■感想など■

2009年08月04日

第14章「君は俺が護るから」

■■【7】■■
 今日は朝から天気が良かった。
 だから忘れていたのだけれど、まだこの地方は梅雨明け宣言されていないはずだった。湿気は高くて風も生暖かいし、天気も不安定ですぐに崩れてしまう。初夏というには爽やかさに欠けるけれど、まだまだ夏本番というには何かが足りないのだ。とはいえ、早生まれの蝉の声もちらほらと聞こえてきているし、休日の今日は、きっと市営プールもいっぱいに違いない。
 7月9日は、そんな感じの日だった。

 夏休みは来週の水曜日の19日からで、終業式のある18日まで、まだ一週間もある。
 確かに教室ではどこか浮き足立っている生徒もいるけれど、みんな、高校2年の夏が自分の人生の中でどういう位置付けにあるのかわかっていたから、大学に進学しないことを早々に決めてしまった生徒でさえも、そうそうハメを外す事は無いだろう……と、先生達は考えている。バブル経済が崩壊して10年。昨今の就職難では高校2年の夏休み頃にコネを作っておかないと、3年生になってからではもう遅いからだ。
 もちろん、そこまで頭が回らない人間も、確かに存在するのだけれど。

「けーちゃん、いつ来たの?」
「え? あ、ええと、50分くらい……かな?」
 目の前に立つ健司の顔をなんだか真っ直ぐに見られなくて、桂は俯いたままぼそぼそと言った。
「早いねぇ……」
「ばか。オマエが遅いんだ」
「そうかな?」
 そう言いながら、健司は桂の左隣に“どさっ”と座った。
 健司の体重と肉厚な筋肉を感じさせる振動が、桂の体を揺する。たったそれだけの震えが、生理で敏感になった桂の腰にさざ波を走らせた。
 急に、ブラウスの下のブラの中が汗ばんできた気がした。
「そうだ。女を待たせるなんてサイテーだぞ?」
 桂の、少し拗ねたような声音に、健司はちょっとびっくりしたような顔をして
「…………そういえばそうだね」
 と言った。
 そんな健司の横顔を、桂はちらりと盗み見る。

 いつもの顔で、いつもの微笑みだった。

 金曜日のあの出来事なんて、まるで無かったかのような顔だった。
 桂は少しホッとしたけれど、それとは逆に胸にモヤモヤとしたものが広がるのを感じる。あんなに“ぎゅっ”と強く抱き締めてきたのに、それを「なかったこと」にしてしまえる健司が、ちょっと信じられなかった。
 コイツは全然平気なんだろうか?
『ボクは……』
 すぐそばにいるだけで、こんなに胸が“ドキドキ”して、体が“じんじん”してしまうのに……。
 そう思いながら健司の横顔を見ると、彼の額に赤黒いところがあるのが見えた。
『傷? ……痣?』
 桂は自分でもわからないうちに、強引に健司の顔を両手で“ぐいっ”とこちらへと向けていた。
「け……けーちゃん?」
「じっとしてろ」
 良く見れば、左眼の目元も腫れている。
 それは、遠目にはわからないくらいのうっすらとしたものだったけれど、確かに何かにぶつけたような色をしていた。
 健司にそれを問うと、彼は「寝坊したから走って来たら、人にぶつかった」と言って、いつもの、見る者をなんだか安心させてしまうような穏やかであったかい笑みを浮かべた。
 健司にこの笑顔を浮かべられたら、桂にはもう成す術が無い。
 胸が一杯になって、何もいえなくなって、体がじんわりとあったかくなって、そして鼓動がたちまち早く大きく打ち始めてしまうからだ。
 桂は「相変わらずヌケてんなぁオマエわっ!」と呆れたように言って、健司の額を“ぺちん”と叩いた。
「たっ」
「痛いか?」
「少しね」
「……ちょっと待ってろ」
「けーちゃん?」
「すぐだから」
 そう言って桂は立ち上がると、水呑場でハンカチを濡らし、ベンチへと取って返す。明るい陽射しの中、小走りに走ってくる桂の豊かなおっぱいが“ゆさゆさ”と重たそうに揺れて、健司は思わず目を逸らした。

