■感想など■

2009年08月16日

第16章「欲しがるカラダ」

■■【4】■■
 その気配に気付いたのは、家まであと少し……という場所にある、少し寂しい小道だった。
 カレー屋で水を飲み過ぎたためか、急に尿意を覚え、咄嗟に「近道しよう」と思ったのだ。
 でもそれは、ずうっと前に由香から注意された小道で、角にあるポッカの自販機を曲がって奥へと続く、外灯の無い薄暗い場所だった。

 ほんの、200メートルくらいの道なのだ。

 走り抜ければ、あっという間だ。

 でも、走る事が出来なかった。
 お腹が張って、走ると吐きそうになったから……というのももちろんあるけれど、それよりも、背中に張り付くようなねっとりとした気配に、体が萎縮してしまっていたのだ。
 突然、初めて由香と下着を買いに行った帰り、駅前のコンビニ前でアナゴ(高尾先生)と話した会話が脳裏に甦る。

『ああ。特に乱暴をするとか、そういうんじゃないらしいが…………嘗める、らしい。
 ……何が楽しいのか知らんが、顔を、べろべろと。
 それも背の低い子を中心にしてな。お前らも気をつけろよ?』

 そういえば、久しぶりに帰ってきた父親を痴漢と間違えて泣きそうなくらい脅えたのは、あの日の事ではなかっただろうか?
 あの日、桂は自分がどうしようもなく非力で臆病で、性的欲望を持った男の影に泣きたくなるくらいの恐怖を感じてしまう、ただの「女の子」なのだと、強く強く自覚したのではなかっただろうか?
 薄闇の中で立ち止まり、桂は背後を見た。
 遠くにある電灯の光が小さく見え、左には経営不振でずいぶん前に営業を停止した工場の塀が続いている。右手にはマンションの壁が続き、歯が抜けたように所々に空き地があった。
 風がゆるゆると流れ、桂のさらりとした髪を揺らす。
 あの日とは違い、もし足音が聞こえても、それは父親のものなどではない。
 父は今頃、遠い異国の地で母と朝食を食べ、それから目的のための行動を始めているだろうから。
 ごくっ……と、喉が鳴った。
 立ち止まっていた桂は、再び前を向きかけ、視界の隅でちらりと動く影を見た。

 ぎくり、と体が強張る。

 慌ててきょろきょろと周囲を見まわすものの、人影は、無い。
 隠れる所など無数にあるから、もし隠れているのであればこの薄闇の中、姿を見つけるのは困難だった。
「……誰か、いるのか?」
 知らず、声が小さくなる。
 こくりと唾を飲み込み、自分の勘違いだと思い込むことにして、再び歩き出した。

 5歩も歩かなかった。

 背後の闇に、誰かがいる。

 それをハッキリと感じる。

 “ぶわっ”と汗が噴き出した。
 体が震えて、涙が滲んだ。
 近道などするのではなかった。
 そう思った。

 後悔した。

 走ろうと思った。
 けれど、脚はアスファルトに縫い付けたかのように動かなかった。
「だっ……」
 ひりつく喉で強引に声を出そうとした時、“それ”が背後から桂を抱き締めた。

 声も出ない。

 体が硬直して、暴れようと思う間もなく、強引に暗闇に引きずり込まれそうになる。
 小さい体と軽い体重が災いした。
 口を抑えられ、両腕ごと体を抱きかかえられて中途半端に中腰のまま、アスファルトを後向きに引きずられて行く。
 もし脚がしっかり地面についていたなら、または完全に宙に浮いていたなら、脚をばたつかせて後の人間の脚を蹴るなり足の甲を踏み付けるなり出来たであろうに、体を揺すり、もがくものの、背後の人間の両腕はガッチリと桂を捉えて離さず、それから逃れるきっかけすら掴めなかった。
『たっ……たすけ……』
 ごく自然に助けを呼ぼうとしている自分に気付き、一瞬だけ躊躇した。
 自分はもと男だったのだ。
 確かに喧嘩は強くはなかったけれそ、決して諦めず相手に掴みかかっていける、そんな男だったのだ。
 だから、いくら相手が変質者だったとしても、むざむざ犯されなどしないし、いざとなったらキンタマ蹴り上げてでも逃げてやる。 そう思っていた。
 自分の身は自分で護れると、どこか本気でそう思っていたのだ。
 なのに、いざその場面になってみるとどうだ。
 何一つ自分の思い通りにはならず、こんな――――――――――

