■感想など■

2009年08月17日

第16章「欲しがるカラダ」

■■【5】■■
 そんな桂だったから、“ぷるん”とした可愛いお尻を誰かに撫でられた時、つい夢の中で「ぁんっ……」などと鼻にかかった声で甘ったるく呟いてしまって、急に“くすくす”と可笑しそうに笑った誰かの声にびっくりして飛び起きる事にもなる。記憶に残ってはいないものの、夢の中でも“いろいろ”えっちなことをしていたような感じが残っていたから。
 ぼんやりした瞳と思考に投影されるのは、ちょっと頬を赤く染めながらベッドに腰掛けた幼馴染みの子供っぽい笑顔。
「けーちゃん……いくら夏でも、風邪引いちゃうよ?」
 そう言いながら“くすくす”笑う由香の視線を追えば、脚を崩した横座りの膝に引っかかるようにして引き下ろされたパジャマのズボンとパンツ……。
 はだけた毛布の中でしどけなく自慰に耽り、気だるくも心地よい感覚に、精神的にも肉体的にも疲労の溜まっていた桂は、誘われるようにそのまま眠りに落ちていったらしい。
 慌てて毛布を引き上げながらパニックで口をパクパクさせたまま自分を睨み付ける桂に、彼女の裸にすっかり耐性がついてしまって“えっちな格好”にもちっとも動揺しなくなった由香は、
「健司くんのこと考えながらシタの?」
 と聞きながら、瞬間湯沸し器で沸かしたみたいに全身を“ぼんっ”と真っ赤に火照らせた桂の、卵を剥いたような“つるん”とした肩を可笑しそうに突付いた。

 日曜の朝だというのに由香が桂の部屋まで上がってきたのは、やはり昨日の事が心配だったから……らしい。
 テレビで、ようやくの梅雨明け宣言を告げるお天気お姉さんの晴れ晴れとした声を聞きながら、彼女はテフロン加工のフライパンの上でフライ返しも使わず、菜箸だけで手際良く卵焼きを巻きながらひっくり返して見せた。
「健司くんと連絡取れた?」
「……ん……ぜんぜん……」
 ダイニングキッチンのテーブルに自分と由香の分の食器を並べながら健司のケータイへとコールを続けていた桂は、嘆息してイスに“すとん”と腰掛ける。壁掛け時計の短針と長針は、少し古い少年漫画に出て来るガミガミ親父の尖ったヒゲのように逆さまの山の形になっていて、健司の昨日の言葉を思い出すと再び溜息が出て来る桂だった。
 10時前には病院に行くと健司が言っていた……と桂が言うと、由香はお椀に油揚げと豆腐の味噌汁をよそいながら「じゃあ仕方ないねぇ」とあっさり言って、テーブルの前で自分と同じくらいちっちゃい背の女の子が、ものすごくつまんなさそうに脚をぶらぶらと揺らすのを微笑ましく見た。
 恋する乙女が理不尽なのは、由香が一番良く知っている。
 きっと今の桂は「ボクが電話する時にいないなんて、なんてヤツだ」……とかゆーふうに思ってたりするに違いないのだ。“ぷう”とほっぺたをふくらませて唇をタコみたいにとんがらせているところなんて、まるきり『遊園地に遊びに行く約束を、ドタキャンされた幼稚園児』みたいだから。

 そんな風に由香が自分を見ているとはちっとも思わずに、桂は席についた由香と一緒に「いただきます」と手を合わせると、健康優良児ぶりを発揮してすぐさま白いホカホカの御飯をパクついた。そして由香が思った通り、本当に「健司のヤツ……ボクが電話する時くらい家にいろよな」なんて思ってたりしたのだった。
 それから自然と昨日の出来事へと、いささか消化の悪そうな思考は徐々に移っていき、やがて、夜道で気を失う前に見たあの“薄闇にぼんやりと浮かび上がった「きゅうっ」と引き絞るような白い笑顔”を思い返す。
 あの笑顔を、桂は前にも見た事がある。
 昨日は気が動転してそれどころでは無かったから思い出す事も出来なかったけれど、落ち着いた今ならその笑顔が何だったのか、誰のものだったのかわかるのだ。

