■感想など■

2009年08月19日

第17章「切り裂かれたココロ」

■■【1】■■
 翌日の終業式は、憎たらしいくらいのカラッとした晴天の中で終わり、桂は午後から、水泳部の他校との合同練習を由香と共に見学した。
 どうせ家に帰っても誰もいないし、やる事も無いのだ。昨日の夜に母から電話があり、今頃はきっとパリに着いているはずだ。声がちょっとくぐもってヘンに聞こえたけれど、母にそう言うとちょっと喉を痛めたとかで、父も一緒なのだから別段気にする必要も無さそうだった。『星人』を追う者達について聞いてみようかとも思ったけれど、聞くとますます不安になりそうだったので聞かない事にした。
「けーちゃんは、今をもっと楽しむといいわ。高校2年の夏休みは、たった一度しか無いんだし」
 母のそんな言葉に、つい寂しさが溢れて、ちょっと瞳が潤んでしまったのは誰にも秘密だ。
「けーちゃん、今日、何日だっけ?」
「今日? 日本は7月の18日。ついでに火曜日」
「そっか」
「なんで?」
「……ん。そろそろ寂しくて泣いちゃってたりしないかなぁ……って」
「そっ……そんなわけないだろっ!」
 誰にも秘密だ。
 秘密なのだ。

 特に、たぶん受話器の向こうでものすごおく嬉しそうな顔をしているのだろう、
 この母には。

         §         §         §

 合同演習は、あの亮と隆明(たかあき)のいる高校と一緒だった。

 以前、桂が女性化してから初めて町に出た日にも合同練習は行われていたから、ひょっとしたら定期的なものなのかもしれない。
 桂と由香は、2階の見学用応援席から練習を見ていた。
 いつものように更衣室まで健司を激励に行こうかと思ったけれど、今回はやめておいた。
 あのむっとするような熱気と男達の汗の匂いが充満した場所に入って、どうにも無事でいられる自信が無かったからだ。

 ちなみに、昨日の『3年生追い出し会』という名の全体記録会は、ちゃんと例年どおり滞りなく終了した。
 自己ベストを更新した部員から抽選で選ばれた人に贈られることになっていた「大阪ユニ●ーサル・S・ジャパンへのペア招待券」は、彼女いない歴18年の曽我本とかいう先輩が手にしたらしいけれど、招待券の有効期限内に彼女が出来るかどうか、水泳部では既にトトカルチョ(競技賭博…………競技??)が始まっているようだ。

 合同練習は、さらっとコース練習を30分ほどこなしてから、4つのコースを空けて種目別タイム測定が行われた。
 バタフライ・背泳・平泳ぎ・フリー・メドレー・リレー……と、見ているだけでそのハードさがわかるメニューだった。
 健司はバラフライの選手なので、バタフライは当然として、メドレーとリレーにも出て、その逞しくしなやかな肉体を波間に躍らせていた。
 応援席には水泳部のマネージャーや“生理休暇”の女子などがいて、盛んに黄色い声援を送っている。
 健司の出番になるとその黄色い声援にはいっそう熱がこもり、彼の、女子や後輩からの人気の高さが伺えた。
 自分の好きな人間に人気があると思うと、嬉しい反面、やっぱりどこか胸の奥がちくちくする。特に、綺麗な子や可愛い子が
「やーん……やっぱり谷口センパイってかっこいー!」
 とか
「かっこいいだけじゃないよーやさしーよー」
「やさしーよねー」
「センパイが彼氏だったらなぁー」
 とか口走るのを聞いては、心中穏やかじゃないのも無理は無かった。
『そりゃ、健司はイイヤツだけどさぁ……』
 お前らは小学校の時の健司なんて知らないだろ? ボクは知ってるぞ?
 ああ見えて健司は甘いものが大好きで、チョコレート食べ過ぎて鼻血とか良く出してたんだ。
 5丁目の工場後の塀の上から飛び降りれなくて、日が暮れてもずっとそこで泣いてたりしたんだ。
 夏休みの宿題だって、ボクと一緒になって由香のを写したりなんかしたんだ。
 理科が苦手で、カエルの解剖がイヤで学校から逃げた事もあるんだぞ。
 健司のファンの女の子達に、言ってやりたい気持ちでいっぱいになったけれど、言ったからといってどうなるものでもないから、じっと我慢していた。