 ベンチに座った健司の前に屈んで、左手で彼の太い首を固定すると、桂は右手で濡れたハンカチを健司の右の目元に当てて、小さく息を吐いた。
「慌てなくて良かったのに……別に時間厳守ってワケじゃないんだし」
「『女を待たせるなんてサイテー』じゃなかったの?」
「…………ボクはいーんだ」
「さっきと言ってる事が違うよ」
「うるさい。だまってろ」
 言葉と裏腹に、桂の声はひどく優しい響きをしていた。
 健司の目元や少し汗ばんだ額、そして口元を、まるで母親のような慈愛に満ちた手付きで拭いてゆく。
「口……切ったのか?」
「……血が出てる?」
「うん。血の味しなかった?」
「急いでたから」
「ばか。自分のことだろ?」
「そうだけど」
 もう何度「ばか」と言われただろう。
 桂の荒っぽい……けれど心配そうな気配がたっぷりと滲み出る言葉に答えながらも、健司の目は、目の前で揺れる彼女の豊かな胸に釘付けになっていた。桂は彼の視線には気付かず、切れた唇を「うわぁ」とか言いながら丁寧に拭いている。
『何見てんだ俺…………』
 屈んでいるために前傾した体の下で、白いブラウスをぱんぱんに張って自己主張している彼女のおっぱいは、もし両手で支えたらみっちりとした重たさを感じさせるに違いない……と、容易に想像が出来る。
『けーちゃんの…………おっぱい…………』
 こんな時だというのに、保健室の前で見た裸の胸の白さや、金曜日に抱き締めた時、下腹部に感じてしまった悪魔的なヴォリュームとやわらかさを思い出してしまう。
「あっ……ばか。動くな」
「だ……だって」
「すぐ済むから」
 彼女の頼りないくらいにちっちゃい手が、首の頚動脈のところに当てられていて、健司はそのやわらかさとひんやりとした感触が、体中に広がってゆく気がした。
 あの時、抱き締めたら、ものすごくちっちゃかった。
 ほっそりとしてて、やわらかくて、いい匂いがした。

 ……女の子のカラダ……だった。

 目の前の桂の可愛らしい唇や、ほっそりとした白くてすべすべの首筋や、第一ボタンの外れたブラウスからちらちらと覗く鎖骨の滑らかな線に、健司の胸が高まって汗が噴出して、ついでにアソコもイロイロとヤバイ感じになりかけていた。
 なのに今の桂は、まるで小さな子供に対する母親のような、絶対的な力を持っていた。
 彼女に「じっとしてろ」と言われたら何が何でもじっとしていなくちゃいけなくて、「行儀良く座ってろ」と言われたら1時間でも2時間でも行儀良く座っていなくちゃいけない気がした。
 だから……なのだろうか?
 気がつくと健司は、笑っていた。
 くくくくっ……と、声が漏れた。
 堪えきれなかった。
「なにがおかしいんだ?」
 訝しげに眉を顰めた桂の声にも、笑いは止まらなかった。
「だって、こういうのは、いつも由香ちゃんの役目だったじゃない」
「そうだったか?」
「そうだよ」
 健司のなんだか嬉しそうな楽しそうな声に、桂はハンカチを彼の額に当てたまま“ぽしっ”とその上から叩くと、面白くなさそうにベンチにお尻を載せた。
 途端、桂の顔が少し歪む。
『あつつ……』
 お腹がしくしくと痛んで、どうしても“そろそろ”とした女の子っぽい仕草になってしまう桂に、健司はどこか寂しそうな目をしたけれど、拗ねたような表情を崩さない彼女がそれを目にする事は、ついに無かった。

「いつだったか、この公園でけーちゃんが喧嘩した時だって、由香ちゃんがさっきみたいにハンカチを濡らしてけーちゃんの傷を拭いたんだよ? おぼえてない?」
 2人の共通の記憶が、幼い日の忘れざる記憶が、鮮やかに甦る。
「……そうだっけ?」
「うん」
 目の前の噴水のそばには、子連れの若い夫婦が歩いている。その噴水の側で、桂はベンチで横になって、泣きじゃくる由香に「寝てるのっ!」と怒られながら鼻血の出た鼻を押さえていたのだ。
 健司にはその光景が、まるで昨日の事のように思い出すことが出来る。

 その日は、桂が……『圭介』が、健司の中で正真正銘の『ヒーロー』になった日だった。

 あの夕焼けの昇降口で、『圭介』の目の前で『彼』に頭をゲンコツで殴られて泣きじゃくってから、ほんの数日後の事だった。
 その時にはもう、健司にとっての『圭介』は、「兄貴分」であり「親友」であり「ヒーロー」だったけれど、心から誰かを「すごい」と思って「憧れ」て「彼のようになりたい」と思ったのは、その時が一番最初だった。
 『圭介』のように、強く、優しく、それでいて“男のプライド”ってヤツを持った「男の中の男」になりたいと思ったのは、その日が最初だった。
 そう、記憶している。

