■感想など■

2009年08月20日

第17章「切り裂かれたココロ」

■■【2】■■
 程なくして玄関から男子生徒が現れた時、桂と由香は数分前と変わらぬ姿で、正面玄関前のタイル地の階段に2人して座り込んでいた。
 太陽は山影に隠れ、学校は校舎の一部にオレンジの光が当たっている他は、紫がかった蒼の中に沈んでいる。あと数十分もすれば夜の闇が訪れるだろう。
 それでも蒸し暑さはちっとも変わらず、桂と由香は、すっかり汗ばんでしまった肌に張りつくブラウスの鬱陶しさに、かなり辟易しかけていた。
「あ……」
 どやどやとした雑多な声の中から幼馴染みの声を聞き取ると、桂は御主人様を駅前で待ち続けた某忠犬のように慌てて立ち上がった。遅れて、ハンカチで鼻の頭を拭っていた由香も立ち上がり、パタパタとお尻についた砂を払う。
「…………ったく健司のヤツ……遅いよ……」
 本人はしかめつらしい顔をしているつもりなのかもしれないけれど、口元がむにむにと緩み、嬉しさが滲み出てしまっている。
 なんだかまるで“帰りが遅い御主人様に拗ねて怒ってみせているのだけれど、尻尾かパタパタと振れてしまっているから実は嬉しくて仕方ないのがまるわかりな子猫”でも見ているようだ。
「……何がおかしいんだ?」
「別にぃ?」
 思わずくすくすと笑ってしまい、桂に赤い顔で“じろり”と睨まれて、由香は“ふいっ”と顔を背けた。
 それでも堪えきれないのか、肩が小刻みに震えている。
「一生そーやってろ。ばかっ」
 その、『ばか』の言葉の一言の、なんと可愛らしいことか。
「け、けーちゃん、今の調子で健司くんに言ってみなよ。可愛いから」
 涙の滲んだ目元を拭っている由香の頭を、有無を言わせず“ぽかり”と殴り付けると、靴を履き終えた健司へ、憮然とした顔で手を上げた。
 桂の姿を認めた健司の顔が、「うわぁ」といった顔になる。
 約束の時間より30分以上遅れてしまったのは、別に健司のせいではないのだけれど、今の桂にそんな理由が通用するとは思えなかった。
「お待たせ、けーちゃん、由香ちゃん」
「遅い」
「ごめん。ミーティングが思ったより長引いちゃって…………結構待った?」
「この汗びっちょりの制服見てもわかんねーか?」
 唇を突き出して拗ねたように上目遣いで睨み付けてくる少女の丸首ブラウスは、なるほど、汗がしっとりと染みて半分透け、空色のブラがしっかりと見えていた。
「おおー! 桂ちゃん、スケスケじゃーん!」
「スケブラ?! マジ?」
 水泳部員の一人が健司の横から覗き込んで声を上げると、その声を聞きつけてたちまち桂の周囲に人だかりが出来る。
 集まってきたのは主に合同練習の他校の男子ばかりだったけれど、玄関から出てきた同じ学校の生徒も、気の無いフリをしながらしっかりと見ているから、全く興味が無いというわけでもないようだった。

