすっかり飽きてしまい、最後には喫茶ルームなどで桂が出てくるのを由香が待つ……というパターンばかりだった(そしてしかも桂は、それを『デート』などとはこれっぽっちも思ってやしなかった)。
 そして今年は、桂の身体がこんなふうに変化してしまった。だから、友人と一緒にどこかに出かける……という選択肢は、桂の中にはもう“無いも同然”だったのである。
 桂がそう思っていると、由香は彼女の耳元に唇を寄せ、悪戯っぽく囁いた。
「健司くん誘って、そんで海でけーちゃんがこーゆービキニ着れば、健司くんだってイチコロだよ? 鼻血ブーだよ?」
「な、な何が鼻血ブーだ! あたまおかしーんじゃねーのか!?」
「えー? なんでー? 健司くん喜ぶよ? ハアハアだよ?」
「ばっ……おまっ……」
 顔を真っ赤にして“あうあうあう”と口をパクパクさせる桂を、由香はものすごく楽しそうに見ていた。
 それは『おねーさんは何もかもわかってるんだゾ?』という、どこか余裕のある笑顔で、そしてまた、じれったくて仕方ない、おせっかいな笑顔でも、あった。

「なあ、今、健司とか言ったか?」
 不意に背後から声を掛けられ、カラフルな色合いのトップを手にしていた桂は、びっくりして振り返った。突然声を掛けられた事にも驚いたけれど、何より、聞き覚えの無い声が「健司」の名を含んでいた事に驚いたのだ。
 見るとそこには、一人の男が立っていた。薄いグリーンの綿シャツとジーンズ、そしてダークブラウンの革靴……という、オシャレなんだかダサイんだか、よくわかんない格好だった。頭は丸刈り気味の長さで、その上で脱色してある。金色に近い茶色…………銅色……とでも言えそうな色をしていた。
 手にスポーツメーカーのビニール袋を持っていたから、ここで何か買ったのかもしれない。
 ……あまり、一般的にいうところの「スポーツマン」らしくは見えなかったけれど。
 桂が訝しげに見ていると、男は“まずった”とばかりに顔を歪め、
「あ〜〜わりぃ……俺の知ってる高校の制服着てたからさ」
 と言って、高校の名前を告げた。
 それは確かに桂の通う高校の名前で、とすると、健司というのも桂の知る「あの健司」かもしれない。
 桂はそう思いながらも、目の前の男への警戒を解かないまま、手にしていた水着を元あった場所に戻して向き直った。
「健司を知ってるのか?」
「やっぱり健司か。水泳部だろ?」
「背の高い」
「バタフライの」
「牛みたいな」
「牛!? …………ああ、まあ、そんな感じか」