 健司の泳ぎは力強く、豪快だった。
 日に焼けた肌が水面から出るたびに、水に濡れたそれが、開かれた屋内プールの天井から降り注ぐ陽光を、キラキラと弾いてきらめく。
 うねる筋肉と、宙に踊る水の飛沫。
 まっすぐゴールを目指して健司の大きな手が水を掻き分け、太くて硬くてしなやかな太股の筋肉が水面を蹴って伸びやかに跳ねた。
「やっぱりスゴイよねぇ谷口センパイ……」
「もう大学から誘いが来てるんでしょ?」
「推薦もキマリじゃない?」
「羨ましいなぁ……オリンピックにも出たりしてぇ」
「じゃあ今から付き合ったりすると、将来は金メダリストの彼女とかー」
「やだーいいかもそれー」
 キャッキャッと笑いさざめきながら健司を応援している少女達を横目に、桂と由香はどこか肩身が狭いような気分を味わっていた。
「なんか……健司くんスゴイね……」
「ん〜〜……」
「こんなに女の子に人気があったんだ?」
「ん〜〜……」
「…………可愛い子多いね」
「ん……」
「もう、告白とかされてたりして」
「…………ちょっと、トイレ行ってくる」
 桂は小さく溜息をつくと、由香が何か言おうとするのを制止しながら席を立った。

 思ったよりもずっと、体が、カッカしていた。
 頑張る健司。
 強い健司。
 逞しい健司。
 普段からは滅多に見る事の出来ない、幼馴染みの別の顔がそこにあった。
 男だった時にも応援はした事があるし、実際に健司がすごく早い事も知っている。
 でも、女の目から見た健司は、すごく、その…………魅力的だった。
「女どもが騒ぐのも無理無いかな……」
 自分も今は女だということを棚に上げ、トイレの鏡に自分を映しながらそう一人ごちてみる。
『ボクは……健司の好みの女だったり……するのかな……』
 ブラウスのボタンを弾き飛ばしそうなくらい大きく盛り上がったおっぱいを、ゆさっと右手で持ち上げてみた。
『「おっぱい星人」ってだけなら、たぶん、好みなんだろうけど……』
 健司に好かれるためだけに、彼の好みを(勝手に)感知した、桂の『星人』としての形質が、自ら変えてしまった肉体なのだ。そうでなければイロイロ情緒的にも困るし、なんのためにこんな重たい肉のカタマリを苦労してぶら下げているのか、意味を成さなくなってしまう。

 ――じゃあなんで、この気持ちに気付いてくれないのだろう?

 そんな身勝手とも言える考えを浮かべてみるものの、答えてくれる人はどこにもいない。
 なぜなら、その“答え”は既に自分の中にあるからだ。
「……んっ……」
 “ずくんっ”と体の奥の深いところで何かが動きを見せ、それはそのまま腰を中心とした“疼き”へと変化してゆく。
『やばっ……』
 いつもの兆候だった。
 今日は、これで4度目だ。
 最初の“疼き”は朝、由香が来る前に“自家発電”で昇華させた。
 2度目は終業式の最中に訪れ、それはなんとか押さえ込む事が出来た。
 3度目は大掃除の終わり頃に突然訪れ、危うく「ぁふんっ」と甘ったるい声を上げてしまうところだった。慌てて欠伸に見せかけたけれど、ばれなかったかどうか、本当のところは自信が無い。
『……シテおいた方が、いいかもな……』
 吐息を吐き、他に誰も入っていない事を確かめて一番奥の個室に入って鍵を閉めた。
 もうすっかり手馴れた手付きでポケットからタンポンとおりものシート、それにソラ先生にもらった白金色のキューブを取り出し、浄水層の上に置いた。
 それからミニスカートに両手を突っ込んでパンツを一気に引き下ろす。
 思ったとおり、クロッチ部分に貼り付けたシートは、白っぽい粘液で“ぐちゃぐちゃ”に濡れていた。
 それをパンツからベリベリと引き剥がし、“カラカラカラ……”と二枚重ねのトイレットペーパーを引き出し、それに包(くる)んで個室隅の汚物入れに入れると、今度は膣口からちょろりと出た取り出し用のヒモを引っ張ってタンポンを引き出す。
「んぅっ」
 タンポンが膣内壁を擦る感覚だけで“ぞわぞわ”した震えが腰から這い上がってきて、思わず声が漏れた。