 彼らは普段、女子水泳部員の競泳用水着姿を飽きるほど見慣れているのだから、たかだかブラが透けたくらいで色めき立つのはおかしい……と、女子などは言うのだけれど、まだ男のメンタリティを少なからず持ち合わせている桂には“そう簡単なもんじゃない”と男子達に共感めいたものを感じなくもないのだ。
 まず第一にブラウスから透けて見えているのは、馴染みの水泳部員ではない女子の下着だということ。
 第二に、水着と下着は、同じ一枚の布キレとは言っても、それの持つ“意味”が全然違うということ。
 女子にとっては大した違いなど無いのだけれど、男子には水着は“見せるもの”で、下着は“隠すもの”……というイメージが強いのだ。
 そして第三に、桂は同年代の女子には滅多にいないくらい、バストが豊かだということ。
 目を見張るほど豊かに実ったおっぱいが、目の前で汗に濡れたブラウスをぱっつんぱっつんに張り詰めて自己主張している……という図は、慎ましやかな胸によほど執着していない限り、たとえ相手が誰であろうと、つい視線を向けずにはいられないものなのだ。
 だからといって、胸をじろじろと見られることを許す気など、当然これっぽっちも無いのだけれど。
「君が噂の『けーちゃん』かぁ」
「谷口の幼馴染みってホント?」
「彼氏いんの? いない? じゃあ立候補していい?」
「ちょっと前まで男としてガッコ通ってたってホント?」
「チチでけー! 何カップ? G? H? まさか、I!?」
「ばくにゅー!? オレにも見せろっ」
「ちっちぇーなー! コンパクトサイズでバストだけLLサイズかよ!」
「お持ち帰りOK?」
 桂は慌てて両手で胸元を隠し、男達の視線からおっぱいを“防御”するものの、彼等はそんなことお構いなしに、大挙して怒涛のイキオイで迫ってきた。
 ちょっと……いや、かなり恐い光景だ。
 たちまち“ぞわっ”と、背筋を寒気が駆け登った。
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いてよ! けーちゃんが困ってるじゃないか!」
 健司が必死に皆を抑えようとするものの、日々湧き起こるリビドーを持て余している野獣に、理性的な言葉が通じるとは思えなかった。
 そして、予想外の展開と迫り来る男達の汗の匂い、それに欲望剥き出しの視線に当てられて、桂が何も言えず“車道に飛び出した子猫”みたいに“びっくりおめめ”で固まっていると、突然、人垣を割って一人の胴色の髪をした男子生徒が飛び出してきた。
「逢いたかったよーーーー桂っ!!」
「ふにゃっ!!?」

 ――避ける事も逃げる事も出来なかった。

 胸を抱いたその格好のまま、呼吸が止まるほど“ぎゅうっ”とその男子生徒に抱き締められ、しかも首筋に顔を埋められて、桂は全身に鳥肌が“ぶわっ!”と立ったのを感じた。
「見ててくれたかっ!? 見ててくれたよな!? 俺、健司に勝ったんだぜーー!!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
 熱い吐息が白い首筋を情熱的に撫で、意外に厚い胸板を体全体に押し付けられ、しかもその上、思いっきり濃い汗の匂いに包まれて、桂は声にならない悲鳴を上げながら全身を震わせていた。

 それは、

 自称、健司のライバル、
 「海部 亮(かいべ りょう)」との、
 決して、全然、ちっとも、まったく、望んでなんかいない、再会の抱擁だった。

         §         §         §

 その後、亮は、真っ赤になった桂に涙目で股間を蹴り上げられ、由香の後に隠れて罵詈雑言を投げ付ける彼女の前で3分ほど地面に蹲(うずくま)ったまま、冬眠に入った亀のようにピクリとも動かなかった。

 ――当然だと、健司は思う。

 表面はいつものように薄く笑みを浮かべながら、珍しく彼は心の底から怒っていた。
 そう。
 あまりそうは見えないかもしれいけれど、この時の彼は、本気で怒っていたのである。
 よりによってけーちゃんに抱きつくなんてのは、死刑執行判決が下りてもいいくらいの悪行であり、許されるのであれば左手に持った大きなボストンバッグで本当に動かなくなるまで叩きのめしてやってもいいくらいだ。
 それに、どうして海部がけーちゃんを知ってる?
 どうして「桂ちゃん」って馴れ馴れしく呼ぶんだ?
 健司の頭を、様々な「?」がグルグルとまわっている。
「まあ、そう怒るな」
 ふと横を見ると、亮といつもツルんでいる寺沢隆明(たかあき)が、スナック菓子をバリバリと食べながら立っていた。
 種目は違うけれど、彼は健司も一目置く水泳選手の一人だった。彼のバック(背泳)でのバサロスタートは、県下でも注目度が高いのだ。
「何が?」
 健司は頬を染めて涙目で喚いている桂と、股間を押さえてうめきながら蹲(うずくま)っている亮に顔を向けたまま、視線だけで隆明を見た。彼は身長が由香より少し大きい程度なので、健司から見ると、どうしても見下ろす形になってしまうのは如何ともしがたかった。
「お前な、今ものすごい目付きしとったぞ?」
「俺が?」
「おう。オレでもビビるくらいのな。お前がそういう目付きするとこ、初めて見た」
 そう言って彼は健司の顔を見る事も無く、コンソメ味のスナック菓子を右手で掴んで無造作にかぶりつくと、破片が飛び散るのも構わずバリバリと噛み砕く。
 一歩的にライバル視してくる亮と違い、隆明とは、健司もそれなりに交流があった。
 こんな会話を忌憚(きたん)無く交わせるほどには。
「取られたくなかったら、ちゃんと掴まえとけ」
「……何言ってんの?」
「わかってるだろ?」
「わからないよ」
「わかってるハズだぞ?」
「…………そんなワケ……」
 視線を桂の、見慣れた、けれど最近少し真っ直ぐ見られなくなった可愛らしい顔に戻す。

