■感想など■

2009年07月27日

第13章「覚悟と決意」

■■【7】■■
 そんな事を考えていたからだろうか?

 ――――脚を、攣った。

『あ、ヤバいな』
 と思った時はもう遅くて、左足の脹脛が“びきっ! ”と突っ張り、水を“がぼっ”と飲む。
 鼻からも水が入り、目を“ぎゅっ”と瞑ったものの、塩素臭い水が鼻の奥を焼く痛み(?)に、桂の思考はいっそうパニックへと突き進んだ。目を開けても、視界は薄青く着色された水中と水面とそれ以外を“ざばざば”と音を立てながら上下するだけで、こんな時にこそ威力を発揮するだろう「水中ゴーグル」なんていう“文明の利器”は、水泳部という“特権階級”にしか許されていない特殊ツールであり、ことプールの中に限って言えば「視界良好」なんてのは彼らのためだけにあるような言葉だから、今の桂にとっては目を開けても見えていないのと全くの同義だった。
 プールを支配しているのはいつも「そこ」を有用している人種であり、ただの体育の授業でゴーグルを使わせてもらえるほど、桂達一般生徒のヒエラルキーは高くはないのだ。

 そもそも桂は…………『圭介』は、去年も足を攣って溺れかけた事がある。

 その時は、一緒に泳いでいた健司がいち早く気付いてくれたおかげで、危うくも事無きを得た。けれど今年は、たまたま同じ時限にになった健司の、その泳いでいる1コースから2本も隔てた4コースで泳ぎ、しかもど真ん中でこんな危機的状況に陥っている以上、彼の助けは絶望的と言っていい。
 また、もともと桂は泳ぎがあまり上手くなくて(それでいて、海水浴などでは毎年のように健司に勝負を挑むのだから、プライドだけは高かったのかもしれない)、平泳ぎをしていてもクロールをしていても、由香にさえ「溺れているみたい」と評されるような『芸術的な水飛沫』を上げてしまうものだから、たぶんきっと今だって「実は溺れかけているのだ」と咄嗟に気付いてくれる者はほとんどいないだろうな……と、彼女はちょっとだけ絶望的な気分に陥っていた。
『うううぅっ……!! ……』
 左足の引き攣りはいっそう深刻になり、“ぎゅうう”と何者かに脹脛の中の腱を力任せに引っ張られている気さえしてくる。口を開けば容赦無く水が入り込み、咽頭を経て逆流しながら鼻腔に至り、呼気と共に鼻から出てくる始末。
 いくら「美少女」と評してもいいほどの顔立ちでも、「ガハゲヘボハッ」と鼻水混じりの水を鼻から噴出させていては、例え彼女に心寄せる者がいても、百年の恋だってたちまち冷めようというものだ。
 もっとも、彼女もこの状況下でありながらそれは“ちらり”と……ではあったが自覚していて、
『きたねぇなぁ……』
 などと頭の片隅で思ってみたりするものの、当然そんな思考など、すぐさま千々(ちぢ)に乱れて霧散した。
「桂ちゃん!?」
 今の声は由香か?
 そう思って顔を上げようとするけれど、体がまるでたっぷりと水を含んでしまったスポンジのように急速に重くなって、既に手足の動きすらままならなかった。それでも「ひょっとしてこのまま……」と暗い考えに陥らないのは「学校のプールなんかで死んでたまるか」と強固に思っているからで、「水深1メートルでも人は立派に死ねるのだ」と知っていたら、さすがの桂もこんな事は思えなかったかもしれない。
「ケイ!」
 突然、声と共に、ぐいっと腕を引かれた。
 プールは端の方で水深1メートル50センチほどあり、桂のいるところは1メートル90センチもある。彼女の身長より40センチ以上深いところでは足先がプールの底に着く筈も無く、桂は引き上げてくれた手の主が誰かなどと確認する暇もあらばこそ、なかばしがみつくようにして水面に顔を出し、“ひゅぃあっ! ”と音を立てて空気を貪った。
「ばっ! ……しがみつくなっ!!」
 声からして男子生徒だろう手の主は、慌てて桂を引き離そうとするけれど、桂は「離されてなるものか」とばかりに声を上げる相手へと、がむしゃらにしがみつく。