 桂の使っているタンポンはフィンガータイプではなく、コンパクトアプリケータータイプで、普通のアプリケータータイプと違って引き延ばし、組み立てて使うタイプのものだ。普通のアプリケーターが12センチほどもあってポケットに忍ばせるには少々嵩張るのに対して、小さくて持ち運びに便利だった。
 最初の頃は母が買い置きしておいてくれた初心者用のミニサイズタンポンを使用していたけれど、クラスの女子に薦められて変えてから、桂はずっとこれなのだ。慣れるともっとコンパクトで携帯しやすいフィンガータイプに変える子も多いけれど、指サックみたいな“フィンガーベール”を指にはめ、膣内の奥深くに押し込む……なんてのは、ちょっと慣れそうにもない気がした。
 いくら、自慰では指を膣内の奥まで挿し込む事に、いつの間にか慣れてしまった……とは言っても。

 粘液をたっぷり吸ったタンポンをナプキンと同じようにトイレットペーパーで包み、汚物入れに“ぼとっ”と落とすと、今度はねっとりとした粘液にまみれた股間を丁寧に拭う。
「んっ……んっ……んっ……」
 スーパー特売品の安いトイレットペーパーよりも遥かに滑らかなその表面で、敏感で繊細な粘膜が擦れるだけで快美感が背筋を走り、甘い声が漏れた。
『なんかもう……ホントにオナニーばっかりしてる……よな……』

 ――しかも、親友だった……たぶん向こうは今もきっとそう思っているに違いない男をオカズにして。

『アイツが知ったら本気で軽蔑されそうだ』
 “ぼうっ”とした頭で自嘲しつつも、“それしかないのだから仕方ない”という「言い訳」で罪悪感や背徳感を塗り潰してゆく。
 時間は無い。
 せいぜい5分では、普通は絶頂にイク事も出来ないけれど、今の桂ならいいところまでいけそうな気がした。
 スカートを捲り上げて端をウエストに押し込み落ちてこないようにすると、ハンカチを口に咥え、便座の上で両脚を軽く開いた。
 そして両手を使ってあそこを“責めて”ゆく。
 あられもなく、そして、ひどくみっともない格好だった。
「……んっ………………………………んっ……んっ…………」
 それでも“くちゃくちゃ”と粘液をかき混ぜ、指を滑らせ、撫でて、潜らせる。

 健司が自分の気持ちに気付いてくれないのは、自分が健司にそれを示していないからだ。
 “答え”はいつも胸の中にある。
 健司が欲しければ、自分から本気でアプローチすべきなのだ。
 なのに、本気で拒絶されるのが恐くて、それが出来すにいる。
 向こうが「親友」と思っていても、「兄貴分」と思っていても、本気で告白すれば可能性はゼロではないと思う。
 でも、何もしなければゼロはいつまで経ってもゼロなのだ。
 その勇気が無いばかりに、「完全に女になってから」などと理由をつけて先延ばしにしている。
 本気で拒絶される事を恐れている。
『……健司…………健司……健司……けんじ……健司……けんじぃ…………』
 “くちゃくちゃ”“ちゅぷちゅぷ”と水音が響き、第二関節まで中指を挿し込んで膣内壁を擦り上げる。
『んっ……うっ……んぅっ……んっ……ふっ……』
 鼻息が荒くなり、急速に絶頂へと登りつめていくのがわかった。
 “びくっ……びくっ……”と太股が緊張して震え、重たいおっぱいがブラの中で張り詰めてゆく。先端の果実が痛いくらいに硬く勃起し、ブラの裏地で擦れて“じんじん”と熱を持っていた。
 あとちょっと。
 あと、ほんの少しで“手”が届く。
 そう思った。