 楡崎要(にれさき かなめ)だ。

 七夕の日の放課後に校舎裏の焼却炉の前で声をかけてきた、
 青がシンボルカラーと嘯(うそぶ)いた、
 短く刈り込んで針山みたいにツンツンに尖らせた髪を染めてもいないし脱色もメッシュもしていない、
 どこからどう見ても“フツーの高校生”の、
 バスケ部で、A組の男子で、すらりとスマートな体は身長180センチ近くあって、
 頭も線が細くて色も白いハンサム顔で、
 ステイタス代わりに連れ歩くには丁度良いけど、ヘンにフェミ入った勘違いナルシーな、
 適当におだててキャーキャー言っておけば奢ってくれるから“見せカレ”にはいいけど恋愛の対象にするにはちょっとカンベン願いたい……なんて女子に思われている、
 自他共に認めるバイセクシャル。

 彼から浴びせ掛けられた、無遠慮で思いやりの無い言葉の数々を思い出す。

『考えてみてよ。けーちゃんならわかるはずだよ? いくら可愛い女の子に見えてもさ、自分の彼女が元男だったなんて、本人は良くても他人からとやかく言われるかもしれないんだよ? ホモとか同性愛者とか、最近だとボーイズラブってゆーの? そんなのに、真面目で優しい健司君が耐えられると思う?』

『健司君だって、たとえ、ひょっとして、万が一にも君の気持ちを受け入れてくれても、そんなのはすぐにウソになる。あっという間にキモチは離れていくと思うよ?』

『彼には君と過ごした時間がある。男と男の関係だった時間が、何年もの時間がある。それでも彼は君を、けーちゃんを女として見てくれるかなぁ?
 たとえばキスする時、抱き締めた時、セックスする時、彼は、男だった君を重ねてしまう。
 バイじゃない彼には、きっと辛いだろうね。
 自分は誰とセックスしてるんだろう? どうしてセックスしてるんだろう? そう思ったり』

 いちいちもっともで、いちいち正しい。
 だからこそ腹が立って、哀しくて、切なくて、苦しかった。
 そんな彼が、変質者から桂を護った??
 なぜ?
 どうして?
 やはり見間違いではないのか?
 考えれば考えるほどわからなくなる。
「けーちゃん、御飯の時は食べる事に集中した方かいいよ? ほら、卵焼き食べて」
「う、うん」
 元気な形の眉が“うにゅぅ〜”と寄った桂に、由香が教育的指導をする。
 御碗が左手の中で傾いて、今にも中身が零れ出してしまいそうになっていた事に気付いた桂は、慌てて一口味噌汁を啜った。
「で、どうしたの?」
 桂が何度も思考の中へと潜り込み、6度目か7度目には箸で摘んだままの漬物をテーブルの上に“ぼたっ”と落とすに至って、とうとう由香は溜息を吐きながら彼女を見た。
 当然のように彼女はとっくに食事を終えていて、自分で注いだ薄目のお茶を、上薬の垂れ具合が絶妙に和む陶器製の湯飲みから“ちびりちびり”と嘗めるようにして飲んでいる。もちろん、桂よりずっと早くに食べ終えたとはいえ、いつもの健啖ぶりはあいも変わらず、人の家の米だというのにしっかり山盛りでお代わりするのだけは忘れなかった。
 桂は手に持った茶碗とテーブルの上の卵焼きと壁の時計とキッチンの壁と由香の顔を見て、それからもう一度卵焼きの皿を見た。
「卵焼き……もっと焼く?」
「……そうじゃなくて」
 少し頭を下げて下から上目遣いにこちらを伺う由香に桂は、なんともいえない顔で笑ってみせた。

 桂は由香にかなり遅れて朝食を食べ終えると、昨日、夜中に一人で晩御飯を食べに駅前商店街まで歩いて行った事は伏せて、彼女に楡崎のことを聞いてみた。
 諸々の事情を伏せたのは、正直に全部話したらこの世話焼きで心配性な由香はきっとものすごく心配してしまうだろうし、なにより本気でムチャクチャ怒るに決まってるからだ。しかも、帰りに変質者に襲われて、危うく暗闇に引きずり込まれそうになった……なんて話したら、夜間外出全面禁止だけじゃなく、「一人だと物騒だから私の家に泊まりにくれば?」とか平気で言いそうだった。あそこの家は父親も母親も優しく、馬鹿みたいに親切で絵に描いたような「幸せ家族」だから、一週間程度なら喜んで迎えてくれそうだったけれど、今の桂にはそれが一番辛い。自分が今、日本に一人きりなのだと自覚してしまうからだ。