 ――『ない』とは、言えなかった。

 そんな自分を、健司は強く、自覚する。
 そして、愕然とする。
 なぜなら、彼はその時亮に感じた、この胸の中をどろどろと塗り込めるどす黒い感情が、いわゆる「嫉妬」である事に、気付いてしまったからだ。
 自分の幼馴染みに、いきなり馴れ馴れしくしたから……ではない。
 自分を差し置いて桂に対し、過剰なスキンシップをしたからだ。
 もしけーちゃんに「そういうこと」をする男がいるとしたら、それは他の男であってはならない。
 いるとしたら、それは――――
『……そうか…………俺…………やっぱりけーちゃんを…………』
 その心の動きは彼に、桂に対する本当の気持ちを、望むと望まざるとに関わらず白日の元に晒し、どうしようもなく意識させてしまうこととなった――のだった。


 復活した亮は猫なで声を出しながら桂に近付くものの、対して彼女は、まさしく大型犬に近付かれた子猫のように由香の背中に隠れ、噛み付きそうな目で睨みながらカバンで自分の体を防御していた。
「桂ちゃーん……もうなんにもしないからさぁ〜……」
 気の荒い野良猫をなだめようとしているかのように中腰で「交渉」している亮は、男の大事な部分を蹴り上げられたのに、それでもちっとも懲りていないらしい。
「うるさいっ! 来んなっ! 寄るなっ! 顔見せんなっ!」
 いきなり男に抱き付かれた女の子としては、ひどくまっとうな反応だけれど、涙目になったまま顔を真っ赤にしている時点で「完全に嫌っているわけではなく、何らかの反応を感じている」事は明白であり、それがまた周囲の男達の保護欲とか征服欲とか嗜虐心とか、その他モロモロの妄想を呼び込んでいる事に、他ならぬ桂自身が気付いていなかった。
 本当に嫌いな男には、女は嫌悪より、むしろ『無関心』になる。
 たった一瞥をくれるだけで後は無視を決め込み、まるで初めからそこにいなかったかのように振る舞える。
 女とはそういう生物でもあるのだ。
 さすが普段、男達の前で競泳用水着を着て身体を晒す事に、もう何の躊躇もしない女性生徒達に囲まれているだけあって、彼ら男子水泳部員は本能的に「それ」を知っているのだ。
 過剰な反応は、桂が亮に対して「男」を感じて意識しているという、確かな証拠であることに。
 対して亮は、その辺の事はまるで感じていないかのように、実に能天気な顔を浮かべていた。
 記録で健司に勝った事が、よほど嬉しいらしい。
「でさ、今からみんなでカラオケにでも行こうかって話になってんだけど、桂ちゃんも来ない?」
「カラオケ?」
 子猫なら“ぴくんっ”と耳が動いているところだ。
 桂の目が大きく開かれ、興味のあるもの、好きなものに対してそうなるのと同じように、瞳孔が少し開く。

 何を隠そう、桂はカラオケが嫌いではない。
 好きと言ってもいいかもしれない。
 いや、もっと正直に言えば、かなり好きだ。
 さすがに、店に入り浸るほどではないし、そんなに頻繁に行くわけでもなかったけれど、それでも、男だった時は時々駅前西口のゲーセンと一緒の建物にあるカラオケボックスへ、健司やクラスメイトなどと時々行ったりもしていたのである。
 それが、女になってからは、クラスの女子に何度か誘われたりもしたけれど、実はまだ一度も行っていなかった。
 女の声では太い低音が出ないし、それに選曲がちょっとマニアックだったりして女子にはきっと理解してもらえないと思っていたからだ。その上、桂は女子が好きそうな流行の歌なんて歌うつもりなんて無いし、ヴォイスチェンジャーで男声にしてまで歌おうとは思わなかった。