 その時だ。

「え〜〜〜!? じゃあ好美(このみ)、もうセンパイに告白しちゃったの?」
 不意に聞こえた声に、桂は全身を硬直させて息をひそめた。
「う、うん……」
「やるぅ……で? どうだった?」
「え? ……ど、どうって……?」
「結果だよ結果。オケ? ノン?」
 水泳部の女子部員だろうか? ひょっとしたら、応援席で桂達と一緒に応援していた生徒かもしれない。
 トイレ用の下駄を“カラコロ”と履き、個室に近付いてくる。
 桂は荒い息を懸命に抑えて、耳を欹(そばだ)てた。幸い、空調の音は声を消すには小さいけれど、吐息を消すには丁度良い。
「……そっか……うん、まあ、なんとなくそーじゃないかなぁ……って、思っては……いたんだけど……」
「……うん……」
 入り口に近い方の個室の前から、なんだかやたらと元気の良い少女と、それとは正反対におとなしそうな少女の声がした。
 二人はそれからトイレに入りそれぞれ用を足すと、申し合わせたように無言のまま個室から出て、カラコロと下駄の音をさせながら鏡の前まで歩いていった。
「でもさ、好美だってそうなるのわかってたんでしょ?」
 さっきよりも小さくなった声は少し聞き取りにくかったけれど、壁に反響しているせいか全く聞こえないわけではない。
 どうやら、「好美」というおとなしそうな少女がセンパイに告白し、それを前から知っていた元気な方の少女に報告しているらしい。
 ひどくプライベートな話なので聞いてはいけないと思いつつも、個室から出るに出られないため、イヤでも耳にしてしまう。それでも耳を塞がなかったのは、そこまで考えが及ばなかっただけに過ぎない。
「センパイのそばには、いっつもあの人達がいるもんね。川野辺センパイはともかく、桂ちゃんセンパイは反則だよ」
 急に自分の名前が出てきて、桂は思わず口に咥えたハンカチを落としてしまいそうになった。
「仕方ないよ……だって幼馴染みだっていうし……」
「それにしたって、まるで金魚のフンみたいじゃん? あ〜あ、男だって思ってた時はそれなりに“いいかな”とか思ってたけど、女だったって思ったら、なんだか騙されたような気分。急に憎たらしくなるよ」
「そういう事言っちゃ悪いよ郁(いく)ちゃん……」
「大体なに? あのチチ。いい加減キモイっつーの。ブクブクと牛みたいにふくらませてさぁ」
 桂は、思わず自分の胸元で自己主張激しいメロンおっぱいを見下ろしてしまった。
「郁ちゃんってば……」
「なによ? 好美だってそう思うでしょ? あのちっこい体にあのチチはマジキモイよ。
 だいたいさあ、自分が男子に人気あるのはあのチチがあるからだって、早いトコ気付いて欲しいよね。
 じゃなかったら元男だった女になんて誰も振り向かないっての」
「……そうかなぁ……」
「そうだよ! じゃなかったら、センパイが好美を振るわけないもん!
 桂ちゃんセンパイがあのチチでセンパイをたぶらかしてんだよ」
 ムチャクチャ言ってる。
 大体、チチくらいで本当に健司をたぶらかせるものなら、今頃こんなに悩んでなんかいないのだ。
「んっ! んんっ!」
 ちょっと頭に来たので、桂はわざと咳払いをしてやった。
「あっ……」
「やばっ! ……誰かいるっ」
「郁ちゃん」
「いこっ!」
 ドタバタと足音が遠ざかり、廊下の方から「確認くらいしといてよ好美〜!」とか「また人のせいにしてぇ!」とか、実に賑やかしい声が聞こえてくるけれど、すぐに足音も声も聞こえなくなっていった。
 やがて来る静けさの中、プールで行われている練習の喧噪がわずかに聞こえてくるだけとなり、桂はしばらくしてから個室の中で嘆息して、愛液でべとべとの指をトイレットペーパーで拭った。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 あんなこと、もうずっと前から言われていたことではないか。
 今さら動揺したり落胆したりなんか、しない。
 ウォシュレットで粘液にまみれたあそこを綺麗に洗い流すと、トイレットペーパーで軽く拭って浄水層の上のタンポンを手に取り、組み立て、アプリケーターを使って膣内に挿し入れた。
「ん……」
 愛液でとろとろに潤っている中へは、今までよりずっとスムーズに挿し入れる事が出来る。
「――ぁはあ…………」
 オルガスムスに達していないため、まだ体に疼きが色濃く残っている気がした。
 それを無視してナプキンをパンツに貼り付け、ゴミをまとめて汚物入れに落とすと、立ち上がりながらパンツを“きゅ”と引き上げる。
 まあるいお尻を包み、右手でクロッチ部分を調節すると、しゃくりあげるように下腹が脈動し、それはまるで身体が「まだ私は満足してないぞ」とでも言っているかのようだった。

         §         §         §

 健司を好きな後輩がいて、しかも告白までしていた。

 その事実は、少なからず桂にショックを与えていた。
 何より、“健司に何も聞かされていない”というのが大きい。
「ボクはちゃんと言ったのに……」
 夕焼けの特別教室で、E組の房田に告白された時の事を思い出す。
 その時だって、桂はちゃんと健司に『報告』したのだ。
 もっとも、そこには『嫉妬してくれたら……ちょっと嬉しい、かも』なんていう、邪(よこしま)な想いがちょっとだけ…………いや、少し………………結構、含まれてはいたけれど。

 応援席に戻って、隣で黄色い声を上げている女生徒の、水泳部関係者で占められているらしい集団を横目で見た。
 この中の誰かが、健司に告白したのだ。
 おとなしそうな子は、4人くらい、いた。
 この中の誰か……なのだろうか?
 そんな事を思いながら彼女達をちらちらと盗み見ていた桂は、ふと、それがわかったからと言って、その後自分はどうしたいのか、てんで何も考えていない事に気付き、小さく肩を落とした。