 それに、怒った由香は恐いのだ。
 それはもう、「由香ちょっぷ」(意外に痛いのだ、これが)とかを後頭部に“ずびし”と食らう事なんて全然可愛く思えるくらいに。
 最近は、例の“ほにゃにゃ〜ん”とした笑顔のまま目が笑っていない……という高等技術を身に付けて“じいっ”と見つめてきたりするものだから、桂としては耐えられなくてあっという間に「ごめんなさい」してしまうしか無くなってしまうのであった。

 ――で、楡崎のことなのだけれど。

「え? だれ?」
 ……と、まるで初めて聞いた名前のように目をパチクリさせる由香に、桂は思わずガクリとわざわざ“ズッコケ”てみせた。
「ナイスリアクション」
「ふざけんな」
「でも私、ホント知らないよ? その……」
「楡崎」
「そう。楡崎ってひと」
「……って…………前に、その……話しただろ?」
「いつ?」
「ボクが……健司の机で……ええと……」
「オナニーした時?」
「はっきり言うなよなぁ! もうっ!」
 やーらかいほっぺたをトマトみたいに真っ赤にしてふくれる桂は、ホントに可愛い。
 由香は、縁側に座って日向ぼっこするおばーちゃんみたいな顔でのんびりとそんな事を思いながらお茶を啜った。
 けれど。
「あ〜〜〜〜……そうそう。そうか、うん」
 ようやく思い出したとばかりにイキナリ一人で“こくこくこく”と頷くと、由香は湯飲みをテーブルに置いて“むふー”と可愛らしい鼻の穴をふくらませながら目をキラキラさせた。
「なにが?」
「思い出したよぉ。あの後、けーちゃんをいぢめた人ってのが気になって、その楡崎って人のこと、それとなくA組の子に聞いてみたんだっけ」
「忘れるなよ。そんな大事なこと……」
 左腕で頬杖をつき、右手の指で苛立たしげに“とんとんとん”とテーブルを叩く桂は、テーブルの天板に“のしっ”と、スウェットに包まれたでっかいノーブラおっぱいを載せていた。
 どうしてノーブラだとわかるのか。
 それはテーブルの上で“もてっ”と重たそうなおっぱいが少し横に押し潰されるように広がっていたから。
 フルカップのブラよりホールド力の弱いスポーツブラでも、さすがにこうはいかない。
『やっぱり載せると楽なのかな……?』
 いまだかつて“テーブルに載せられるような巨大なおっぱい”など持ち合わせたことなど無い由香は、漫画やドラマなどで風邪の時におでこに載せたりする、氷水を入れた氷嚢みたいな形に“もったり”と変形した桂の柔肉を見ながら、そんな事をぼんやりと思ってみたりする。
「でもぉ……そんな男子いないって言ってたよ?」
「え?」
「それでね? 念のためバスケ部の女の子にも聞いてみたけど」
「いなかった?」
「うん。だいたい……けーちゃんが言うような特徴ある人ならすっごく目立つと思うし、私も知ってると思うけどなぁ……。
 それに、けーちゃんをいぢめる人ってトコも、見逃せない点なのデスヨ!」
 由香は湯飲みにお茶を注ぎ、桂の前に置くと、自分の湯飲みにも注ぎ足しながら大真面目に言った。
「なんで?」
「だって、けーちゃんをいぢめるのも可愛がるのも、私と健司くんだけに許された特権なんだもん」
 これ以上無いくらい大真面目な彼女の顔を、桂は思わず“ぽかん”と口を開けて馬鹿みたいに眺めてしまった。
「……特権って…………っつーか、由香には……その、いぢめられても…………健司にいぢめられた事なんて無いぞ?」
「私もいぢめた事なんて無いよ? まだ」
「最後になんか不穏な一言があったな」
「気にしない」
「するわっ」
「あ、ひょっとして『由香ちゃんちぇーっく!』のこと?」
「ちがう」
「じゃあ……、あ、ひょっとして学校のプールのシャワールームでのこと言ってる?」
「……あ……う……」
 途端にほっぺたを赤くして俯いた桂に、由香は可笑しそうに“くすくす”と笑みをこぼした。
 あの時はなんだかもう夢中で、「いぢめた」なんてつもりはこれっぽっちも無い。さすがに後で「やりすぎたかなぁ」と思わなくも無かったけれど、桂から何も言われなかったし、それから二人の関係がそれでギクシャクする事も無かったから(もちろん、それに由香が気付かなかった……という可能性は、否定出来なくは無いのだけど)、いつの間にか気にしなくなっていた。
 いやむしろ、以前よりもっとスムーズにスキンシップを取れるようになった分、由香としては結果オーライなところがあったのだ。
「でも、けーちゃん、健司くんにだっていぢめられてるじゃない」
「……アイツがボクをいぢめるなんて」
「けーちゃんの気持ちにちっとも気付いてくれないとことか」
「……ぇ…………」
「ね?」
 “くすり”と笑いながら顔を覗き込むと、俯く桂のほっぺたの赤味が30パーセントほど増したような気がした。
 由香のたった一言で目元が熱っぽく赤らんでしまうところなど、本当に「恋してる」んだなぁ……などと思えてしまう。
 そんな桂の様子に、由香はいぢわるな笑みを浮かべるものの、あえて言葉にする事も無く「ふふふ」と笑ってみせた。