 相手は『あの』薮本康史(やぶもと やすし)だった。
 凶悪な、立ち向かうべき最強最悪のいぢめっ子だった。

 薮本の母親はPTAの役員で、父親は隣の街の小学校の教頭を勤めていた。
 よくある話だ。
 薮本と喧嘩しても、味方になってくれる先生はいない。もしいても、次の日には言う事が逆になっている。どう見ても誰が見ても薮本が悪い時だって、一日経てば喧嘩両成敗。時に最悪な場合は、いつの間にかこちらが悪い事になっていた。
 だから、クラスのみんなは彼に逆らわなかった。
 たった一人。
 他の誰もが諦めていたのに、たった一人だけ薮本に真正面から向かっていったのが、『圭介』だった。

 あの日も、そうだった。
 『彼』と由香と健司が公園で遊んでいる時に、薮本はやってきた。
 きっかけは何だったのか、今となってはその部分だけが曖昧だ。由香のものを彼が面白半分に奪って壊してしまったのか、健司が実は今の両親の本当の子供ではない事をみんなにバラしてしまったのか。
 あの日の『彼』の強烈な印象だけが焼き付いて、他の部分が薄い靄(もや)がかかったようになっているからだ。

 薮本は、体が大きかった。
 クラスの中でも飛び抜けてて、顔付きもふてぶてしくて、いかにも「乱暴者」といった風体だった。
 昨今の小学校には単純に「力」だけを振るう少年漫画の「番長」みたいなワルガキは珍しいけれど、薮本はゲンコツで人に言う事を聞かせる、正真正銘の『ジャイアン』だった。
 対する『圭介』といえば、ちっちゃくて華奢で、顔も女の子みたいに綺麗で可愛くて、テレビで美少年子役として話題になりかけていた「なんとか」という俳優の息子よりも、ずっとずっとテレビ映えしそうな子に見えた。

 けれど、とても喧嘩なんてしそうに見えない『圭介』は、『ジャイアン』な薮本に正面から飛び掛っていったのだ。

 どう見てもムチャクチャだった。
 もっと頭が良ければ、きっと搦(から)め手で責めるのが正しいと気付いたかもしれない。けれどこの時の『圭介』も健司も、まだたったの9歳だ。そんな頭など、もちろん無かった。
 『圭介』は薮本に比べたら、全く相手にならないくらい軽い。案の定、簡単に突き飛ばされ、引っ叩かれ、殴られ、蹴飛ばされて、地面に転がった。
 でも、『彼』は薮本に向かって行った。
 由香が「もういいよぉ! けーちゃんやめてよぉ!」と泣き出してしまっても、それでもがむしゃらに向かって行った。健司はその光景を見ながらも、ぼんやりと、万能ネコ型未来製ロボットが活躍する漫画の、6巻の1エピソードを思い出していた。その話で、今までその万能ロボットに頼り切っていた主人公が、ロボットが安心して未来へ帰れるように、たった一人で何度も何度もいじめっ子に立ち向かってゆくのだ。
 その漫画の中では、いじめっ子は『ジャイアン』と呼ばれていて、理不尽で暴力的で、そして子供社会の暴君だった。

 「殴られる痛み」を知らない人間にとって、そのエピソードは単なる少年漫画の一つの話に過ぎないだろう。
 けれど、痛みを知る者にとってそれは、身を切られるほどの痛みを、悔しさを、そして勇気を与えてくれる。

 ゲンコツは、痛い。

 蹴られるのは、もっと痛い。肉がひしゃげ、骨が軋む。
 たとえそれが小学生の拳が生んだものであっても、痛みは容赦無く心を挫き自尊心を削る。
 健司はそれを知っている。
 だから、笑っていたのだ。
 どんなにいじめられても、笑いの仮面で心を護っていたのだ。

 でも、『彼』は違った。

 本当の本気で、真正面からあの漫画の主人公と同じ事をしていた。
 何度突き飛ばされても、何度引っ叩かれても、何度殴られ、蹴飛ばされても。
 薮本にしがみ付き、引っ叩き、噛み付いて引っ掻いた。