 ……ビンゴ。

「オマエ、健司の知り合いか?」
 桂がそう言うと、男はなんとも言えないような顔をしてジロジロと彼女の頭から脚の先まで無遠慮に眺め回した。
「お前、どっかで見たな?」
「はあ?」
 男の言葉に、桂は改めて、注意深くその顔を見た。
 体は引き締まったスポーツマンタイプで、日焼けをした精悍な顔付きをしている。鼻筋が通っているのと唇が適度に厚いため、どこか異国の人のような容貌だった。
 けれど、記憶に無い。
 一方、男の方は目の前の少女の顔を確かにどこかで見たような気がして、どうにも気持ちが悪い。思い出したいことが思い出せない時ほど、胸がもやもやするものはないのだ。
 さらさらでツヤツヤの黒髪と、ぱっちりとした黒目がちの大きな目。長い睫(まつげ)と可愛らしい鼻。ぷっくりとやわらかそうなツヤっぽい唇と、ふっくらとしたほっぺたは、指で突付くと実にやーらかそうだ。男の観点から見れば、滅多に出会う事の無い極上の『美少女』だった。しかも、ブラウスを押し上げて“どかん”と前方に突出した重たげな胸は、一度見たら忘れられないほどの強烈な性的魅力を放っている。
 こんな『美少女』なら、一度見たら忘れられる筈が無い。
 それがすぐに思い出せない……というのは、やはり出会ったことなど無い、という事なのだろう。
『……やっぱり俺の気のせいか……』
 そう思いかけた時、
「テメー、いつまで人の体ジロジロ見てんだよ。ブッ殺すぞコノヤロー」
 美少女が、実に汚い言葉で罵(ののし)った。
「あ」
「……なんだよ」
「ああああああああああああっ!」
「なんだよテメー」
「隆明(たかあき)! ちょっと来い隆明!!」
 突然、男が背後を振り返り、誰かを呼んだ。桂は“ぎょっ”として、後に立つ由香を見る。仲間がいるだなんて思っていなかった。こんな所で、しかも由香と一緒にいる時に絡まれたら、逃げる事も出来ない。
 そう思っていると、
「んだよ、ちいっと待っとけって言ったべ?」
 なんだかヘンな言葉遣いの男が、財布にレシートを押し込みながらやって来るのが見えた。
「なあ、この子見て、何か気付かねぇ?」
「……はあ? ……オレは亮(りょう)みたいに女好きじゃねーからわからん」
「ほら、今月初めの練習試合の帰り、駅前の商店街で」
「あっ!」
 声を上げたのは、「隆明」と呼ばれた男ではなく、桂の方だった。
「オマエら……」
 思い出したのだ。
 この2人とは、一度逢っていた事を。
 女になって初めて家を出た日、駅前の商店街のアーケードの下で、桂はこの2人にナンパされかけたのだ。正確にはナンパではなかったのだけれど、桂は目の前の男――亮が「隆明」と呼ぶ男の思念に脅え、結局は後ろも見ずに全速力で逃げた。
 あの時、既に自分に対して性的欲望を抱いた相手の思念が流れ込む…………という兆候を体験していたため、それを嫌な記憶として忘れようとしていたのかもしれない。それに、あの時は目の前の男も、髪を脱色なんてしていなかったのだ。
「思い出した? そーそーそー、俺達、あん時の2人」
 亮(りょう)という名前らしいその男は、にかっと白い歯を見せて笑った。何の打算も無さそうな、子供みたいな笑顔だ。
「あん時?」
 隆明が、まだわからないといった顔で桂の顔をじろじろと見る。
 それから、ブラウスを下からブチ破らんばかりに思い切り良く膨らんだ胸を見て、もう一度顔を見る。
「わからん」
 …………この男にとっては、顔と胸はワンセットらしい…………。
「だからさ、声掛けた途端、罵って、それからイキナリ逃げ出した子、いたじゃん」
「あー…………あのちっこいの」
「ちっこいのってゆーな」
 隆明がニヤニヤと笑ったため、桂は顔をしかめて文句を言う。
『自分の事を棚に上げてよく言う』
 そういう気分だった。
 この隆明という男だって、平均的高校生に比べると結構身長が低いのだ。
「覚えとる。気のつえーチビっ子」
「チビっ子ってゆーなっつーのっ!」
「健司の彼女らしい」
「はあ!?」
 亮の言った言葉に、桂の顔がおかしいくらいに崩れた。
「この『爆乳』が?」
「『爆乳』ってゆーな!」
 桂の“ゆさゆさ”と揺れる“でかちち”を指差して、隆明は笑う。桂は頭にきて、その指を思い切り右手で引っ叩いた。
「おーいてっ」
「けど、おかしーな」
 大袈裟に手を振って痛がってみせる隆明を横目に、亮が再び桂の頭から脚の先までじろじろと見回し、唇を歪めて、今度は桂の後ろで訳もわからず“ほにゃにゃーん”と立つ由香の、グラウンドみたいにまっ平らな胸を見た。
「あん時は、その子みたいにぺった胸だったろ? いつの間にこんな爆乳になったんだ?」
「揉んでもらったんだべ? 健司によ」
「ああ、あのでけー手でモミモミと」
「うらやましー」
 桂は、怒りと恥ずかしさのないまぜになった赤い顔で2人を睨むと、2人の視線から隠すようにして胸の前で腕を組んだ。
「ボクは健司の彼女なんかじゃないし、だいたい、お…………女の胸とかジロジロ見るのはエチケット違反だぞ! 失礼だぞ! いい加減にしろバカヤロー!!」
 “ぺった胸”と言われて自分の胸を見下ろしながらものすごく悲しそうな顔をしている由香の手を、圭介はちょっと乱暴にぎゅっと握ると、くるりと回れ右をして無言のままスタスタと歩き出す。
 ――こーゆーくだらない手合いとは、まともに話をするのも馬鹿らしい――。
 怒った背中がそう言っていた。
「おーい。水着買いにきたんじゃないのー?」
 背後から、ヘリウムガスよりも軽い声が届く。声には笑いが混じり、それがさらに桂を不機嫌にさせる。
「俺達、もう帰るからさぁ! ちゃんとスケスケの水着買うんだぞー!」
 無視だ、無視。
 そう自分に言い聞かせなら、桂はエスカレーター目指してズンズンと歩いた。もっとも、本人達が無視を決め込んでも、男は相変わらず桂に話し掛けてくる。女性水着売り場で声を上げる事に対して、恥ずかしさは無いらしい。そのためか、周囲の視線は、ものすごく恐い顔をした桂と、彼女に腕を引かれて困ったような顔をしている由香にどんどん集まってきていた。
「あ、ごめん! 超マイクロビキニだっけ? 健司の好きそうなヤツ!」
「ブン殴るぞてめーっ!!!」
 でっかいおっぱいを“ぶるんぶるん”と盛大に揺らしながら駆け戻ると、桂は亮の襟首を両手で掴んでぐいぐいと押し上げた。哀しいかな、亮は健司ほど高くは無いけれど、桂よりも20センチは背が高いのだ。正面から睨む事が出来ないため、自然と下からねめ上げる事になってしまう。
「違った?」
「オマエ…………いい性格してるって言われねーか?」
「よく言われる」
 にかっと笑う亮に、桂は心底疲れたような顔を見せた。