 人が人を好きになるのは当たり前の事で、それを止められる人間はどこにもいない。

 ましてや、彼女達は桂とは違い、生まれた時からの“正真正銘な女の子”なのだ。
 ある日突然、男から女になった“気持ち悪いニセモノ女の子”は、一人もいない。
 「男の子を好きになること」を当たり前のようにして育ち、そのこと“そのもの”に対して疑問を持つことなど無い。
 あったとしてもそれは、この年頃にありがちな「人はどこからきてどこに行くのだろう?」とか「死んだら人はどうなるのだろう?」などという、大人になるにつれて自己欺瞞により適当な理由付けで塗り潰されていくような淡い類のもので、それを強く強く心に刻んで日々を生きているような子はとても稀有なのだ。
 そして、この4人の女の子の中に、マイノリティな恋愛に身を窶(やつ)している子がいるようには見えなかった。

 ――そう。

 男の記憶を持ったまま女の心で男を好きになった桂は、たぶん普通で言われるところの「同性愛」よりも、もっと複雑で、もっとマイノリティで、そしてもっと悩みを抱えた存在なのだ。
『もし、あの女の子が言ったみたいに、ボクが近くにいなかったら、健司はその子の告白を受け入れたのかな……』
 4人の少女達は揃って胸が由香並みに“ぺったぺた”で、歳相応に可愛らしかったり綺麗だったりした。
 あの「郁ちゃん」と呼ばれていた元気な女の子は、おっぱいが大きな、セックスアピールの強烈な桂がいつも健司のそばにいるから、このおっぱいで健司を「たぶらかした」から、好美という少女の告白を受け入れなかったと言った。
 けれど、桂は――女になってひと月半の“にわか少女”は、生まれた時から女をやっている“モノホン少女”には到底敵わない。
 そう思っている。
 化粧だって仕草だって言葉遣いだって、彼女達は当然の事ながら、もう、本当に女の子女の子してるのだから。
『ボクはボクらしいままで、健司に好かれるような女になる……って、そう誓ったのに……』
 こうして純粋な女の子が実際に健司に近付くと、たちまちその誓いも崩れそうになる。

 どうあっても、敵いそうに無いと思えるのだ。

 それでもあの子達の話では、健司は交際を断ったのだ。
 求愛を拒絶したのだ。
 では、心も身体も記憶も完全に女の子である“モノホン少女”の求愛さえ断った健司が、果たして、“にわか少女”の求愛を受け入れる事なんてあるのだろうか?
 元男の、幼馴染みで立ちションだって一緒にしたことのある“気持ち悪いニセモノ少女”の求愛を、受け入れてくれる事なんてあるのだろうか?
『他に、好きな子がいるのかな……』
 彼と同じE組の房田に告白された日、屋上で健司の言った言葉が、まだ頭にこびりついている。

『けーちゃんの彼氏になる人って、どんな人かな?』

 あの時は、言外に「俺は違うけど」と言われているようで、息が止まった。
 そして、告白を決心して勇んで向かった公園で聞いた、

「忘れて欲しい」

 というカミソリのような言葉も。
 それらは、やはりどうあっても健司には桂は桂であり、8年間男友達として幼馴染みとして兄貴分として一緒に育った『圭介』でしかなく、今さら恋愛の対象などにはとても見えないという意味が込められいる。
 そう、桂は感じていた。
『けど…………負けたくない……。健司を他の女に盗られるなんて……そんなの……』
 他の誰とも知らない女を抱き締める健司や、楽しそうに笑う健司を思い浮かべるだけで、桂の胸は張り裂けそうになる。
 苦しくなる。
 それは、明確な「嫉妬」の感情だった。
 玲奈と健司が一緒にいる時よりも、もっと激しく吹き上がり、そして胸の中でねっとりとタールのように渦巻く、どす黒い感情だった。