 話がそれたけれど、桂は由香の“楡崎に関しての話”にウソは無いと思えた。
 もともと由香は桂に対してはいつも正直だったし、こういう話の時にウソをつくような少女でも無い。
 だから、桂はそれがわかるから、ただ黙ってお茶を啜った。
「けーちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「……ん……」
 楡崎要は、実在した。
 それは間違いない。
 学校では女生徒達から彼に関する噂話だって聞いたし、実際に出会って、からかわれて、求愛されて、その人物が噂通りのものだと桂自身が確認しているのだ。
 なのに、その後で由香が調べても「そんな生徒はいなかった」と言う。
 A組の生徒すら知らないという。

 おかしい。

 何かが、おかしい。

 けれど、心に浮かんだその疑問を由香に話すわけにはいかない。
 いずれ全てを話さなければならないとしても、それは今ではないのだ。

 そして桂にはなによりまず、確かめたい相手がいた。

 食後、母がいなくてそろそろ埃やゴミが気になり始めた家の中を、由香が「仕方ないなぁ」とか言いながら掃除を始めたその隙に、桂は自分の部屋に引っ込んで、ケータイでその相手に疑問をぶつけてみることにした。

『知らん』

 にべも無かった。
 最近の保険教諭はビジネスライクで、プライベートでの生徒の質問には、まるで興味無いのかもしれない。
 桂は、そんなことを思ったりもする。

 ちょっとムッとした。

「じゃあ、別にソラ先生が裏で糸を引いているってワケじゃないんだね?」
『……お前……私のこと普段どんな目で見てんだ?』
「……いたいけな生徒を罠にはめて絶望の底に陥れ体を弄ぶ極悪宇宙人」
『よおし桂、そこにいろよ今からそっち行くからな〜〜そこんとこ詳しく話し合おうじゃないか、お前の今後の人生についてもじっくりたっぷりねぶるように』
「すみませんウソですごめんなさい」
『謝るなら最初から言うな』
「うぅ……」
 結論から言えば、ソラ先生というひとくせもふたくせもある『星人』の言葉を全て信じるのであれば、彼女は楡崎という生徒については何も知らないという。
 桂は、日本にあと2人いる『星人』のうちの一人じゃないか? とも聞いてみたけれど、
『それならそれでこっちにも連絡が来るはずだから、その連絡が無いという事は「星人」ではないか、または単独で動いている「星人」かもしれない。まあ、こっちでも調べてみるよ』
 と、あまりにもあっさりとした口調で言われた。