 喧嘩して友情が生まれるなんてのは、漫画の中の話だけだ。
 結局、薮本は他の仲間に『圭介』を引き離させて、唾を引っ掛け、逃げるようにして公園を出て行った。

 歯が立たなかった。

 地面に倒れて、ピクリとも動かない『圭介』に取りすがって、由香が泣いていた。
 往々にして子供というものは、時として残酷なほど限度というものを知らない。
 いや、知ろうとせず、無視をする。
 この時の藪本もそうだった。
 『圭介』は鼻から鼻血が出て、顎から喉まで真っ赤だった。
 顔も服も、体中が砂と泥と草でどろどろに汚れていた。
 健司は、涙が止まらなかった。
 何も出来なかった自分が許せなかった。
 何の役に立てなかった自分を許せなかった。

 だから、強くなろうと思ったのだ。

 この少年のように、何かを護るために。
 この少年と一緒に、誰かを護るために。
 そしてこの少年自身を、いつか護ってあげられるようになるために。

         §         §         §

「あの時のけーちゃん。カッコ良かった」
 『おぼえてない?』と言ってからしばらく、どこか遠いところを見るような目をしていた健司は、そう言うと桂の瞳をまっすぐに見つめた。
 彼女はそのどこまでも真っ直ぐな瞳に、息が詰まるような気がして目を反らし、風に揺れる雑木林の枝を眺めた。
「忘れた」
「……そう……」
 ちょっとだけ残念そうな声が、ポツリと耳に届く。
「そうだよね。小学校の時の話だもんね」

 うそだ。

 桂は、健司に知られぬように下唇を“きゅ”と噛んだ。

 覚えている
 でも、だからどうしたのだ。
 今さら男だった時の事を持ち出されても、困る。

 ボクはこれからそのオマエに告白するんだぞ?

 オマエが好きだって、言うんだぞ?

 胸の中を、嵐が吹き荒れていた。
 涙が、出そうだった。
 昔の自分を思い出させて、健司が何をしたいのかわからない。
 『カッコ良かった圭介』をそんなに嬉しそうに語る健司が、どうしようもなく憎たらしく思えた。

 ――今の自分を、否定されてる気がしたから。

『ボクはさ……ボクは……』
 ぎゅっと目を瞑る。
 今は、もう遠いその過去を、健司はいつまでも抱き続けているのだろうか?
 今の自分を、健司は見てくれないのだろうか?

 今の桂は、あの頃の由香だった。
 由香みたいになりたいと思った。
 健司をいつもいつも見てて、健司のそばにいて、そして健司に何かあった時には癒してあげられるような。

 なのに。

『なのにオマエは、今のボクを否定するのか? 今のボクじゃ、いらないって言うのか?』
 けれど桂は“ぐっ”と両手を握り締めて、背筋を伸ばした。

 言わなくちゃ。

 「オマエが好きなんだ」って、言わなくちゃ。

 今言わないと、もう永遠に言えない気がした。
 今伝えないと、もう永遠に今の自分を見てもらえない気がした。
 だから。
「あのさ、ボク……」
 想いは、唇を割り…………そして。

「ごめんね」

 ――その瞬間――あたまが、まっしろになった。

「え?」
「金曜日のこと」
「え?」
「放課後……その…………あんなことしちゃって」

 “あんなこと”?

『なにが?』
 健司の言おうとしている事が、自分を“抱き締めたこと”を指すのだと気付いたのは、健司がベンチから立ち上がった後だった。
「びっくりした?」
「え?」
「ごめんね。びっくりしたよね。急にあんなことして」
「……え……その……別に……」
 健司は何を言うつもりなのだろうか?
 “かああぁ……”と顔に血が上り、火照って、急に喉が渇いた。
 胸がどきどきして、今すぐ逃げ出してしまいたくなる。さっきまでの決心が、あっという間に崩れて溶けていった。
 こんなのはない。
 こんなのは卑怯だ。
 いきなり不意打ちで話を切り出すなんて、そんなのは軍事法廷で満場一致の上で銃殺刑モノだ。
「あ……謝ることないよ。そりゃ……びっくりしたけど……でも……でもボクはうれ」
「あのね?」

 『嬉しかった』と、言いたかった。
 最後まで、聞いて欲しかった。

 なのに。

「間違いだから」
「え?」
「あれはその、間違いなんだ。だから……忘れて欲しい」

 なにが?

 なにがまちがい?

