■感想など■

2009年07月26日

第13章「覚悟と決意」

■■【6】■■
 蒸し暑い日々が続くと、登下校時に見る田んぼや用水路、果ては貯水池の水までが自分を誘っている気がする。
 もちろんそんなものは幻想であり幻覚であり幻聴であって、万が一にもその声に従ったら、たちまち青いメタリックなスジの入った水棲吸血軟体生物に吸いつかれてしまうので、誰も実践しようなどとは思わないのだけれど。
 この季節、太陽はもちろん味方ではない。
 特に、梅雨時に顔を出す太陽は、風が無い時などは最悪だ。
 濡れたアスファルトを温めて、湿気を立ち上らせ服の中までじっとりとさせるからだ。そして、3日、4日と降り続いた雨は5日の今日、朝方になってようやく一旦止んで、雲間から時々太陽が覗くようになっていた。そして生徒達が登校を始める7時頃になると、やはり……というか、当然のようにアスファルトから立ち上る湿気と温まり始めた空気によって、朝から彼らの顔には、うんざりとした色が浮かぶようになっている。
 その中にありながら、ちらほらと、どこかウキウキした空気を纏った生徒達もいて、その中には桂と由香の2人もいた。
 今日は、午前中に体育があり、今年初めてのプール授業なのだ。
 1年生の時に、少し深めに造られている学校のプールで脚が攣って溺れかけた経験のある圭介でも、やはり水泳授業は楽しみだったようだ。何より、この蒸し暑さから一時でも解放される事が単純に嬉しいのだろう。LL教室や一部の特別教室以外は、室温が30度を越えない限り冷房が入らないため、涼を取れる時間は学校生活の中でも貴重なのだ(当然、LL教室を使用する英語の授業を楽しみにしているような奇特な生徒など、ほとんどいない)。
 そんなに経費を削減したければ、50万円で購入したとか言われている、来賓用玄関に飾ってある見た事も聞いた事も無い画家の暗くて地味な絵を、さっさと売り払ってしまえばいいのに……と生徒の誰もが思っているのは、もはや公然の秘密だった。

 体育は3時間目に、グラウンド横にある、体育館より一回り小さい建物の中の室内プールで行われる。
 全天候型の半屋内プールで、現在は天井を覆う天蓋が半分以上も開放されていて、雲の多い空から太陽の光が降り注いでいた。
 蒲鉾(カマボコ)型の建物の内部にあるプールへは、正面玄関を入って右に男子更衣室、左に女子更衣室……という具合に分かれていて、覗きや盗撮、その他の破廉恥行為が容易には出来ないようになっている。その上、一般生徒の水泳授業参加が無い時でも、水泳部が使用しているため、週に2度は抜き打ちで更衣室の点検が行われているのだ。今まで4回ほどマイクロカメラや盗聴器が発見された事があるけれど、そのどれも犯人が特定され厳罰処分となっていたから、今では危険を冒してまで『勇者』になろうという者はいない。
 男だった時は男子更衣室しか入った事の無い桂は、今年初めて女子更衣室に入る事になる。
 もっとも、更衣室など、どこもかしこもみな同じようなものなのだけれど。

         §         §         §

 そして待ちに待った水泳授業は、2年C組とD組の男女混合の合同授業で、そして次の4時間目はE組とF組の番だった。
「……で? なんでオマエがここにいるんだよ?」
 圭介は傍らに立つ長身の幼馴染みを見上げて、ぷっくりとした可愛らしい唇を突き出していた。
 まるで挨拶のようにおっぱいを女子に揉まれながら慌てて着替え、逃げるようにしてシャワーを浴び、消毒槽に胸まで浸かりながらプールサイドに出てみれば、競泳用水着を着てゴーグルを額につけた牧歌的笑顔の幼馴染みがそこにいたのだから無理も無い。
 彼のいるE組の水泳授業は、次の時間のはずなのだ。
「地理の浦木先生が休みで、自習になったんだ。それでどうせなら大会も近いから、今年の選手候補は……って森本先生が……」
「ふーん……サムソンの野郎め……好き勝手やってやがんなぁ……」
 困ったような顔をしてこちらを見る健司を横目に、桂は第1コースで準備運動をしているマッチョな男を睨みつけて苦笑した。