         §         §         §

 合同練習が終わり、桂は由香と一緒にプールの前で待っていた。
 時刻は午後の5時近くになっていたけれど、太陽は西の空でオレンジ色に焼けていたし、風があまり無いから暑さはちっとも緩やかにならない。
 ミニスカートをばさばさと盛大に扇いで蒸れた股間に空気を送っている桂を、時々由香が「由香ちゃんちょっぷ」で教育的指導しているけれど、そんな由香自身でさえ、じわじわと身体を蝕む熱気に、ちょっとへばり気味に見えた。
 入り口の壁にとまっていたアブラゼミが「ジッ」と短い悲鳴のような声を漏らして不恰好に空へと舞い上がる。
「健司くん、まだかな?」
「……うん」
 建物の日陰になった、タイル地の正面玄関前階段に2人して“ちょこん”と座り込んでいる様子など、傍から見たら『お母さんが買い物を終えて出て来るのを待っている小学生の姉妹』にも見えなくはなかった。
 芸能人の「出待ち」ではないのだから当然と言えば当然だけれど、その場には桂と由香しかいない。
 応援で黄色い声を上げていた少女達は、既に各々の都合で帰ったり、プールの掃除や、明日からの練習の用意などで部室に向かっているのだ。
 今、屋内プールに残っているのは、健司達の他は合同練習に参加した他校の水泳部の面々とマネージャーくらいのものだろう。
「健司くん、残念だったね」
「――うん……」
 トーナメント形式で4人ずつ行われたタイム測定は、上位2人が次に進む事が出来る。
 通常、決勝までは4回の測定が行われるのだけれど、健司は3回戦で上位に入る事が出来なかった。
 彼は今年の夏の大会の、バタフライ種目100メートルの代表選手なのだから、当然決勝まで残ると思っていた部員達の期待には応えられなかったわけだ。
 ゴールした後、自分の順位を知った時の健司の落胆ぶりは、見ていて痛々しいほどで、桂の胸を“ぎゅっ”と締め付けた。
「でも、大会はまだ先だし……それに健司くん、病み上がりでしょ? だからきっとたぶん今日はたまたま調子が悪かったんだと思うよ」
「……うん」
 遠くに見える校門周辺では、クラブ活動を終えた生徒達が本格的に帰り始めている。明日から夏休みだという事もあり、中には遠目にも明らかに浮き足立っている生徒が混じっていた。
 大会前の、軽い前哨戦としての合同練習で上位に入れなかった健司には、夏休みは無いかもしれない。
 ふと、桂はそんな事を思った。
 京香の「夏休みイベント計画」も、健司が参加しないのなら意味は無い。
 イロイロ、考えてはいたのだ。
 3度目の生理が来て完全に女になったら、そうしたら……
「健司くんのこと?」
 不意にかけられた由香の言葉に、桂は“びくり”と肩を震わせた。
「な、なにが?」
「真剣な顔してた。それで、オンナノコの顔してた」
 由香の言うところの「オンナノコの顔」がどういうものか思い至ると、桂は思い切り嫌そうな顔をしてタイル地に浮いた砂を蹴飛ばした。
「オマエ、そうやって何でも健司に結び付けるの、やめろよな」
「違うの?」
「……そりゃ…………そうだけどさ……」
「ならいいじゃない」
 そうやって笑う由香は、小学生と間違われそうなくらいおこちゃまな顔をしているのに、まるで多恵さんみたいな「おねーさん」に見えた。
「それって理不尽だ」
「今、けーちゃんが何かに悩むとしたら、きっとたぶん健司くん以外には無いと思うもの」
「なんでだよ?」
「女のカン」
「ウソつけ」
「ウソじゃないもん」
 立ち上がってパンパンとスカートのお尻についた砂を軽く払うと、由香は大きく伸びをした。
 駅やコンビニの前などでたむろして、所構わず座りまくってる女子高生の尻は、きっと鉄で出来ている。けれど、由香のそこはぽちゃぽちゃとしてふんわりとした甘い甘いやわらかさなのだ。
 そしてそれを知っているのは、たぶん彼女の両親以外には桂だけに違いない。
「女の子初心者なヒトにはわからない事が、この世界にはいろいろあるの」
 シャワー室でのひとときを思い出しかけていた桂は、彼女の言葉にそのぷっくりとした可愛らしい唇を歪めた。

 ――『世界』と、きやがった。

 何百年も昔から地球に住んでいる『星人』の存在を知るどころか、まだ一度もこの極東の島国から出た事なんて無い17歳のちっちゃな女の子が。
「…………へぇ……」
 気の無い風に溜息のような答えを返した桂は、一瞬、自分の秘密も『星人』のことも、洗いざらい全て話してしまいたい誘惑に駆られた。
 ……でも、黙っておいた。
 こればっかりは、話さずに済むのであればずっとずうっと、秘密にしておきたかったからだ。
 由香と、そして…………アイツには。