 昨日の夜の事は、いつものようにコミュニティの方でもしっかりモニターしていたはずだ。けれど、あれも最近、特に不安定だった桂の生理機能の乱れに過ぎないと判断され、実際にはコミュニティの誰も動いていないのだという。
 それを聞いて桂は、『“自分(の体)が選んだ好ましい(優良な)遺伝子を持つ相手”ではない対象からレイプ(強制性交)されそうになる』……という、“本当に危険な時”に助けに来ないのもどうか……と、思ったりもした。
 けれど、実はあの痴漢は『星人』の差し金で、コミュニティの選んだ地球人であり、レイプされて妊娠してしまうのならそれはそれでテストケースとして結果オーライ……なんて考えてしないだろうな? ……と考えてしまわなくもない桂であった。
 そしてまた、その際に変体して男性に戻ったとしても、『より慎重に相手を選んで遺伝子を残す形態』としての「女性」から、『より多くの相手に遺伝子をばら撒き可能性を広げる』ための「男性」への、単なる「望ましい変化」としてのみ認証されてしまっていたのかもしれない……などと、考えてもしまうのだった。
『……ボクが「星人」を信用出来なくなったら……おしまいだよな……』
 不安定なホルモン分泌のため情緒不安になり、疑心暗鬼になっている自分を、桂は自覚する。
 けれど、だからといってその可能性を否定しきれない彼女でもあった。

『…………何かあったのか?』
 不意に黙り込んでしまった桂に、ソラ先生は少し声を低くして問うた。
 一瞬、昨日の夜のことを話そうかどうか迷った桂だったけれど、楡崎の事を聞いてしまった以上、隠しておくのも変かもしれないと思い、結局は要点を絞って話す事にした。
 ――結果。
『……お前、今日、外出禁止な』
 ものすごぉく冷たい声が受話器から桂の耳に突き刺さる。
「えぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!?」
『当たり前だバカ。お前がそんなに軽率な人間だと思わなかったよ。このアホ! バカ! 考えナシ!』
「ひでぇ……」
『ひでぇ……じゃないよおまえわっ! 自分が今、どういう状況にあるかわかってんのか!?』
「わ……わかってるよ……」
『わかってるよ? ……よ? ……よ!?』
「わかってます……」
『いいや、わかってないね。いいか? 今のお前の体は、男にとって「犬の前にぶら下げた肉」であり「蟻の前に置いた角砂糖」であり「横綱の前のちゃんこ鍋」みたいなもんなんだ』
「……最後のはちょっと違うような……」
『うるさい。だまれ。バカ! このバカ!』
「バカバカ言うなっ」
『いーや、言うね。言っちゃうね。バカ! ヘビーバカ! ストロングバカ! ハイパーバカ!』
「ぐぐぐ……」
 もはや意味すら不明な彼女の罵倒に、桂は一言も言い返せなかった。

 それから、ソラ先生にたっぷり5分以上も御小言をもらい、あまりにあまりな言葉のシャワーで桂がぐったりとした頃、彼女はようやく桂の遭遇した変態(痴漢)も変質者も警察に捕まっていないし、(当事者で被害者な桂が被害届を出していないのだから当然ではあるのだけれど)事件にもなっていないと言った。
 そして健司の家に見舞いに行く事を厳しく禁じ、桂は明日の朝、1時間目が終わったらすぐに保健室に来るように約束させられて、ようやくケータイを切る事が出来たのだった。

 その後の桂は、由香が心配してしまうくらい意志消沈して、午後になって由香が帰るまで、ずっとリビングのソファの上で“ころん”と横になって、まるで自分を放っておいて遊びに行ってしまった御主人様をスネて待つ子犬みたいに、すっかりフテ寝を決め込んでいたのだった。
 もちろん、健司には行けなくなった事を報告しておくことは忘れなかったけれど、健司が
「うん。いいよ別に」
 ……と、実にあっけらかんと口にするに至っては、由香が作り置きしておいてくれたグラタンを晩御飯に食べ、デザートに大好きな杏仁豆腐を食べても容易に浮上出来るものでは無かった。

         §         §         §

 だから、翌日の朝、登校途中に谷口豆腐店の前で健司の顔を見た桂が、情緒不安定であるがゆえに、すっかりゆるくなってしまった涙腺のせいで鼻を“ぐじゅぐじゅ”させてしまっても、それはそれで無理の無いことだったのかもしれない。
 もっとも。
 これまた当然のように、そんな桂を由香が“ほにゃにゃ〜ん”とした顔で
「けーちゃんねぇ、健司くんのこと、スッゴク心配してたんだよぉ?
 それはもう、傍(はた)で見てるとこっちが恥ずかしくなっちゃうくらい」
 ……と評したものだから、そんな“桂個人限定”のしんみりした雰囲気は、一気に吹き飛んでしまったのだけれど。