 「サムソン」というのは、勤続10年目の体育教師で、健司の所属する水泳部の顧問もしている35歳独身の“筋肉ダルマ”のことだ。彼は本名を「森本直樹」と言って、ここのOBであり、そして昔はかなりの記録保持者だったらしい。
 35歳という若さでありながら、その頭は「水の抵抗を減らす」とかなんとか、現実的に効果があるんだか無いんだかわからない理由で綺麗に剃り上げてあって、そのスタイルは学生時代からずっと護り続けているものだ……とも言われている。
 かなり前に伝説の名(迷?)機『PCエンジン』で出た、マッチョ系コミカルシューティング(?)に出て来るキャラクターに似ている……らしいのだけれど、桂はそのゲームを知らないから、ただ先輩から教えられたあだ名を、なんとなくそのまま使っているだけだった。
 時々、大時代的な『青春論』とか『努力』とか『友情』とかを熱く語って暑苦しい事この上ないので、そういう意味では生徒達の評判は芳しくない。けれど、意外に話のわかる教師だから、特に嫌われているわけでもなかった。
 かくゆう桂も、積極的に関わって来ない限りは嫌いにはなれないタイプだと思っている。
 …………それはそれで、かなりシビアな人物評ではあるのだけれど。
「いくら大会が近いからって、他の授業を抜けさせてまで自分とこの部員を鍛えようとするなっつーの」
「しょうがないよ。この間の練習試合も、個人タイムはほとんど隣の水泳部に負けてたし……」
「けど、オーバーワークだろ? 筋肉を酷使し過ぎると、逆に硬くなっていざという時役に立たねーぞ?」
 中学の陸上部にいた時、過剰練習で潰れていった部員を何人か知っている桂だからこそ、出た言葉だった。
「大丈夫だよ。自分達の練習量は、ちゃんと自分達でコントロールしてるし、先生も強制はしないしね。それより……」
 健司はそこまで言うと、なんとなく視線をさ迷わせて宙を見た。
 それから“ぽりぽり”と指で頬を掻いてから“ぽややん”とした笑顔を浮かべると、桂を見下ろす。
 そしていつものように何のてらいも無く、
「その水着、可愛いね」
 ……と、言った。
 驚いたのは桂の方だ。
「え? ……あ…………そ、そうか?」
 突然振られた話に、彼女はどきまぎして、自分の声がおかしいくらい上ずっている事にすら、気付かなかった。
 彼女といえば、不用意に視線を下げてしまって、逞しく浮き出た健司の腹筋や、引き絞った筋肉の束が見えるかのような太い太股、そしてビキニスタイルの競泳用水着を盛り上げる、(たぶん)普通より大きいサイズに違いない「もっこり」をまともに視界へと入れてしまい、挙動不審に目をきょろきょろと周囲にさ迷わせていた。
『ちくしょー……なんで健司が……というか、健司の…………に、なんでドキドキしてんだよボクわっ……』
 一瞬、
「ボクはホモか!?」
 と思いかけて、
「今は女なのだから、男と女で『普通』だ」
 などと思い直し、そしてまた
「いや、違うだろ? 親友の…………にドキドキするのって、やっぱおかしいだろ? そうだろ? ちがうか?」
 と自問した。
 もちろん、今ここで自問したからといって、今まで散々自己内議論を繰り返してきた議題に答えが出ようはずも無く、結局、不自然に視線を健司からそらしたまま、どこか『ぼうっ』とした目付きで会話しているのだった。
「いつ買ってきたの?」
「…………え……うん……このあいだ」
「この間?」
「……ええと……30日」
「期末テストの最終日?」
「……うん……」
「由香ちゃんと?」
「……うん……」
「●●●デパート?」
「……うん……」
 何を聞いても、消え入るような声でしか返事をしない。
 健司は、いつもと明らかに様子の違う桂に、ちょっと困ったように苦笑いを浮かべた。