「俺は別に、あんなことがしたかったわけじゃなくて、だからその……出来れば忘れて欲しいなぁ……って」
 背中を向けたまま、まるで言い訳のように言う健司が、桂にはとてもとても遠くにいるような気がして、
 だから。

 ――もう、何も言えなかった。

 立ち上がって、有無を言わせず今度は自分からその広い背中を抱き締めたかったけれど、健司の言葉は……そして背中は、“それ”を拒絶しているように見えたから、
 だから、
『ああ……コイツにとってあれは、忘れたい事なんだな……』
 と、思ったのだった。

 高揚していたものが急におさまり、沸騰しかけていた頭が徐々に冷えてゆく。

 それと共に、薄らいでいた生理痛が、自己主張するかのように“しくしく”と下腹を締め付ける……。
 途端、肩の力が抜けて、“は……”と吐息が漏れた。
「あ、うん……そうか……そうだよな……」
 桂は、健司の後姿を見詰めながら、自嘲するように呟いた。
 その声は聞き取れないくらいに小さくて、健司は気付かないまま笑顔で桂を振り返る。残酷なほど優しいその笑顔は、熱したカッターがプラスチックにそうするように、桂の心を容易く焼き焦がしながら切り裂いていった。

『やっぱり、幼馴染みで親友だった人間は、どこまでいっても親友でしかなくて、男だった「圭介」を知っている以上、いくら外見が女になっても男としてしか見られないんだ』

 その認識が改めて目の前に突き出された気がして、でも、
 それでも、桂は健司に微笑んでみせた。
 微笑むしか、無かった。

 ――涙が、こぼれそうだったから。

「なあ、健司……」
「え?」
「ボク達、友達だよな?」
「けーちゃん?」

 女になっても。

 おっぱいがでっかくなっても。

 生理がきても。

「親友だよな?」
 自分でも不思議だった。
 どうしてこんなにも静かな声が出せるのか。
 泣き出したいのに、「全部無かった事になんか出来るか! ボクがどれだけ悩んだと思ってるんだ!」って言いながら引っ叩いてやりたいのに、抱き締めてやりたいのに、噛み付いてやりたいのに。
 でも口元は、微笑みのまま固まっていた。
「そうだよ?」
「じゃあ、忘れてやる。無かった事にして、今まで通り付き合ってやる」

 オマエがそれを望むなら、ボクはボクにウソをつく。

 親友でいる方が、親友のままでいる方が何倍も何十倍もいいことなのだと、ウソをつく。

「ありがとう」
 あっさり言う健司が憎らしかった。
 牧歌的なのんびりとした、こっちまであったかくなってくるような笑みを浮かべる健司が、泣きたくなるくらい憎らしかった。
 でも、同じくらいに愛しい。

 ――それでも、健司が愛しかったのだ……。

         §         §         §

 2人並んでベンチに座り、なんとなく空を眺めていると、ムカムカするくらいに晴れやかな空がホントに憎らしくなって、桂は“ふんっ”と鼻を鳴らしながら砂を蹴った。
「由香ちゃん、遅いね? もう20分も遅れてるよ?」
「で、電話してみるよ」
 そういえば、今日は由香も含めた3人で映画を観に行くことになっていたのだ。それをすっかり忘れていた桂は、慌ててバッグからケータイを取り出した。
 そしてメールモードを立ち上げ、適当なメールを開いて、
「あ、由香からメール来てる」
 と、わざとらしいくらいの声を上げて言った。
「え?」
「きょ、今日、来れないってさ。着信が9時…………58分になってるから、ちょうど健司が来た頃かな?」
「ほんと?」
 ひょいと覗き込んでくる健司の顔が、突然桂のほっぺたに急接近して、彼女は慌てて体を捻って跳び退った。