「そう。ちょっと遠いけど、隣駅の駅前ビルに、新しい店が出来たんだ。今、ちょーど開店サービス期間で、食べ飲み放題歌い放題一人3時間1500円!」
「……食べ……はともかく、飲みはまずいだろ、飲みは」
 天岩戸(あまのいわと)からウズメによって誘い出された天照大神(あまてらすおおみかみ)のように、困った顔の由香の影から、桂はそろそろと身を乗り出した。
「やだなぁ……もちろんジュースとかロン茶とかコークハイとか、ノンアルコールに決まってるっしょ」
 亮が軽く言うと、後の水泳部員も「うんうんうん」と頷く。
「ちょっと待て。コークハイはアルコールだろうが」
「あんなのアルコールに入んないよ」
 青少年保護条例を綺麗サッパリぶち切ってるくせに、亮は実に爽やかな微笑みを浮かべてみせる。
「でも――」
 『大会前に飲酒行為がバレたら、大会出場停止とかになったりしないのか?』
 そう聞こうとした桂の言葉を遮って、亮は「ぷぷっ」とさもおかしそうに笑みこぼした。
「え? なに? 桂ちゃんひょっとしてその歳で飲めないの? お子ちゃま?」
「なっ――……そんなワケねーだろ?!」
 ふんっと鼻息も荒く胸を張るところが、まさしく「お子ちゃま」なのだけれど、当然彼女はその事実に気付かない。
「まあ、飲めないなら飲めないでいいよ」
「飲めるっての」
「それより俺の申し込み、忘れてないでしょ?」
「な……なんだよ……」
「あれ? 忘れた?」

 ――覚えている。

 この男はデパートで再会した時、桂の彼氏に立候補したのだ。
「俺、桂ちゃんに結婚を申し込んだろ?」
「ばっ! 違うだろ!? 付き合ってくれって言っただけだろ!?」
 言ってしまってから、桂は“はっ”と口を押さえて亮の後に立つ健司を見た。
「なんだ。覚えてるんじゃん」
「そ…………ば…………だって……」
 ちらちらと幼馴染みの顔を見ながら、桂の言葉が小さくなってゆく。
 健司は、薄く微笑んだままだ。
 もうずっと、微笑んだままだ。
『……嫉妬とか…………して…………くんないよな……』
 思わず心の中で溜息が出た。
『このままコイツと話してたら、して…………くんないかな……』
 あるはずのない事を願ってしまうのは、それが切実だからだ。
 他の男と楽しそうに(?)話していても何の変化も無ければ、もうそれは完全に脈は無いと思っていい。
 やはり健司には、自分は女だなんてどうしても思えないのだ……と。

 桂は、締め付けられそうなほどの胸の痛みの中、そう……思っていた。

         §         §         §

 結局その後、桂と健司と由香と亮を含めた水泳部総勢12名は、ぞろぞろと揃って校門を出て、駅までの道を歩いていた。
 亮のツレの孝明は……というと、「用事がある」とかで、さっさと先に家へと帰ってしまった。亮の話によると、7時からNHKで放映される時代劇を、毎週欠かさず見ているらしい。同じ時間に4つ上の姉がビデオを使用しているため、リアルタイムで見るしか無いのだという。
 そして桂達以外の8人は、申し合わせたかのように、桂達の学校の水泳部員もいなかった。つまり、桂と健司と由香以外は、全員、亮と同じ学校の生徒という事だ。