『??』

 ――いや、前にもこんなことはなかったか?
 こんな風に、力にものを言わせて女を自由にしようとする者に、いいようにされたことが。
 たとえようもないほど、惨めな思いで涙に濡れ、自分がなんて非力でなんて情けない存在なのだと、まるで太いナイフでバターに切りこむように、心の奥底に刻み込まれてしまうようなことが。
 不意に呪縛が解ける。
 硬直していた体が熱を帯び、背後の理不尽な暴力者に対する怒りで目の前が真っ赤になった。

 暴れた。

 唸り、胴を抱える後の人間の左腕に爪を立てた。
 腕は太く、毛深く、皮膚は硬かった。
 男の腕だ。
 子供でも老人でもない、肉体を使う事に馴れた、エネルギー溢れる男の腕だった。
「――っ……! ……」
 頭一個分上から痛みに上げた声が振ってきた。
 口を抑えていた右手が緩む。
 桂はその手に思いきり噛みついた。
「だれっ……」
 助けを呼ぼうとして、
「……ぐうっ! ……」

 呼べなかった。

 再び左腕で強引に引き寄せられ、痛いくらいキツく抱き締められる。
 腕の骨が、肋骨が、ギシギシと軋んで悲鳴を上げた。
 そのまま男の右腕は、桂の細い首に回された。
 男の太い腕が喉を締め上げ、頚動脈の流れを断ち、気管を圧迫する。
 「ひうっ」と息が漏れ、暴れていた体が急速に鉛のように重くなっていった。
 男は「口を押さえるよりも、“落として”しまった方が楽だ」と思ったのかもしれない。
『ヤバい――』
 たちまち、頭に霞がかかったようになり、思考も満足に出来なくなってくる。
 血が頭に回らず、酸欠になる。
 酸素が足りない。
 “ダキンッダキンッ”と、ビルの建設現場でよく聞くような、重たく金属質な音が、耳元でやかましいくらい大きく鳴り響く。
 何の音だ? と思ったそばから、それが脈打つ心臓の、ひいては脳に酸素を必死に送ろうとしている血流の音だと知った。
 口を開けて空気を貪ろうとするけれど、「かはっ」と軽い音がするだけで肺にはちっとも入って来ない。ひょっとしたら入っているのかもしれないけれど、一番必要としている頭に行かないのでは全く意味が無かった。
 ひどく時間の過ぎるのが長く感じた。
 その苦痛の時間が何秒だったのか何分だったのかわからないけれど、気がつくと目の前に男が一人、うつ伏せで道路の上に倒れていた。
 ずんぐりとした、筋肉質の中年っぽい男に見える。黒いTシャツから出た剥き出しの毛深い腕が、丸太のように太かった。
 これは誰だろう? この男がさっきまで自分の喉を締めていた男なんだろうか?
 そう思った桂は、自分のおっぱいの下に回されたものに目をやって、

 ――では、今、自分を抱きかかえているこの腕の持ち主は?

 と思った。
 そんなふうに、まるで酔っ払ったようなほんやりとした意識の中、ふと、何かが“べろっ”と顔を撫でた。
 撫でられた部分が空気に触れて“ひやっ”とした。
「ぁ……」
 「撫でた」のではない。
 「嘗められたのだ」と気付いた時には、もう全身から力が抜けていた。
 “ぞくぞくぞくぅ……”とお尻の方から背筋を這い登ってくる甘い甘い震えに、桂は目を開けていられなくなってぎゅっと閉じる。
 すると、力が抜け、結果として身を任せる形となってしまう。
 そしてそのことに気を良くしたような後の人物に、“べろべろ”と野卑に顔中を嘗めたくられ、その“ぞくぞく”する唾液の不思議な匂いに陶然となって、桂はあっという間に“ビクビク”と体を震わせてオルガスムスへと達してしまったのだった。
「ぃ……ひ……」
 溢れ出た『蜜』がパンツをたっぷりと濡らし、少ない布地では吸収しきれない粘液がそこから滲み出して、そのままジーンズを濡らした。
 桂は陶然となりながらも、内腿を垂れ落ちる液体に混乱し、硬直する。
「……っ……」
 声は出なかった。
 出せなかった。
 空気を求めて喘ぐ金魚のように、口を“ぱくぱく”とさせながら、桂は“くたぁ……”と道に崩れ落ちる。
 膝を付き、ぺたんとお尻を落とし、そのまま正体不明の人物に誘われるまま後へと倒れていった。
 後頭部に添えられた手によって“そ……”と優しく頭をアスファルトに置かれ、なでなでと頭を撫でられる。
 あそこがとろとろに濡れ、おっぱいが性的感覚の励起によって張り、乳首が“びんびん”と痛いくらいに屹立していた。