         §         §         §

 そして数分後。
 どういうわけか4人は、階段の踊場に2つあるソファに、それぞれ仲良く並んでアイスなんぞを食べていた。桂はチョコミント、由香はグリーンティとアズキのダブル、亮と隆明はチョコナッツとラズベリーだ。
 お代はもちろんワリカンである。
 借りを作るほど男2人を知らないし、知りたいとも思わない。「奢ってあげる」と言われたけれど、男達のくだらない自己満足を満たしてやるのもシャクに触った。
 ほんの数週間前まで、自分もその「くだらない自己満足」を満たそうとする男だった事は、当然のように成層圏の特別棚に上げておいた。

 ノリの軽い男――亮は、実によく喋った。

 桂と由香はほとんど喋らず、亮と一緒にいる隆明もほとんど喋らない。結果、亮が一人で喋っていた感じだ。
 亮は、「海部 亮(かいべ りょう)」と言って、隣の高校の水泳部のバタフライの選手らしい。健司とはライバル――健司は相手にしていないらしいけれど――で、練習試合や記録会などでは、まだ一度も勝った事が無いのだという。
 一度も勝った事が無いのに『ライバル(好敵手)』と言ってしまえるのも、なんだかなぁ…………といった感じだけれど、健司に迷惑をかけるわけじゃなければ別に構わないだろう…………と、桂は思った。
 亮の隣で、垂れ落ちてくるラズベリーアイスをヘンな顔で嘗め取っている男は「寺沢隆明(てらさわ たかあき)」と言って、バック(背泳)の選手らしい。県下では有名な選手らしい…………のだけれど、別に水泳に興味があるわけではないので桂は知らないし、別に知りたいとも思わない。…………そう面と向かってハッキリ言うと、なんだか傷ついたような顔をしたから、意外と繊細な心の持ち主なのかもしれなかった。
 2人の所属する水泳部は、県大会で団体でも個人でも、そこそこの成績を残す強豪らしい。…………のだけれど、その強豪に属するバタフライ選手のメンバーでも、唯一勝てないのが健司なのだという。
 亮は、健司がいかに力強いストロークで水を掻くか、ブレスのタイミングやターンの姿勢がいかに絶妙かつスタイルとして美しいか、まるで自分の事のように熱く語った。ほとんど、ライバルというより憧れの対象みたいだ。そして、熱く語りながらも、「アイツを負かすのは俺だ」とか「けどベストレコードは俺の方が上だ」とか、しっかり自分をアピールする事は忘れていなかった。