 水難救助の鉄則から言えば、“溺れかけた者の手を引く”なんてのは、最近の素人でもあまりしないミスかもしれない。『溺れる物は藁をも掴む』の諺通り、“パニックに陥った人間”というものは、縋れるものであればそれが人だろうが物だろうが、はたまた正体不明な妖だろうが、とりあえずしがみついて命を永らえようとするものだからだ。それはもう人間の本能みたいなもので、元来哺乳類としては壊滅的に泳ぎの苦手な動物らしい、緊急時の反射行動と言える。
 だから、溺れる者を助けようとする人間は、要救助者の背後から近付いて首に腕を回し、気道を確保しながら岸まで誘導するのが正しい。

 かくしてプールでは“はたしてどっちが要救助者なのかわからない”非常に無様でめちゃくちゃな状態が展開されていた。
「ケイ!! ケーイッ! 落ち付けっ! ばかっ!!」
 男子生徒は暴れる桂に説得を試みるものの、もちろん彼女は――――
「ガハッ! げはっ! しっ死ぬッ!!」

 ――――聞いちゃいない。

 それでも、もがく桂を男子生徒がなんとか強引にプールの端まで引いて行くと、ようやく彼も足が底に着いたのか、むずがる赤ん坊のようにしがみついている桂の頭を、溜息を吐きながら“ぺちぺち”と叩いた。
「ふあ?」
「もう大丈夫だっつーの。落ち付け。な? 落ち付いたか?」
 鼻から透明な鼻水を垂らした桂が荒い呼吸のまま顔を上げると、10センチと離れていない超至近距離に、彼女の見知った――あまりこんな距離で見つめ合いたくなんかない――顔があった。
「よ……吉崎……」
 それはC組3馬鹿の一人、吉崎卓巳(たくみ)だった。
 男だった時には毎朝のように加原と金子と一緒になって『圭介』の頭を叩いていったバカで、
 誰が好きだとか、どのグラビアアイドルがいい乳してたとか、バイクの話とかサッカーの話とか、ブリスターパックの新製品の話とか、そういう、男同士の馬鹿話を一緒にしていたバカで、
 女になった『圭介』がミニスカートを履いているのを見て自転車で派手にすッ転んだバカで、
 Gカップまで膨らんだ『圭介』の“でかちち”を掴んで彼女に追い回され、上履きでめためたにどつきまわされたバカで、
 生理を経てどんどん女らしく変わっていく桂を、今、クラスで一番熱く見ているバカ……だった。
 その、『つい一月前まで男として接していた桂を、何のわだかまりも無く女として恋愛の対象に据えてしまったバカ』は、ちょっと顔を動かせばそのままキスしてしまいそうなほどの至近距離で「にやっ」と(たぶん本人は「爽やか」だと信じている)笑顔を浮かべた。
「あ……」
 その顔を見て、急に桂は自分が今“どんな格好でいるか”を知り、慌てて彼から離れた。今の彼女は、まるで遊園地か水族館で父親にだっこされる娘みたいな格好で…………いや、夜の公園で2人の世界を創っている恋人みたいな格好で、彼の首に“ぎゅっ”としがみついていたのだ。
「わわっ……うぅあっ!」
「ばかか? まだお前の足がつく深さじゃねーっての」
 “どぼん”と首まで浸かり、再び彼に引き上げられて、桂は慌ててまた同じように彼にしがみつく。
「げほっ! ……ごほっ……っ……!!」
 ――無様だ。
 そして、強烈な恥かしさが全身を嘗める。
 今の今まで、しかもよりにもよって吉崎に対して、寒さと緊張で硬く立ち上がった乳首を、タンキニのトップを突き破って飛び出してしまいそうなほど豊かに実った乳房ごと、彼の決して逞しいとは言えない胸板に押しつけていたのだ。“むにゅり”と形が変わるほど押し付けられ、逃げ場が無く上方に押し上げられた白くてやわらかい乳房の谷間には、プールの水が湛えられてその亀裂をいっそう深いものと見せている。
「大丈夫か?」
 こちらを気遣っているような顔をしながら、その実、吉崎がこの状況――桂を公然と抱き締め、その残酷なほどにやわらかく弾力に富んだ乳房を思うさま胸で感じている――を楽しんでいるのは明白だった。
 そして太腿に何かが当たった――と気付いた時、それが何であるか稲妻のような早さで理解した桂は、体中に鳥肌が立つのをハッキリと自覚した。
『コイツ……勃(た)ってやがる……!! ……』
 助けてもらっておいてなんだけれど、桂は“ぞわり”と、うなじの産毛が立ち上がるほどの嫌悪感を感じた。
「あ……も、もういいから……」
「無理すんな」
 吉崎の息が頬に、首筋に当たる。
 おぞましい匂いに、吐き気がした。
 男女混合授業ということでシャレ気を出して口臭予防にガムでも噛んだのか、口臭にはミントの香りが混じっていた。けれど、由香や京香やクラスの女子が使うミント系の香りとは、まるで違うのだ。