 “その”声が聞こえた時、桂は全身が耳になったんじゃないか? とさえ思った。
「えー!? アレが? ホント? そうなの!?」
「そうそうそう! アレが例の『けーちゃん』だよ」
 プールの昇降口から声が聞こえる。
 咄嗟に桂は由香の手を引いて、入り口の横に身を潜めた。
 何が何だかわからない由香は目を白黒させていたけれど、中から聞こえた声に桂の顔を見る。
「けー……」
 何か言おうとした由香に、少女は思わず首を振る。
 その顔は、迷子の幼稚園児よりも頼りなく、荒野に1本だけ咲くタンポポよりも儚げだった。
「うっそー……チビじゃん!」
「ねー? 小学生みたいでしょ?」
「それであのチチ?」
「あのチチ」
「キモチワル〜〜〜……」
 一斉に聞こえたいくつもの否定的な声に、桂は俯いて唇を噛む。
 由香の手を握り締めた桂の手に、さらに力がこもった。
「あ、でもさ、男だったんでしょ?」
「そう聞いたけどねぇ〜……かせーはんいん……とか……」
「仮性半陰陽?」
「そう、それ」
「え〜〜〜!? じゃあさ、あのチチってニセモン?」
「しゅ……しゅじゅちゅしてでかくしたってコト? わざわざ?」
「ぷーーーー! しゅじゅちゅだって!」
「うるさいバカっ!」
「あー……違う違う。ホンモノだってさ。ここの子もそう言ってたじゃん」
「ありえないって! あの身長だよ? おっぱいだけで2キロくらいありそーじゃん」
「2キロ! でかっ!」
「F……Hカップくらい?」
「でもさぁ、ここの子に聞いたんだけど、谷口先輩にべったりなんだって、その『けーちゃん』」
「うそっ!? だって男だったんでしょ?」
「だから、仮性半陰陽だってば。元々は女だったの」
「6月までは男だったって聞いたけど……」
「体は女、心は男?」
「今はそーゆー事になんのかな?」
「それで谷口先輩にべったり? …………じゃあその子って、ホモだったの?」
「どうなんだろう? そうなんじゃない? なんかさ、怪し〜いくらい熱っぽい目で見・て・る・らしいよ〜!?」
「きゃーーーーーー!!」
「……ったく、これだからヤオイ好きは……」
「ダチだった同性に言い寄られたら、あたしだったらサブイボ出るね。キショワルっ!」
「谷口先輩カワイソ〜〜」
「おいおいおい、ど〜するよ? ある日突然私が男になってあんたを熱い目で見たら」
「逃げる」
「即答かよっ」
「けど、その男女(オトコオンナ)がべったりしてるから、センパイ狙いの子が近付けないんでしょ?」
「そー言ってたね、あの子」
「幼馴染みっつーも、少しは遠慮して欲しいよね」
「『ケンジくんは私のもの』とか思ってんじゃない?」
「それを言うなら『ケンジはボクのものだ!』でしょ? ゲロキショい」
「あーあたま悪そうだもんねぇ」
「あのチチじゃあねぇ……」
「女になった途端、おっぱいに栄養取られたんだから仕方無いっしょ」
「カウイソー」
 ゲラゲラと、とても純情な男子達が思い描いている女の子のイメージとはかけ離れた馬鹿笑いを浮かべながら、5・6人の女生徒が入り口から出てきた。
「帰りにさあ、駅前のチロル寄ってかない?」
「いいねぇ……あたしバナパフェ食いてー」
「またぁ? あんたこの間ダイエット………………ちょっと、ねぇ」
「なに? …………あ」

 時が止まる。

 およそ5秒の間、そこにいた誰も、ピクリとも動かなかった。

         §         §         §

 わかっている。

 世界は好意に満ちているわけでもないし、全ての人が慈愛に満ち他人を尊重し慈しむわけでもない。

 悪意はどこにでも転がっているし、無意識の害意はそれこそ空気のように当たり前に存在している。

 わかっている。
 わかっているのだ。

 本人がすぐ側にいるのも知らず、散々好き勝手言い放題だった少女達は、気まずそうに、けれど、決して謝る事も無く、スカートを翻しながらそそくさと校門に向かって小走りに走っていった。
 遠くから、
「やだーずっと聞いてたのかなー?」
 とか、
「うっそー超ヤバイじゃん」
 とか、
「別にいーじゃん、本当のことなんだし」
 とか、キャラキャラと“悪意のこれっぽっちも無い言葉”で笑い合っているのが耳に届く。
 由香はハッとして傍らに立つ少女を見た。
「けーちゃん……」
 薔薇色だったほっぺたの赤が、この熱いさなかにも目に見えるほど引き、噛み締めた唇が白くなっている。
 まるで、放っておくと勝手にゆるんでしまう涙腺を、必死になって引き締めているような…………そんな桂の姿が、由香の瞳には、とても痛々しく映った。