 パッと見たところ、健司は元気そうだった。
 心持ち、頬かすっきりした気もするけれど、それが精悍さを加味して、少なくとも「牧場で草を食む牛」みたいだったのが「食事中の闘牛」くらいには見えるようになった……ような気がしないでもなくはない……。
「あんまり変わってないや」
「なにが?」
「いや、別に、なにも……」
 真っ直ぐに瞳を見られて口篭もり、ついっと視線を外す桂を、健司は不思議そうに見る。
「健司くん、今日だったよね? 水泳部の『3年生追い出し会』って」
 由香が能天気な“ほにゃにゃん”顔で無邪気に聞いた。
「うん」
「やっぱり応援に行っちゃダメなの?」
「うーん……部内限定のイベントだから……ごめん」
「体育会系って、つくづく閉鎖的だよねぇ……」
「ははは」
「笑って誤魔化すな」
 そう言いながら“ばちん”と叩いた健司の右の二の腕が、高校二年生とは思えないほど引き締まって硬かったから、桂は叩いた左手を思わずじっと見つめ、ほんのりと赤らんだほっぺたを拗ねたようにふくらませて、ぎゅっと握り締めた。
「あ、夏休みの選考会は、いつもみたいに市役所のプールでやるんだよね?」
「うん。県大会前の予選みたいなものだからね。規模はそんなに大きくないし……出場校も4つだから」
「ふぅ〜ん……」
 わかったんだかわかってないんだかわからない由香と話している健司の顔を、桂はそっと盗み見た。

 小さい頃からずっと見てきた顔だ。

 小学3年生から8年間、毎日のように見ていた顔だ。

 海苔でも“べたり”と貼り付けたような眉は濃くて太く、目はくりくりとして大きいけれど、笑うと“きゅっ”と細くなって隠れてしまう。顎がガッチリと張っているので、顔の形そのものは角張ってゴツく見えるけれど、岩みたいに見えないのは少年の柔らかさを失っていないからだろう。鼻が少し丸くてぽってりとしているから、やっぱり愛嬌があってどこか……
『かわいい……』
 桂はそう思ってしまってから、その心の動きに自分で苦笑してしまった。
『健司の事…………「かわいい」って思うなんて…………な……』
 知らず、溜息が出てしまう。
 真面目で、泣き虫で、融通が利かなくて、でもどこかちょっとズルくて、手のかかる弟みたいな奴だったのに。
 いつの間にかぐんぐん背が伸びて、あっという間に真っ直ぐの視線では話も出来なくて、手も足もでかくなって胸板も厚くなって、少年ではなく立派な「青年」となっていった。
 なのに、彼はきゅっと目を細めて笑みを浮かべると、左の口元に笑窪(えくぼ)なんかが出来たりして、その体格からは想像も出来ないくらい優しい柔和な顔になる……。
「選考会はいつものように一般の応援も全然OKだから、けーちゃんも来てよ」
「……う、うん」
 いつしか“ぽちょ、ぽちょ”と生え始めていた顎の下のヒゲを“ぽ〜〜っ……”と見てしまっていた自分に気付いて、桂は慌てて視線を下げて“こくり”と頷いた。
『ヒゲ……生えてきたんだなぁ……』

 ――もう大人の男なんだ。

 『自分が選ばなかったもう一つの未来』が、ここにあった。
 果たして、童顔で子供っぽさ大爆発な自分の体に「ヒゲ」なんてものが本当に生えたかどうか想像も出来なかったけれど、でも、それは、確かに『自分が選んでいたかもしれない未来の姿』だった。
『でも、ボクは女を選んだ。女になって、健司(コイツ)をこのまま女として好きでい続ける道を選んだ。だから』
 桂はもう一度、眩しいものでも見るように目を細めて、健司の斜め下からの横顔を見上げた。
『だから、後悔は、しない。したくない』
 きゅ……と噛み締めた下唇は、瑞々しく艶やかで、女の子そのものの生命力を示しているようだった。