 自分の肉体に欲情した男に抱かれている。

 その愕然とするような状況と精神を根本から揺さぶるような気持ち悪さに、桂は目の前が真っ暗になりそうだった。
「けーちゃん! 大丈夫!?」
“あと3秒遅かったら吐いていたかもしれない”
 そんなギリギリの状況で聞いたのは、背の高い幼馴染みの、珍しく切羽詰った声だった。
「さんきゅ……もういいよ」
「あ、ケイ、まだ……」
 人の体のやわらかさを散々堪能したくせに、まだ名残惜しそうな顔をしている馬鹿男を“ぐいっ”と押し退けて(助けてもらった分の「礼」は、もう十分したはずだ!)、桂は痛む左足を庇いながら、手だけで水を掻いて自力でプールの端まで辿り着いた。
「けーちゃん」
 健司の顔を見ると、ほっとする。
 ざわざわと全身を虫が這い回っているような不快感が、ウソのように消えていた。
 心配そうな顔の健司の後には、監督不行届き甚だしいサムソン(森本先生)の顔もあったけれど、桂の目は当然のようにその存在を抹消している。
「ほら」
 伸ばされる健司の右手を取り、左手をプールの縁にかけて上半身を水から出した。重たい乳房が浮力から開放されて、急に重力の支配を受ける。“ぷるっ”と揺れるその双丘から、プールの水が跳ねるようにして滴り落ちた。
『……あ……』
 手から伝わる健司の“あたたかさ”に、涙さえ出そうになる。
 それだけで……たったそれだけのことで、桂はさっきまでの不快感を一瞬だけ綺麗サッパリと“忘れた”。
 ……けれど。
「ほら、しっかりしろ」
「ひゃ」
 不意に後から、声と共に太腿とお尻を両手で押される。
 桂は飛び上がるようにして、慌てて全身をプールサイドに引き上げた。
 ……吉崎(あのバカ)だ。
 桂が四つん這いになって背後を睨むようにして見ると、彼はニヤニヤとしていた笑みを引っ込め、努めて真面目な顔を作った。その憎たらしい顔を見ていると全身に覚えた不快な感覚が蘇りそうになって、桂は思わず怒鳴ってやろうと思い口を開ける。
 けれど、不意に桂は息を吐いて、小さく肩を竦めるだけにとどめておく事にする。
『助けてもらったのだから、お尻を触られるくらい、仕方ない。オマケにしといてやる』
 ……と、無理矢理自分を納得させたのだ。
 もちろん、ちょっと…………いや、かなり悔しい気持ちを抑え込みながら。