 ――こんな時、自分がもっと強かったら。

 こんなにもちっちゃくて“か弱”く可愛らしくなってしまったかつての初恋の男の子を、世の中の全ての悪意から護ってあげられるくらいに強かったら。
 そうしたら、こんな哀しい顔はさせたりなんかしないのに。
 由香はそう思いながら、俯いた桂の頭をなでなでと撫でた。
 頼り無いくらいさらさらの髪が、今はなんだかひどく哀しい。
「……なんだよ」
「……なんとなく」
「ガキ扱いすんな」
「……イヤ? じゃあ、やめるけど」
 いつか、街のデパートで交わした会話と、全く同じだ。
 あの時と一番違っているのは、桂があれからもっとずっとずうっと女の子っぽくなり、恋を自覚して可愛らしくなってきたことだと、由香は思う。そして、根本的な部分はちっとも変わっていないけれど、パンケーキの上にデコレーションされた上質の生クリームみたいに、ふあふあの「恋ゴコロ」が桂の胸の奥深くにたっぷりと層を成して降り積もり、その分、ちょっとだけ臆病になっていることだ。
 以前なら、あんな事を言われたら相手が男だろうと女だろうと構わずに食って掛かっただろうに、今は泣き出しそうな顔をしながら懸命にそれを堪えている。
 恐いのだ。
 恐ろしいのだ。
 人の好意に対して敏感になり、それと同じくらい人の悪意に対しても過敏になってしまっている。

 それでも。

 キモチワルイとかキショイとかアタマワルイとかカワイソーとか。
 本人の前では決して言えない言葉をあからさまに口にする彼女達を、由香は心の底からは責める事は出来ない。
 たとえ本心がどこにあろうと、女同士の会話には「相手に合わせるための会話」が存在し、それを忘れたら手酷い仕打ちが待っている場合も多いから、利口な人間はそれが悪口であろうとなんだろうと、一番声の大きい女子に合わせておくのが通例だからだ。
 だからといって彼女達を許す気には、ちょっとなれないけれど。
「由香……」
「なあに?」
「ボク…………きも…………」
 言いかけて口をつぐむ少女が、たまらなくいとおしかった。
『ボクってキモチワルイのか?』
 そう、聞きたいのだろう。
 けれど、聞いてしまえばそれは、自分でそのことを認めてしまったような気がするのだろう。

 ――あるいは、そう思ってしまう事で「負ける」のが嫌なのかもしれない。

 こんなにも可愛らしくなってしまった「少年」が、本来そうあるべきだった「少女」であることに、ただただ思い悩んでしまっている姿というのは、由香の小さな胸の中に灯る保護欲という光をどうしようもなく浮き立たせてしまって、そしてそれは「キモチワルイ」などという感情とは到底程遠いものであった。
「けーちゃんが男の子でも女の子でも、私は好きだよ?」
 優しく、慈しむように、癒すように、カタチのいい桂の頭をなでなでと撫でる。
「けーちゃんのこと、ちゃんと知ってたら、きっとたぶん、誰も悪くなんて言わないと思う。
 けーちゃん、優しいもん。
 強いもん。
 可愛いもん。
 他の誰がけーちゃんを好きじゃなくても、私と健司くんだけはけーちゃんが好きだよ?
 これは、ぜったい。
 だから、自分で自分を嫌いになんて、ならないでね?」
 由香の言葉に、桂は“ふ……”と肩の力を抜いて大きく息を吐いた。
「……いいなオマエは……シンプルで」
「シンプル・イズ・ベストだよ? そーでしょ? けーちゃん」
「ボクは…………」
 桂はそう言うと少しの間、タイル地の床を列を成して這っていたアリの行列を目で追っていたけれど、すぐに“ばっ”と顔を上げ、正面から真っ直ぐ由香の目を見た。
「……ボクはボクだ。それでいいんだよな」
「うん。それでいいんだよ」
「人がどう思おうと、健司にさえ嫌われなければ、それでいい。
 ボクはそれでいい」
「私は?」
「由香は……ぜったいにボクを嫌いにならないんだろう?」
「うん」
 真っ赤になって拗ねたように言う桂が面白くて、由香は嬉しそうに“くすくす”と笑った。
「……その……あ、ありがと」
「何が?」
「なんか……その……由香には助けられてばっかりだ」
 困ったような、トイレを我慢しているような、まるで怒ってるような……なんとも言えない顔でそっぽを向いた桂を、由香は何かとても眩しいものを見ているかのように目を細めて見つめていた。
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