 桂は、自分とは違う視点から健司の事をここまで評価してくれる人間に出会うのは珍しい事もあって、亮の話にどんどん惹き込まれていった。
 亮の語る健司は、まるで健司じゃないみたいだ…………とさえ思った。
 強く、逞しく、後輩からの信頼も厚く、その温和なキャラクターもあって、意外に双方の水泳部女子からも人気がある…………と聞いた時は、ちょっとだけムカッとしたけれど。
 でも、健司の事を良く言われるのは悪い気持ちじゃなかった。
 いや…………むしろ、嬉しかった。
 顔が自然とゆるんで、口元が“ふにふに”してしまうのだ。

 だからこそ、桂もこの亮という男に警戒心を持てなかったのかもしれない。

 そして、亮の横で悪戦苦闘しながらアイスを食べ終えた隆明という男も、初めて出会った時は「やーらしい思念」とかでビビらされたものの、基本的に悪い男ではないのだと知れた。考えてみれば、この年頃の男というものは、ちょっと可愛い女がいれば「セックスしたい」と思うのは当たり前みたいなものだ。…………もちろん、そういう観点から見れば、こうして話している最中にもこの男達の頭の中では桂や由香があーんな格好やこーんな格好で犯されている…………と思わないでもないのだけれど、あえて無視しておく事にする。
 人間関係を円滑に行うためには、時に、鈍感にならねばならぬ時もあるのだ。
「で、桂は健司の彼女なわけ?」
 コーンを口に放り込み、包み紙をクシャリと握り潰しながら、亮が唐突に聞いた。アイスを食べるのが異様に早い。彼はこれで2つめのアイスだった。
 嘗めるというより、かぶりついてものの3分もしない内に食べてしまうのだから、最初からダブルとかトリプルにしておけばいいのに…………と、ダブルをちまちまと嘗めている由香は思った。
「はあっ!?」
 今まで県大会や夏の選考会の話や、この前の練習試合の話をしていたはずが、ここにきて唐突に変わった話に、桂は思わずアイスを取り落としそうになってしまう。
「なんべん言ったらわかんだ? ボクは健司の、ただの幼馴染み。それと、ボクを名前で呼ぶな。慣れ慣れしーぞ!」
「へぇ…………じゃあ桂は今、フリーなんだ?」
「名前を呼ぶなっつーの! なんだよフリーってのは」
「彼氏いないんだろ?」
「ばっ…………馬鹿かオマエはっ!?」
「なんだよ? そんなに怒るような事か?」
「今はいないけど、これから出来るんだもんね、けーちゃん」
 由香が、グリーンティとアズキのダブルアイスを、ちっちゃなピンクの舌で実に美味しそうに嘗めながら横から口を出す。ソファに座りながら脚をぶらぶらさせている様は、遊園地で遊び疲れた小学生みたいだ。
「…………これからもなにも…………ボクは…………」
 桂がなんとなく口篭もると、何を勘違いしたのか亮は桂と由香を交互に見て、
「なに? 桂ちゃんって男嫌い? レズッ子?」
 と、とんでもない事をのたまった。
「名前を呼んでいいって、許可した覚えは無いんだけどっ? それに、『ちゃん』てゆーな」
「いーじゃん。由香ちゃんだって『けーちゃん』って言ってるんだし」
「オマエが『由香ちゃん』ってゆーな! 『けーちゃん』ってゆーな!!」
「桂ちゃんって怒りっぽいなぁ…………生理?」
 さっきまで健司の話を聞いていて“ふくふく”とあったかくなっていた胸が、急速に冷えていく。その代わり、頭の芯が急激に熱くなってきた。
「アホらし。由香、もう行くぞ」
「あ、まだ食べてるから」
 すっくと立ち上がった桂は、由香が“ほにゃにゃ〜ん”とアイスを嘗めているのを見て、毒気が抜かれたかのように再び“すとん”とソファに腰を下ろした。