 桂の着ている水着は、落ち着いたデザインながらも身体の線をきちんと綺麗に見せてくれるタンキニだった。
 カラフルなものや可愛い柄のものもたくさんあったのだけれど、むやみに視線を集めたくない……という桂の意向を汲んで由香が選んだものだ。基本色は黒に近いグレイで、紐の類は白。そして布地には、良く見るとカラフルなラインが何本も入っている。サイドにちょこっとだけメッシュな部分があって、そこがなんとなく可愛い感じがした。それに、カップは薄めのハードカップで、ホールド力もそこそこあるようだ。おっぱいのサイドトップから片紐が出ていて、首の後で結ぶようになっているけれど、タンクトップ型なので紐を解いてもおっぱいがこぼれてしまう……という事はそうそう無さそうだった。
 ボトムはビキニラインが出るようなミニではなく、ちょっとだけVラインの角度が広い。そして両サイドが半分だけ編み込みになっていて、上部に紐の結び目がある。一見すると、それを解いたら脱げてしまいそうだけれど、実はそれは単に飾りなだけで、運動するには別段不都合は無さそうな感じだった。
 もっとも、いくらビキニより肌の露出面積が多い……とは言っても、水着は水着。
 なにしろ桂のおっぱいは、由香が言うところの『規格外』なものだから、いろんなところがもう、すごいことになっていた。
 この水着は、いつものブラと違って当然のようにワイヤーが入っていない。
 だから、どんなにしっかり包み込んでも、彼女が動くたびにおっぱいも身体の動きに合わせて“ふるん”“たゆん”と、実に重たそうに揺れ動くのだ。しかも、ぐっと両側から寄せられたおっぱいは、アイスランドの“地球の裂け目”「ギャウ」を思わせるような、深くて魅惑的なクレバスを形作っており、うっすらと血管の浮くほど白い肌と相まって、実に、こう…………『エロ』かった。
 首も肩も腕も脚も、おっぱいが大きいと普通は“当然肉がついてしかるべき場所”が軒並み細くて華奢で、なのにおっぱいだけが何かの冗談みたいに“どかん”と突出しているものだから、同年代の女子の中に混じると、まるでアニメか漫画の中だけで生きる「妄想具現化少女」が混じったかのように、ものすごく目立つ。
 事実、水泳授業を受ける男子生徒のほとんどが、桂の身体…………特に、おっぱいに視線を奪われていた。おまけに、そこらのグラビアアイドルなどと並べても遜色の無い…………いや、それ以上の可愛らしい顔付きなのだから、注目するなと言う方が理不尽だと言えそうな感じだ。
 結果、いつもなら猿山のように騒がしい水泳授業が、どこかの中央作戦会議室みたいに“ひそひそ”と“ぼそぼそ”と“ごにょごにょ”だけで満たされている。
 そして、その衆目の中心にいる桂は……といえば、
『なんか言わなきゃ、話さなきゃ、会話…………会話…………』
 俯いたまま、必死に自分を叱咤する……という、どうしようもなく“へなちょこ”状態だった。
 そして数秒後、なんとも言えない顔をして不意に黙り込んだ健司に、桂はどうしようもなく不安になって、慌てて顔を上げた。
「……あ……え…………ええと……その…………その……これ……ヘン……かな?」
「ううん。似合ってる」
 ホッとしたような顔で、間髪入れずに健司が答える。
 彼は、桂が口を開いてくれたおかげで、重たい雰囲気が一気に霧散した気がした。
「…………へ……へぇ……そう……」
 桂は顔がゆるむのをいっしょうけんめい我慢しながら、つまらなさそうに足元の水溜りを右足で蹴り散らせてみる。
 そうしてから、
「そ……そうか……うん…………い、いや別に、そんな事言われても嬉しかないけど。いや、ほんと、もう、どうでもいいんだけど」
 と、ちょっと早口に言い放った。