 7月も半ばを過ぎれば、朝でも太陽の光は容赦無く照りつけてくる。
 3人はじりじりと焦げ始めたアスファルトの道を、校門に向けてのんびりと歩いていた。
 明日を終業式に控え、浮き足立った雰囲気が生徒達に蔓延している気がするけれど、みんな“むずむず”する気持ちを心の奥に押し込んで、今朝はまだ大人しくしているようだ。
「でも、まあ良かったよ。何も無くて」
 健司は、昨日はちゃんと病院に行って、念のために検査してもらってきたのだという。
 経過は良好で、すっかり元通りに元気……らしい。
「けどオマエさぁ……今日だって、一応記録会だろ? それに選考会だって近いんだから、もっと体を大事にしろよな」
 夏服の白い丸首ブラウスをぱんぱんにふくらませて、ただでさえボタンを弾き飛ばしてしまいそうな大きなおっぱいが、背筋をしゃんと伸ばして元気に歩くものだからさらに強調され、夏風の中“ゆっさゆっさ”と揺れ動いていた。
 道行く男子生徒ばかりでなく、女子生徒の視線すら引き寄せているけれど、もちろんそんなものは桂の目には入ってやしない。
「昔っから、なーんか大事なところで抜けてんだから」
 左ナナメ後を歩く健司へ、偉そうにそんな事を言いながらも、桂の顔には嬉しくてたまらないといった表情が浮かんでいる。
「はは……」
 そんな幼馴染みを複雑な表情で見下ろしながら、健司はなんとも言えない表情で小さく息を吐いた。

 最近、登下校途中は、右に由香、左に健司……そしてやや前に突出して真ん中に桂……といった並びになる事が多い。
 健司の目の位置からは、桂のつやつやさらさらな黒髪に、健康なキューティクルだけが描く“天使の輪”が出来ているのがよく見える。桂は健司の胸の位置までしか背丈が無いため、彼からは、その“天使の輪”がとてもとても綺麗に見えるのだ。
 そして、背の高い健司には、少女の肩越しに、ブラウスを押し上げるでっかいおっぱいが見えるし、その位置で見えてしまうおっぱいというのもすごいなぁ……と思ってしまう。
 『おっぱい星人』としてはこの上も無く絶妙なポジション……なのだろうけれど、幼馴染みであり兄貴分であり親友であり幼い時からの目標でありヒーローであった『少年』を、そんなふうに性愛の対象として見てしまってもいいのだろうか? という疑問と葛藤はいつも感じてしまっていた。
 もちろん、健康的な17歳の男子としては当然のように、いくら「近しい」とはいえ家族とは明確に違うのだから、「性」を強烈に感じさせる肉体がそばにあれば反応もするしドキドキもする。
 だから、たとえ“ゆっさゆっさ”と揺れるおっぱいに目が引き寄せられても、さらさらとしてやわらかそうな髪からいい匂いが立ち昇ってきても、どこに触れても頼り無いくらいにやわらかい体が触れてきても、健司は崩れそうな自制心を総動員して欲望を抑え込む努力は決して怠らなかった。
 でも、最近の桂は健司の目から見ても
『かわいいなぁ』
 と、思う。
 ほっぺたを赤くして俯いたり、拗ねたように唇を突き出してそっぽ向いたり、とろけそうな笑顔でミニスカートを翻したり。
 男として相対してきた8年間がまるでウソだったように、「男」の仮面を外した桂は急速に「女の子」になっていった。
 こうしていても、思わず背中から抱き締めてしまいたくなるほどに。

 もちろん、健司にはそんなことをするつもりはない。
 どんなに可愛くても、えっちな体でも、桂は桂であり『圭介』なのだから、「なにすんだバカヤロー!」とか言いながら蹴倒されるのがオチだと思っている。もし万が一にも、自分が彼女に対してちょっとえっちな考えを浮かべてしまっていたりしたことがバレたりしたら、もう口も利いてくれなくなるかもれない――なんて風にも、思っていた。
 つまり健司は、桂の見せるそれらの仕草や表情が、“自分に対してだけ”向けられているという事に、ここに至ってまでちっとも気付いていなかったのである。
 確かに、かつては衝撃的な想いを引き摺ったまま戸惑いが残っていた。
 でも、健司にとっての桂は、結局のところ何も変わっていない。

 変わらずにいよう……と、あの日、公園で約束した。

 だからこそ、この元気でナマイキで優しくてカッコイイ笑顔を護らなければ、と思う。

 “この俺が護ってあげなければ”と、思う。

 それは、健司の魂の奥底からふつふつと沸き起こる不思議な情動だったけれど、その想いが健司に桂の、自分に対する恋心を気付かせない要因になっているとは、他ならぬ健司自身が自覚出来ないでいたのも確かだった。
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