 そんな桂を、回りを取り囲んだ男子生徒が、顔のにやけを隠そうともせずに見ていた。
 四つん這いになり、タンキニに包まれながらも重力に引かれてどうしても重たく垂れ下がってしまう豊かな乳房の先端から、プールの水が糸のように滴っている。パットが入っているために、あからさまな突起は窺い知る事は出来ないけれど、昔懐かしいロボットアニメの『おっぱいビーム』みたいに、2条の線となって水が滴っている図……というのは、その起点に乳首の存在を感じずにはいられなかった。そして何よりタンキニの上部からは、うっすらと血管すら浮かんでいる二つの白くてまあるいおっぱいのふくらみが、まるでこちらを挑発するように盛り上がりを見せているのだ。
 これを男子に「見るな」と言うのは、サバンナの草原で腹を空かせたチータに「目の前を横切る美味しそうなインパラの子供を見るな」と言う事に等しい。
 ただ、体育教師のサムソンまでが同じように鼻の下を伸ばしているのは、さすがにどうかと思うけれど。
「いつっ……」
 桂は男子生徒の視線が自分の胸に集まっている事には気付かずに、顔をしかめて体を捻り、“ごろん”とお尻をプールサイドに落とすと左脚の脹脛を擦った。体を捻った拍子に、アンダー65、トップ87のFカップ――水着で若干補正されている今は、たぶんGカップくらいはある――が“ゆさっ”と重力に従って実に重そうに揺れる。“たぷんっ”と流れるように揺れなかったのは、若さゆえの張りと、何より薄いながらもホールド力のあるカップのお陰だろう。
 桂は溺れかけたためか、まだ息は少し荒く、伏せられた瞳は物憂げとも取れる角度で自分の左脚を見ている。顔にかかった髪を鬱陶しそうに掻きあげる仕草さえ、ひどく艶かしかった。
 そんな、“今、世間で一番もてはやされる『童顔巨乳系グラビアタレント』よりも可愛らしい顔”と、“華奢な身体と比べるとアンバランスなほどの胸のふくらみ”が「何の変哲も無い学校のプールサイド」に生み出す情景は、男子生徒達に「グラビア撮影の現場に来てしまった」かのような錯覚を抱かせた。
 その中で、溜息を吐きながら脚を擦る桂の体を、じろじろと嘗めるように見ていないのは、彼女に“いろんな意味で”一番近い場所にいる健司と、呆れたような顔付きの女子生徒達くらいのものだった。