 自分はどうなってしまったのか。

 どうなってしまうのか。

 けれど不思議と、恐怖は無かった。
 この正体不明の人物は、絶対に自分を傷付けない。
 なぜか、そんな気がしたのだ。
「…………だ……れ…………? …………」
 目を開いても、涙のいっぱいに溜まった視界では何も見る事が出来ない。
 ただ、薄れ行く意識の中で桂が最後に見たのは、薄闇にぼんやりと浮かび上がった「きゅうっ」と引き絞るような白い笑顔だった。

 ……ような気がした。

         §         §         §

 ――いったい、どのくらい気を失っていたのか。

 気が付くと、夜空が見えた。
 周囲に人影は全く無く、桂はだらしなくアスファルトの上に伸びていたのだ。

 夢だったのだろうか?

 そう思いながら薄闇の中で気だるい身を起こした彼女は、鼻を突く異臭と、股間に冷たいものを感じて、思わず右手を当てた。
 果たしてそこは、ジーンズばかりでなく、その下のパンツまでぐしょぐしょに濡れそぼっていて、擦り合わせた太股は“ぬるぬる”としているのに、手には湿気とアンモニアの匂いがこびり付いていたのだった。
 自分が、誰かも分からない人間に顔を嘗めたくられただけでオルガスムス(絶頂)に達し、とろとろと愛液を垂れ流し、その上で失禁までしてしまったのだ……と気付いた桂は、羞恥と屈辱と、なんだか分からない感情の波に呑まれた。
 そして、涙ぐみながら、ほっぺただけでなく耳や首筋まで真っ赤にして、胃から逆流してくるものを必至に堪えながら家まで逃げるように走ったのだった。
 ぐちゃぐちゃの股間が気持ち悪くて、情けなくて、恐くて寂しくて、桂は鍵を開けるのももどかしく家の玄関に飛び込むと、ドアに背中を預けたままケータイで健司の番号をコールする。

 夜道で突然背後から襲われたこと。

 その相手から助けて(?)くれた人間に顔中嘗めたくられてあそこをぐしょぐしょに濡らしてしまったこと。

 そればかりでなく、快感のあまり、だらしなく失禁までしてしまったこと。

 それらの記憶が、一度に桂の感情を飽和させた。
 涙がぽろぽろとこぼれ、液晶画面が滲み、腰から下の力がすっかり抜けてしまうと、桂はずるずるとしゃがみ込みながら、喉の奥より漏れ出るケモノのような嗚咽を抑える事も出来ず、闇の中でひとり震え続けたのだった。
 堪えた吐き気が再びぶり返す。
 頭がガンガンとして、頬が熱みを伴うほどに熱くなる。
 それは記憶に無いはずの痛みであり、恐怖であった。
 助け(?)があったからいいようなものの、自分の軽はずみな行為が招いた事実に、全身が震えた。

 それは、変質者相手に好きにされたという体験が、“力を持った男に理不尽に蹂躙される”という恐怖だけを、肉体反射として甦らせた結果だった。

 それは昨日、河野内によってもたらされた記憶であり、美智子が操作し封印し消去したはずの記憶に伴う、肉体が覚えている体の記憶だったのだ。

 そしてもう一人の男(?)に、そうとは望まぬまま与えられた激しいオルガスムス……。
 涙が止まらなかった。
 他人の力に翻弄され、自由にされてしまう自分の体が、なんだかもう、どうしようもなく哀しかった。
 手の中のケータイからはコール音が続き、やがてユーザー設定のコール時間を過ぎて、ひとりでに切れた。