 顔が火照る。

 胸がどきどきする。

「ばかっ! 人のメール見るなっ!!」
 それを隠すように、桂は“すぱんっ”と健司の頭を叩いて怒鳴る。
 健司は世にも情けない顔をしながら頭を擦って、やれやれ……とでも言うかのように眉を上げてベンチに座り込んだ。
「……由香ちゃんからでしょ? ならいいじゃない」
「そ・れ・で・も・だ!」
 桂は“フーッ”と、子猫が威嚇するみたいに健司を睨み付けた。
 でも、心の中は慌てふためいて、背中に冷や汗がどっと出ていたのだ。
 ――見られたら、由香からのメールじゃないってわかってしまうじゃないかこのバカっ!
 そんな気分だ。
「じゃあ……どうしようか?」
「え?」
「2人で映画、観に行く?」
「……い……いいのか?」
「え? だって、最初からその約束でしょ?」
「そ……そりゃそうだけど……」
「何か用事あるの?」
 健司の言葉に、桂は髪が乱れるくらい思い切り“ぶんぶん”と首を振った。
「ない! 何も無い! ヒマ! ホント!」
「……そんな思い切り言わなくてもわかるよ」
「うっうるさいなぁ……オマエこそどうなんだよ? ……その……水泳部の練習は無いのか?」
「昨日みっちりやったからね。今日は休息日なんだ」
「そ、そうか……」
 ブラウスの胸元でケータイを握りしめ、桂はホッとしたように“にこぉ”ととろけそうな笑みを浮かべた。
 けれど、健司までが“にこにこ”と笑っているのを見ると、自分が笑っているのがなんとなく面白くなくて、ついついしかめつらしくしてしまう。
 ものすごく嬉しいのにまだまだ素直になれない自分が、いいかげん……ちょっと嫌いになりそうだった。
「じゃ……じゃあ、仕方ないよな。付き合ってやる」
 “ぷく”と可愛らしい鼻腔がふくらんで、口元が“ぴくぴく”と動いてしまうのを止められなかった。
 くくくっ……と笑う健司が、とても、すごく、ものすごく、おもしろくない。
「……なんだよ」
「なんでもないよ?」
 なんだか健司は、なにもかも……桂の気持ちとか、今日のこととか、全部わかっていて、それでいてこういう態度を取っているように思えてくる。
『…………考え過ぎだろうなぁ……そんなに器用なヤツじゃないし……』
 自然と溜息が出る。

 ――結局、告白は出来なかった。

 でも、
『これって、デート…………だよな?』
 男と男が一緒に映画を観てもデートにはならないけれど、男と女が一緒に映画を観たら、きっとそれはたぶん
「なんか、デートみたいだね」

 ――先に言われた。

 しかも、「みたいだね」というのは、暗に「違うんだけれど」という言葉を含んでいて、またもや桂のキモチを奈落の底に突き落としてしまう。
『こいつわぁ――やっぱりわかっててやってるんじゃないだろうなっ!?』
 ちょっとだけ涙目になりながら健司を睨む桂は、なんだかものすごく可愛らしかった。
「うぬぼれんなっ! オマエなんかな、オンナゴコロがちっともわかんないんだから、一生彼女なんか出来ないんだ!」
「ひどいなぁ」
 それでも笑う健司が、ものすごく憎たらしかった。
「うっうるさいっ先行くぞ!」
「けーちゃん……何怒ってるの?」
「怒ってなんかないっ」
 可愛らしいお尻をキュロットに包んだ桂は、“すたすた”と公園の出口に向かって歩きながら、怒った声で言った。
「怒ってるじゃないか……」
「……なんか言ったか?」
 たっぷりとした重たそうなおっぱいを揺らして、桂が振り返って睨み付ける。怒っているはずなのに、口元が笑っているのは、どうしようもなく機嫌が良い証拠だった。
「早く来いばか。今からなら午後の回に間に合うから、その前に軽くなんか食べるぞ」
「ばかばか言わないでよ。ホントに馬鹿になっちゃうでしょ?」
「うるさい。早く来ないなら奢らせる。すっげー高いヤツ」
「え? あ、けーちゃんっ!」
 強情にも振り返らずに歩き出した桂の背中が、頼り無いくらいちっちゃくて、風に揺れるさらさらの髪が切ないくらいに愛しくて、健司はどこか眩しそうな……決して手の届かない大切な何かに向けるような眼差しで桂の後姿を見ていた。

 そして健司がそんな瞳で自分を見つめている事に、彼女は最後まで…………気付かなかった。

         §         §         §

『……で、映画見て、お茶して、筆と絵の具とテレピン油を買って帰ってきたの?』
 電話の向こうから、由香の、ちょっと呆れたような……でも、どこか「そんな事だろうと思った」とでも言いたそうな声が聞こえた。
『それで、映画は何を見たの?』
「…………『グラディエーター』」
 ……よりにもよって……。
 色気の無い事この上ないチョイスに、電話の向こうで由香が「う〜ん……」と唸るのが聞こえる。
 それでも、桂は満足だった。
 けれど、健司と2人して喫茶店で「剣闘士の友情」やら、「コロシアムの構造」やら、「当時の建設技術」やら、「芸術的見地からの画面構成」やら、なかなかに白熱した議論を交わした事はさすがに黙っておこう……と、受話器を手にひっそりと思ったのだった。
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