 …………と。

「はいはいはい! 男子! 散るっ!!」
 突然、『ザバァッ!!!』と水音も激しく、バケツの中身が鼻の下を伸ばした男子生徒の背中に撒き散らされた。
「つめてーーーーーーーーーーーー!!!!」
 水道から汲んできたばかりのよく冷えた水に、彼らの悲鳴がプールいっぱいに響き渡る。
 怒りにまかせて振り返った彼等は、こめかみをひくつかせながら仁王立ちする宮森倫子(みやのもり りんこ)とクラスの女子達とまともに顔を合わせてしまい、それから急に気まずそうに股間を隠して、慌ててクモの子を散らすように逃げていった。
 ヘタしたら心臓麻痺でも起こしかねない暴挙だけれど、宮森の表情には後悔の色なんて、これっぽっちも浮かんでいない。
「みっ宮森っ!!」
「なんですかね? センセ?」
 ものすごい目で睨まれて、抗議しようとしたサムソンが押し黙った。
 彼女の顔には『なんか言ってみろブッコロスぞこの淫行ハゲ教師!』と書いてあったからだ。
 サムソンは『ハゲじゃないぞ! 剃ってるだけだ!』と“主張したい気”満々だったけれど、いくら顔に書いてあるからといって言葉にもしていないものを訂正できるわけもない。
「いいんですか? 水泳部の人達、待ってますよ? 私達は自由遊泳、続けていいっすよね?」
 そんな彼に、宮森の畳み掛けるような声が浴びせられる。
 ……有無を言わせない迫力があった。
「も、もちろんだ」
「んじゃ、そーゆーことで」
 宮森が『話は以上』といった調子でそう言うと、サムソンと男子生徒、それに彼等を睨み付けていた女子生徒達も、三々五々、周囲へと散ってゆく。
 それを見届けると、宮森は“ふぅ〜〜〜……”と大仰に溜息をついて、古い言い方で「トランジスタグラマー」そのもの……といった感じの、桂の豊満な身体を見下ろした。
 桂は……といえば、突然上から冷たい水の飛沫が降り注ぎ、宮森が急に刺々しい物言いをしたものだから、すっかり“きょとん”とした顔をしている。『鳩が豆鉄砲を食らったような』……と言うより、そもそも、まず何が起こったのか全くわかっていない顔だ。
「……桂ちゃんさあ、もちっとオンナの自覚持とーぜ?」
 桂と同じ美術部の宮森は、つい先日、杉林素子先輩から部長の任を譲り受けたばかりで、今は彼女が美術部の部長だった。そして、D組で「アネゴ」と呼ばれる実質的支配者……もとい、権力者(あまり変わっていない気もするが)でもある。文系でありながら体育会系の男子をも抑え付けてしまうのは、まったくもってスゴイとしか言いようが無いけれど、男子といえど彼女に逆らう愚をあえて犯そうとする者は、C組にもD組にも…………ひょっとしたらこの学年全体でも、いないかもしれない。
「え?」
 ぽかんと自分を見上げる桂に、宮森は“自分で切ったんじゃないか? と誰もが思わずにはいられないざんばら髪”をガシガシを掻くと、
「え? じゃないってばよ。オオカミの真ん前にラムチョップ置くよーなもんだろーがそのチチわ」
 微妙にわかりにくい「たとえ」を口にしながら、スタイリッシュなデザインの競泳用水着に包まれた伸びやかな肢体を屈めて、宮森はニキビもシミも無い桂のつるりとした額を、まるで子猫にそうするように“つとんっ! ”と突付いた。
「ふぇっ?」
 突付かれたおでこを左手で押さえながらも全く要領を得ない桂に、宮森は“くくくくっ”と苦笑した。
「…………まあいいや。後はあんたに任せるわ」
 そして、ゲジゲジ眉をハの字にしたまま、男子ではただ一人「残っても良い」と女子生徒に認識されたらしい健司の背中を“ばしん”と叩く。
「あ……は……ええ?」
 呆然と見送る健司を尻目に“かかかか”と笑う彼女は、すごく、男らしかった。

         §         §         §

 さすがのサムソンも、宮森には逆らえないのか、「逆らうと恐い」と身をもって知るような事が過去にあったのか、健司が桂の側に残った事を、ダメだとは言わなかった。
 そして、近くに誰もいなくなると、
「なんだかなぁ………………ええと、けーちゃん、また左足?」
 『コイツはインポか?』と男子生徒の一人が思ったほど、いつもと変わらない声の調子で、健司が桂の傍らに膝を付いた。
 健司が宮森に「後を任された」のは、「水泳部」で「保健委員」だから……という理由だけでは無かった。
 桂は知らなかったけれど、健司は一部の女子の間では彼女の『保護者』であり、たぶんひょっとしたら…………「彼氏」…………なんじゃないか? と認識されていたのだ。桂を『女性仮性反陰陽』だったと信じている(?)彼女達にすると、そんなややこしい境遇の桂を任せられるのは、これはもう健司しかない……という事らしい。そして、それを当の桂が知ったらきっと「ボクの知らないところで勝手に決めんな!」と怒るに決まっているので、これは仲間内だけに認められた認識でもあった。女子というのは噂話も大好きだけれど、秘密の共有もそれに負けず劣らず大好きなのだ。