 ――健司は出なかった。

 こんな時こそ――今という時こそ、アイツの声が聞きたかった。
 心配をかけたいわけじゃない。
 でも、あの落ち着いた声を聞くだけでよかった。
 のんびりとした、あったかい声を聞けば、安心出来ると思った。
 けれど、桂はもう一度コールしようとして、今の自分の姿を見られるわけでもないのに猛烈に恥ずかしくなり、コールの途中で切ってしまった。彼女にとって少なくとも健司という男は、愛液を垂れ流し、失禁し、小便でジーンズを濡らして泣きじゃくりながら電話していい人間ではないと、そう思ったから。
「……ぅ……っ……」
 突然、慌ててサンダルを脱いで廊下に上がりトイレに駆け込むと、カバーを開けるのももどかしく便器に顔を伏せた。
 とうとう堪えきれなくなった吐き気に、泣きながら吐いた。ツンとした焼け付くような酸味が喉を焼き、涙がこぼれ、鼻水が鼻腔から溢れて、糸を引きながら便器の中の吐瀉物に溢れた水溜りに落ちた。
 胃の中身を残らず吐き、最後には胃液しか出なくなってもまだ吐き続けた。
 まるで、ひどい二日酔いの翌日のような有様だったけれど、桂はまだ二日酔いというものを体験した事が無かったから、これがそうだとは思わなかった。多恵さんと彼女の同僚と晩御飯を食べお酒を飲んでしまってベロベロになってしまった翌日だって、二日酔いにはならなかったのだから、ひょっとしたら『星人』の因子が発現して、変体して肉体そのものが新たに構成された時、アセドアルデヒドを完全に分解してしまうようになったのかもしれないけれど。
「…………ぅえぇっ……」
 涙が、鼻水が、ぼたぼたと便器に落ちて音を立てる。
 そして、ぐったりとトイレの中で床に座り込み、トイレットペーパーで汚れた顔を拭う頃には、だいぶ気持ちも落ち着いてきていたのだった。

 せっかく食べた物を残らず吐いてしまったけれど、再び食事をしに外へ出掛ける気には到底なれなかった。
 近くのコンビニへ行く気力も無い。
 桂は冷蔵庫の中のオレンジジュースをグラスに一杯だけ飲むと、それからようやく愛液と尿で汚れたパンツとジーンズを脱ぎ、下半身裸のまま、ジーンズを洗濯機に洗剤と一緒に投げ入れた。
 シャツもブラも脱いで素裸になると、洗面所の大きな鏡に体を映してみる。
 おっぱいにも、内腿にも、赤くなったところや傷などは無かったけれど、男に締め上げられた喉のところが、少し赤い。でもそれは、すぐに消えてしまうように思えた。
「んっ……」
 念のため、右手で股間に触れてみる。
 そこはもうすっかり乾いていて、いつものようにほんの少し湿り気を感じるだけだった。そろそろと“肉の亀裂”に指を沈め、膣口辺りを撫ぜる。
 その指の匂いを嗅いでみたけれど、尿のアンモニア臭以外は、男の匂いも、精液らしい匂いもしなかった。

 ちょっと…………いや、かなり、ほっとした。

 見知らぬ変態野郎にも、助けてくれた……のかどうかもわからないけどとにかく傷付ける事だけはしないだろうとなぜか信じられた正体不明の人物にも、レイプなどされなかったのだ。
 もしレイプされでもして、その嫌悪と肉体の拒絶でいまさら再び変体が起こるのだけは避けたかった。

 ――出来れば、男にはもう……戻りたくなかった。

 今となっては、それをハッキリ自覚する事が出来る。
 なぜなら、まだ、自分は『想い』を遂げていないのだから。
 男に戻ってしまえば、今のこの気持ちさえ忘れ、「同性」に恋してしまったことを「気持ち悪い」というように思うかもしれない。
 そう思っても何の不思議も感じなくなるかもしれない。
 でも、それではあまりにも寂しいではないか。
 哀しいではないか。
 「恋」を知って、一度でもその狂おしいまでの切なさ、愛しさ、そしてほんのささやかな事にさえ、たとえようも無いほどの幸福感を胸一杯に感じてしまった今となっては、この「恋する心」こそ自分の本当の姿だと思える……いや、思いたいのだ。、
 なのに。
 その、恋の相手ではなく、自分にとって意味すら持たない、全く関係の無い男達を引き寄せてしまう。
 女になってからこのひと月半、夜道で襲われた事なんて一度も無かった。
 父親のことを痴漢と間違えた事はあったけれど、今日のように実際に暗闇に引き擦り込まれそうになった事など無かったのだ。
 ただでさえ異性の注目を引く体で、気持ち悪い色目を使ってくる男達にムカムカしている日常の中、健司の姿だけが、声だけが、自分を落ち着かせる精神安定剤のような存在だった。
 健司にこそ、自分を感じて欲しかった。
 健司こそ、引き寄せたかった。
 一人の女として、アイツに恋する一人の異性として。