「はいはいはーい!」
 その途端、亮が白い歯を見せながら小学生みたいな笑顔で右手を元気良く上げる。
 桂は実に嫌そうに、彼を見た。
「なんだよ」
「桂ちゃん、彼氏いないんだろ? じゃあ俺」
「なにが」
「だから、俺」
「………………何の事言ってるかなんとなくわかったけど聞きたくないから聞いてやらない」
 もう、名前を言うのを止めるのは諦めたのか、その事には触れずに桂は憮然として言った。
「俺、彼氏に立候補する」
「聞いてねぇーっつーの」
「健司とは何でもないんだろ? フリーなんだろ? じゃあ立候補してもいいじゃん」
「そりゃ…………」
「ダメ」
 何か言いかけた桂のセリフを遮ったのは、アズキアイスを食べ終えてグリーンティの攻略にかかった由香だった。
「なんで!?」
「由香…………」
「けーちゃんはもう予約済みなんだから、他の男の子の入るスキマなんて無いんだよ?」
 口は笑っているけれど、目は笑っていなかった。
「予約?」
「ちょ…………由香っ!?」
 ぎょっとして、桂は由香の“ほにゃほにゃ”した顔を覗き込む。
「欲しい?」
「いらん。それより、予約ってなんだよ? ボクは別に誰かに予約された覚えは無いぞ!?」
 差し出したグリーンティを無下に断られて、由香は「おいしいのに…………」などと言いながら桂を間近から見た。桂の唇は綺麗なピンク色で、アイスを嘗めた後だからか、ツヤツヤとして思わずキスしたくなってくる。
「けーちゃんは、もうずっと前から私と健司くんのなの。今はもう私とは無理だから、今はもう健司くんのなんだよ? 知らなかった?」
 知らなかった。
 明かされた国家機密レベルの最重要情報に、桂は“ぽかん”と口を開けて由香を見た。
「…………いや、だって…………」
「私も健司くんも、けーちゃんが好きなんだもん。好きだったんだもん。そりゃ、好きって意味は違うけど、好きは好きだもん。好きな人が私や健司くんの知らない人と恋人になるなんて、健司くんは認めても私は認めないもん。私が認めても健司くんが認めなかったら、もちろんダメだもん」
 ムチャクチャな論理だ。
「そこにボクの意志は無いのか…………」
「けーちゃん、私も健司くんも嫌い?」
「…………そりゃ…………嫌いじゃないけど…………」
「ね?」
 …………何が「ね?」なのか、さっぱりわからない。
 大体が、由香に対しては同い年でありながら妹みたいな感じで付き合ってきたのだ。そう思えば、由香は兄(今は姉?)を取られるような気がして、こんな事を言い出したのかもしれない。
 桂はなんとなくだけれど、そう思い、とりあえず同調しておくことにする。
「…………と、いうわけだそうだ」
「なんだよそれ」
 亮の方はちっとも納得いかなかったけれど、不思議とイヤな気にはならなかった。
 彼は“くくくっ”と笑うと、にかっと白い歯を見せて、
「まあ、気長に待つ事にするよ。恋愛まで健司に負けたんじゃ、俺のいいとこ無くなっちまうもんな」
「無くていいから」
「そーゆーとこも気に入ったよ、桂ちゃん」
「なあ、そろそろ行かんか?」
 話が一応の決着を見た…………と判断したのか、隆明がのそりと立ち上がってゴミ箱へアイスの包み紙を投げ入れた。丸めた包み紙は、綺麗な放物線を描いてゴミ箱の横に落ちる。
「はずれ」
「ちゃんと入れろ」
「アウト」
 この時ばかり一斉にハモった、桂と亮と由香の3人の声に、隆明は出会ってから初めて笑顔を見せた。
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