 その当人たる健司とはいうと、特に自分を取り巻く周囲の思惑を気にする風でもなく、
「けーちゃんが心配だから」
 という、ただそれだけの理由で一人残ったらしいのが、まさしく彼「らしい」と言えば「らしい」。
 ひょっとしたら、小学校からの幼馴染みで親友で兄貴分な『圭介』が、毎日少しずつ男と比べて立場も力も弱い「ただの女の子」へと変化していっている……というギャップからくる“戸惑いを多分に含んだ事実”から、彼をして、そんな行動を取らせているのかもしれない。
 けれど、さすがに、いささか「過保護」気味なのは否めなかった。
「あ、ああ……こーゆーのってさ、クセになんのかな?」
「ちゃんと準備運動した?」
「したよ」
「ホント? 何かに気を取られて怠けたりしなかった?」
「……う」
 桂も、まさか『オマエを見ていた』とは言えなかった。
「けーちゃん、昔から集中力無いもんね」
 そこにもう一人の『保護者』が、空色に白いラインが2本入った大き目のバスタオルを持ってやってきて、いきなり失礼な事を大真面目にのたまった。どうやらロッカールームまで取って返して、わざわざ桂のものを取ってきてくれたらしい。
「なっ……人を子供みたいに……」
 ちょっと拗ねたように桂が言うと、由香の顔が「おかしくてたまらない」といったように破顔一笑する。
 そんな由香は、バスタオルを広げて桂の肩にかけると、自分はプールの縁に座って足だけ水に浸した。
「ちょっと見せて」
 不意に、健司が桂の左脚を両手で“そっ”と掴む。
「あ……」

 ――――“ビリッ”と、電気が走ったかと思った。

 脹脛の筋肉を、健司の右手が優しくマッサージしていく。
「んっ…………んっ…………」
 時々、“びくっ”“びくっ”と桂の体が震えたけれど、それは痛みからでは、無かった。
「痛い?」
 桂が、“きゅう”と肩を竦めたまま首を横に振る。

 声が出ない。

 桂は、健司の顔さえも見る事が出来なかった。
 彼の大きな手の触れる自分の脚が、そしてそれに繋がる腰が、胸元が、顔が、ひどく熱を持って火照っている気がした。
 だから、じっとしているしか、なかった。
 それを彼は「痛みを我慢している」と誤解したのか、
「脹脛がほぐれてないまま、運動で酷使したりするとこうなる――って、去年も言わなかったっけ?」
 ちょっとだけ責めるみたいな口調で、言った。
『クソ……人を本気で子供扱いしやがって……』
 悔しい。
 誰が正直に答えてやるものか。
 そう思って、そっぽを向きながら
「――――忘れた」
「ウソ」
「…………ぅ…………………………………………言った」

 ――――即答で断定され、3秒でくじけた。

 牧場で草を食む大型草食動物みたいな、まるで人の心を見透かすような目で“じっ”と見られたら、とてもひねくれた答えなんか出来なかった。
「だよね? このプールって真中が深いから、ちゃんと運動して急には運動しない方がいいよ……って」
「そりゃ……そうだけど…………んっ……」
 健司の左手が、桂の足首を持って筋肉の状態を確認する。
 それだけで、再び声が漏れた。
 腹筋に力が入り、お尻の辺りがむずむずした。
 由香は桂の唇から漏れた声を背中で聞いていたけれど、口元をむにむにと動かしながら、ただ黙ってクラスメイトが泳ぐのを見ている。ぱちゃぱちゃと水面を脚で叩いているのが、まるきり小学校の女の子みたいだった。
「ホントは8コースで泳ぐのがいいんだけど…………どうして?」
 溜息を吐きながら健司が言う。
 それだけで『どうして4コースで泳いだの?』と聞かれているのだと、わかった。
「……いつまでも…………その、深い所が……っ…………恐いなんてさ、カッコワルイ……だろ?」
「溺れるのはカッコイイの?」
 言葉も無い。
 実際、喉の奥から震える声が漏れ出てしまいそうで、言葉が出なかった。
 ――――出せなかった。