 悶々としながらシャワーを浴び、ソープをたっぷり使って丁寧に体を磨いた。
 変質者の匂いも、正体不明な人物の匂いも、ぜんぶ消してしまって、まっさらな自分に戻りたかった。
 たった一人の、幼馴染みで弟分で親友で、それも男同士だった男に、どうしてここまで熱を上げ、明けても暮れても一日中ソイツの事だけを考えてしまうのか。
 想ってしまうのか。
 狂おしさと切なさと愛しさのないまぜになった混沌とした想いのままに自らを慰めてしまうのか。求めてしまうのか。
 それが「恋」なのだろうとは、想う。
 きっと明確な理由など無いのだ。
 「好き」になってしまったものは仕方ないのだ。
 昔から言うではないか。

 ――恋は「病」なのだと。

 シャワーを浴びて、パンツいっちょでタオルを首に引っ掛けた格好のまま、桂はリビングのクーラーの電源を入れる。
 それからソファの上であぐらをかいて座り、手に持った卓上電話の子機をたっぷり5分は見つめ続けて、それからようやく再び健司に電話した。
 4回のコールで、健司が出た。
 思ったより元気そうで、いつものようにあったかい声だった。
 ちょっと安心して、ほっとして、涙が出そうになった。
 涙腺がかなり緩んでいる気がするのは、ここには自分以外誰もいないからだ。今までだって両親が留守にする事はたくさんあったし、父親なんて半月に一度くらいしか帰って来なかったから、一人には慣れているつもりだった。でも今は、両親は外国にいる。何かあっても、すぐには駆けつけてくれる事は無い。
 一人なのだ。
 急激に涼しくなり始めていたリビングの空々しい空間が、寂しさを増長させているようだった。

 健司はいつもの“ぽややん”とした調子で、風邪をこじらせたこと、病院に行ったこと、病院で出会った人のこと、由香から電話があったこと、さっきは2日ぶりに風呂に入っていたことなどを話してくれた。
 桂といえば、「うん」とか「そっか」とか、そんな相槌しか出来なくて、会話らしい会話にもなっていなかった。
 そして、そろそろ寝るから――と健司が口にした頃、桂が見舞いに行くと言うと、彼は
「明日は日曜だけど、経過をみるから来て下さいって病院の先生に言われてるんだ。その前か後ならいいよ。そうだね……10時前には行くから、それより前…………はダメか」
 なんて事を言った。
「……なんで?」
「けーちゃん、起きられないでしょ?」
「……馬鹿にすんな。学校行く時間よりずっと遅いじゃんか」
「でも、日曜だよ?」
「オマエなぁ……」
「今日、何時に起きた?」
「え? …………に…………8時」
「けーちゃん」
「…………10時」
「…………」
「いいだろべつに……」
「どうせ2時くらいまで寝てたんでしょ?」
「なんでわかるんだよっ」
「だって、けーちゃんの事だもん」
 結局、昼頃に一度連絡入れることにして、子機のスイッチを切った。
 胸が“ふくふく”してた。
 “じんわり”してた。

 わかってる。

 声を聞いただけで、少し話しただけで、どうしようもないくらい、心が濡れていた。
 “感じて”いた。
 電話という機械越しの変質した声だというのに、耳元で聞く健司の声に、桂は心を、そして体を濡らしてしまったのだった。

 その後、ベッドに入った桂は、体の奥底で燻ったままの炎のおかげでちっとも眠れず、自慰をしてしまった。
 しかも、いつもよりたくさん濡れて、何度も何度も。

 何度も何度も。

 何度も…………イッてしまったのだった。
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