 ――――ものすごく嬉しそうに見える。

「でも、その……ちょっと、胸が……露出し過ぎてない?」
「……そう……かな?」
「うん。なんか、その、えっち…………に見える」
「う……」
 健司の視線を感じると、“かあああぁ……”と頬や身体が熱くなる。なるべく意識しないようにしていたのに、突然、まるで健司の前で裸になってしまったような、あの保健室の前で感じた時のような、猛烈な羞恥が全身を駆け巡った。
 なんとなくおヘソを出しているのが恥かしくて、桂はトップの裾を“きゅ”と下に引っ張ってみる。するとたちまち盛り上がったおっぱいが今にもこぼれそうになり、今度は慌てて両手で肩紐を引っ張ってみた。
 結果…………おっぱいが、“ふにょんぶるんぽよんたぷん”……と、下にひっぱられたり上にひっぱられたり……と、ひじょーに目の毒な光景が展開されてしまう。
「これ、私が選んであげたんだよ?」
 そ知らぬ顔をしながら顔を背ける健司の横で、桂が泣きそうになりながら水着を調整していると、急に後から由香の声がして、ウエストに白くて細くてちっちゃい両手が回された。“ふにっ”としたやわらかい体が背中に密着して、桂は思わず「うひゃ」と間抜けな声を上げてしまう。
「由香っ?! もうっばかっ…………んっ……」
 怒った顔をして身を捩る桂を、由香は“ぎゅ”と抱き締めて、巧妙にその動きを封じた。
 こんな事は、今の由香にとってはわけもない。ウエストを抱き締めるようにしながら両手の平を脇腹にのせて、そっと肋骨のところを撫でれば、桂はびっくりするくらい大人しくなってしまうからだ。
 彼女は恐るべき事にこの一ヶ月で、桂の弱いところとか“はにゃ〜ん”となってしまうところとか、いろいろヤバいスイッチとかを、もうすっかり熟知してしまっていたのだ。
 いつ把握したのか……なんてのは、アメリカ国防総省(ペンタゴン)の重要機密並みの秘密(トップ・シークレット)なので、聞いてはいけない。
「水着は可愛いの。でも、けーちゃんがエロいからエロくなっちゃうの」
「そ……そう……」
 そんな由香は、ごく普通のワンピースだった。基本色は空色で、薄いオレンジのストライプ入り。サイドに“ぴらっ”と少しだけフリルがついてて、幼児体型ということもあり、その手のオタク様方がハアハアしてしまいそうなくらい、なんだか妙に“アブナイ”感じがする。
 実はキッズ用水着なのではなかろうか? という疑問は、バストラインに4体並んだ可愛いペンギンさんの絵柄を見たら、きっと納得してしまうに違いない。
 もちろん、
“やっぱり……”
 といった具合に。
「ふざけ…………ばっ…………」
 時々思い出したように“じたばた”と暴れる桂を、由香の細くてちっちゃい手がそれだけで押さえ込んでしまっている図……というのは、どこかおかしくて、そしてどこか微笑ましい。けれど、桂のウエストでぎゅっと締められた由香の両腕に、下から桂の重たいおっぱいが押し上げられて、さっきより更に“すごいこと”になってた。“たぷたぷ”とした“マシュマロおっぱい”が盛り上がり、まだ滴っていた消毒槽の水がその谷間に雫を走らせる。
 それを見た健司は、絶体絶命の窮地に追い込まれてひとたまりもなくうろたえ、顔を赤くしたうえ「あ……」と呟いて視線をそらした。
「ね、健司くん。コーフンする?」
「ええっ!?」
 本当は、由香に聞かれるまでもない。
 健司は“なぜか”居心地がものすごく悪くなり、くるりと2人に背を向けると、
「じゃ、じゃあ、けーちゃん、由香ちゃん、俺、行くね?」
 まるで逃げるように(実際、そうなのだけれど)そそくさと第一コースへと行ってしまった。
「健司くんってやっぱりジュンジョーだよね。……ホント、先は長いよ? けーちゃん」
「…………何言ってんだか、わかんねー」
 後に残ったのは、『たっぷりと重たいおっぱいの感触を楽しみながらくすくすと笑う幼児体型の小悪魔』と、『憮然としながら幼馴染みがさっさと離れていってしまった事がちょっと寂しいのがまるわかりの子猫娘』だけ、だった。
「ちょっとそこの百合バカップル。早くこっち来なさい」
「誰が百合バカップルだ」
 突然“すぱんっ! ”と頭をはたかれて、桂は噛み付くように横を見た。
 そこには、怒ってるような困ってるような、それともホントは面白がってるだけなのかもしれない桑園京香の、お嬢様然とした綺麗な顔があった。

         §         §         §

 準備運動を、小学校のラジオ体操よろしくみんなで並んでしていると、そこかしこから無遠慮な視線をビシバシを感じて、桂はとてもとても居心地が悪かった。
 しかも、見ているのは男子ばかりではなく、D組の女子も同類で、クラスメイトであるC組よりも桂に対しての免疫が無い分、興味深々といった様子で男子よりも堂々と、マジマジと、目を輝かせて見てくるものだから、彼女は一刻も早く水の中に逃げ込みたくてたまらない。
 “ぶるんぶるん”“たっぷんたっぷん”と盛大に揺れるおっぱいが、同性にとってもものすごく気になる存在なのはわかるけれど、こんなものは所詮「脂肪と乳腺のカタマリ」なのだから、いいかげん慣れてほしいのものだ。
 …………なとど、思春期の男子にとっては無理難題に等しい事を、彼女は心の中で思っている。
 ふと視線を巡らせば、1コース右手の飛び込み台下に、健司の姿があった。
 ゴーグルを水に浸し、零して曇りを取るその表情は、普段でも滅多にない真剣な表情だ。
 それは自分自身との勝負に挑む男の顔であり、力を出し切って限界を越えようとする男の顔だった。
『……あ…………』
 その顔に、反応する。
 真剣な眼差しに、反応する。
 “きゅん”と、下腹部が、そこに在るモノが、震え、そして啼く。
 自分の身体が“どうしようもないほど『オンナ』なのだ”と実感する一瞬……だった。