 今、桂はカチューシャをしていない。
 人の思考をカット出来るようになり、大抵の“やーらしい思考”は遮断出来るようになったし、こうして接触していても不用意に心を読んでしまう事も無くなった。
 それでも、男子の目が舐めるように自分の身体を見るのを感じると、それだけで“ぞぞぞっ”と鳥肌が立つ。
 なまじ“そういう目付き”の時の男が何を考えているか、自分も男だった上、実体験さえもしているため、手に取るようにわかってしまうのだ。
 他の男にじろじろ見られるのは、鳥肌が立つくらい気持ち悪い。
 なのに、こうして健司に見られても、ちっともイヤじゃなかった。
 時々、脹脛をマッサージしながら、健司の視線が、振動で揺れ動く彼女のおっぱいに引き寄せられて、そして慌てて彼が目を反らしたりしても、ちっともイヤじゃ……なかった。
 それどころか…………。

 身体の変化は、如実に現れてきていた。

 ドキドキと顔の紅潮と“もう一つ”が自分でもわかるくらいにまで顕著になってきて、
「……も、もう、大丈夫だから…………」
 桂は脹脛をマッサージする健司の肩を、不審に思わない程度に強く押して立ち上がった。
「あ」
「ほら、まだ……」
 よろける桂の手を、健司が掴む。
 掴まれたのが二の腕で、男とは確実に違うそのやわらかさに健司が怯んだ隙に、するりと抜け出…………そうとして、抜け出せなかった。じわじわと、健司の腕のあったかさが肌に染み込んでくる。
「んっ…………だ、大丈夫だって…………」
「でも」
「ト……トイレ」
 離してくれない彼の手を、ぎゅっと目を瞑りながらそれでも振り払えなくて、桂はまるで引き絞るように声を上げた。
「え?」
「トイレだってばっ! 漏れるだろ!?」
「あ、ご、ごめんっ」
 桂の咄嗟についた“恥かしいウソ”に、健司はひとたまりもなく顔を真っ赤にして、まるで沸騰したヤカンを触った時みたいに“パッ”と両手を離した。
 そんな彼に桂は思わず苦笑して、
「……ありがとな」
 そう呟くように言うと、ちょっとだけ左足を庇いながら、更衣室へ続く女子用出入り口に向かった。
 銃を突き付けられた犯人みたいに両手を上げていた健司が、手を上げたまま両手を“にぎにぎ”と握ったり開いたりを繰り返す。
「大丈夫かな? けーちゃん」
 その顔には、心の底から彼女の事を心配する色だけが、あった。
「心配性だね。健司くんは」
 今まで背中で2人のやり取りを聞いていた由香が、プールからその細くて白い脚を「んしょ」と上げて、そのまま膝を付いた健司の前までにじり寄る。そして「オンナノコ」としてはひどく無防備に膝を立てて、太腿に胸をつけたまま両手で顎を支えると、下から覗き込むようにして牧歌的雰囲気の中に不安を滲ませた幼馴染みの顔を“じぃ〜〜〜……”と見上げた。
「健司くん」
「ん?」
「私、けーちゃんを保健室に連れてくね?」
 健司の返事を聞かずに、再び勢いをつけて“んしょ”と立ち上がる。
 可愛らしいお尻が“ぷるっ”と揺れた。いくら幼児体型でも、それなりに脂肪はついている「オンナノコのカラダ」なのだ。
「先生にそう言っておいてくれる?」
「……う、うん」
「じゃ、よろしくぅ〜」
 そう言うと、由香は例の“ほにゃにゃ〜ん”とした笑顔を浮かべながら、桂の消えた出入り口へと消えていった。
 健司は一瞬、
『あれ? 由香ちゃんって保健委員だったけ?』
 と思ったけれど、彼女が桂といつもいつでもどこででも一緒にいるのは知っている彼だったから、特に気にする事も無かった。
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