『男に戻るためには、まだ「女」という「性」に慣れ切っていない今、男のメンタリティを持ったまま、健司以外の男と“激しい嫌悪感を抱いたまま”セックスするのが一番良い』
 そう、ソラ先生は言った。
 健司と結ばれ、健司の子を身篭るために変体した『山中 桂』という『存在』。
 では、健司の子を身篭るために“変体”した桂が、もし健司の子を身篭る事が出来なかったら?
 『想い』を遂げる事が、出来なかったら?
 そう訪ねた時、ソラ先生はこう言った。
「どうにもならんよ。御伽噺の人魚姫でもあるまいし、泡となって消えるわけでも儚んで死ぬわけでもない。ただ、完全な女に固定化するだけだ」
 …………つまり、桂にあと2回生理が訪れるまでの期間が、“彼女”が男に戻る(おそらく)最後のチャンスなのだ。
 自分の気持ちを認めずに、やがて訪れる健司との別れを大人しく迎えても、
 自分の気持ちを認めて、健司に想いを告げ、結ばれても、結ばれなくても、
『――――これからの人生は、ずっと女であり続ける事になる……』
 そう思っても、桂の心の中では、不思議とそこに『絶望』は、無かった。

 むしろ、ただ
『そうなんだ……』
 と思っただけ……だった。

 では、望まぬセックスをして、“激しい嫌悪感”の中で男に戻れば、それで全て納得出来るのか? と問われれば、“今の”桂は「否」と答えるしかない。
 男に戻れば、健司に抱いたこの不可解な想いは、霧のように掻き消えてしまうかもしれない。
 ごく普通の、男同士が『普通』に感じる「友情」というものに変化するかもしれない。
 それはそれで、きっとごく当たり前のことなのだろう……とも思う。
 けれど、それだけならまだいい。
 もし男に戻ったとしても、自分が『星人に連なる者』だと明かせない以上、健司とはもう二度と逢えないかもしれない。
 健司だけではない。由香とも、クラスメイトとも、『圭介』と『桂』を知る全ての者とは、逢えなくなるかもしれない。
 母の『メッセージ』と『星人』のテクノロジーを使って、彼ら全ての記憶を操作し、『桂という人間が存在したこと』そのものを『なかったもの』としてしまったとしても、それは同じ事だ。
 自分の記憶を持たない人々の中に、記憶を持つ自分だけがいる。
 そんな状況には、桂自身が耐えられなくなるに違いないのだ。
 自分が持つ「愛しい人々との懐かしい思い出」を、その人々自身が持っていないというのは、「死ぬ」ということだ。
 いや、「存在を抹消される」という、「死」さえも越える、恐ろしいことなのだ。
 「忘れ去られる」ということは、人々にとって「最初からいなかったこと」と、同じなのだから。

 もちろん、得るものは、在る。
 在らねばならない。
 そうでなければ、男に戻る事に『意味』が無くなってしまう。

 男に戻れば、失った17年間の、そしてこれからの、「男としての人生」を取り戻す事が出来るのだ。
 生物学的な「男」という種の自由、便利さ、社会的有利さ、女性に対しての優位性。
 そういったものを、全て再び取り戻す事が出来る。

 ――――だがそれは、今の桂(じぶん)を否定してまで、本当に取り戻したいものなのか?
 取り戻すべきものなのか?

 ――――――そこで再び思考は振り出しに戻るのだ。

 かといって、女である事を選び、それでも健司と結ばれなかった時は、女のメンタリティでもっていずれ健司以外の男を好きになり、『星人』の悲願を果たすべく、その男の子供を身篭る……。
 そんなこと、今の桂にはとても考えられなかった。
 『気持ち悪い』と、思った。
 健司は健司であり、健司以外の男は「健司じゃない男」に過ぎない。どうせ結ばれるのであれば、子供を身篭るのであれば、相手は健司であって欲しい。
 そう思う自分を、今の桂は確実に自覚してしまう。
 そして、そう自覚しながらも、全く逆に『親友の肉体に性的欲情(受胎欲求)してしまう自分』を嫌悪する自分をも、自覚する。

 思考は堂々巡りを繰り返し、想いは袋越路で小さく縮こまって、不安が桂の胸を黒く塗り潰してゆく……。
『健司……ボクは…………』
 雨に濡れた捨て猫のような目で、プールサイドに立つ健司を見た。
 第一コースで、豪快なバタフライで泳ぐ健司を見た。
 サムソンに何事かを言われ、いちいち頷いている健司を見た。

 そして、そんな桂を、彼女のすぐそばで幼児体型の幼馴染みが切なげに見ていたことに、彼女はとうとう“その時”まで気付かなかった。
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