 駅までの短い道程、そして電車の中でも、亮は桂にまるで張り付くようにして積極的に話しかけ、彼女を楽しませようとしていた。
 どうやら、彼の言うところの「彼氏に立候補」は、その場のノリで出たウソでは無かったらしい。
 それに対して桂は……といえば、もちろん、亮の「彼女」になる気なんて天地がひっくり返ってもOKするつもりは無かったし、そもそも桂にとって亮との会話を続ける当初の目的は、「健司が何か言ってくれることを期待して」仕方なくしていた部分が大きかった。
 けれど、彼が意外に博識(主に雑学としての知識だったけれど)で、テレビや漫画、雑誌、映画、そして小説や時事ネタにまで精通している事を知ると、彼女自身が気付かないうちに、どんどん彼の話に引き込まれていった。
 彼がよほど女子相手の会話に慣れているのか、桂にとっては信じられない事に、亮との会話そのものが、楽しくて仕方なかったのだ。
 思えば、亮は他の男と違って桂の体を欲望の目でじろじろと見るような事もせず、“彼氏に立候補した”とは言っても、最初の抱擁以外は、特に強引に何かをしようとするわけでも無かった。
 つまり、『性欲が服を着て歩いているとさえ評される』この年頃にしては、珍しいくらいに「紳士的」なのだ。
 桂も、ここまで気がね無く男と話したのは、健司を除いてはひどく久しぶりだったから、いつしか彼女も亮に微笑んだり、話のイキオイで背中を叩いたり、ついにはふざけて首を締めたりなんて事までしてしまうようになっていた。
 健司以外の男子に対して抱いていた警戒心が、薄皮を剥くように徐々に剥がれ落ちていったのである。

 もちろん、亮の男としての体臭が、桂の体をほんの少しでも疼かせなかったか? と問われれば、それを否定することは出来ない。
 けれど、何もかもが凡百な男達とは違い、「意外に紳士的な態度」と「驚くほど巧みな会話」によって“健司以外では初めて”と言って良いくらい打ち解け、気を許し、かなりの急接近をしてしまうようになっていたのである。
 最初の出会いは、警戒と敵意だけだった。
 2度目の出会いは、警戒に「軽くて面白いけどバカ」という認識が加わった。
 そして3度目の今日、警戒は解け、認識は新たに好意的なものへと変化してゆく。
 最初の出会いが最悪であればあるほど、その後に見せる好印象は、ことさらに強調されるものだ。
 そのせいか、桂自身も気付かない「隙」が生まれていた事も、認めないわけにはいかなかった。
 ふざけて亮の頭を叩いたり、背中から手元を覗き込んだり……と、普段なら男相手にはしないように気をつけていたことを、つい意識しないままにしてしまっていたのである。
 そして、そんな風に相手の体に接触すれば、どうしてもその匂い、体温を感じてしまうものだ。
 いつしか桂の体は熱っぽくなり、目元がわずかに潤んで、自然と「オンナ」の顔と仕草を現すようになっていた。
 彼女自身が自覚の無いままに。

 そしてそれを、彼女の幼馴染みは、決して見逃してはいなかった。
「けーちゃん」
「わっ!」
 ぐいっ! と肩を引かれ、桂は強引に後へとひっぱられ、思わす声を上げた。
 駅の自動改札を抜けた時、何かに躓いてよろけ、前を歩く亮の背中にぶつかってしまったのだ。
 この間、健司と一緒に見た『グラディエーター』という映画の主演男優について、歩きながら亮と話していて、つい夢中になってしまっていたようだ。
 足元のちょっとした段差に躓いた。
 そんな、よろけた拍子にそのヴォリュームたっぷりな乳房を亮の背中に押し付け、なかば抱き付くような形になった桂を、健司はいつもの彼らしくない乱暴さで強く引き寄せたのだった。
「いたっ! 痛いって健司っ!!」
 “ぎゅう”と肩を掴まれ、彼女は顔を顰めて、思わず彼の右手を振り払おうとする。
 けれど、健司の手はガッチリと肩を掴んだまま、離そうとはしなかった。
「どうしたの?」
 別の改札から出てきた由香が、何事か? と心配そうな顔でやってくる。
 その声に健司は“はっ”として、ようやく手を離し、そして何か信じられないものでも見るかのような目付きで自分の右手を見た。
「いや、健司がさ……いつつ……」
「……けーちゃんがデレデレしてるからだよ」
「デレデレ?」
「はぁ? 何言ってんのオマエ」
 とても彼らしくない物言いに、桂は一瞬、頭が真っ白になった。
『ボクが……なんだって?』
 見上げても、彼は不機嫌そうにそっぽ向いて目を合わせようともしない。
「けーちゃん……デレデレしてたの?」
「何が? ……って、誰に?」
「知らない……健司くん、誰に?」
「けーちゃんに聞いてよ」
 呆然とした桂と、“何だかワケわかんないけど揉めるなら徹底的に揉めろ”と言わんばかりにニヤニヤとした表情を浮かべた亮を残し、健司はずんずんと先を歩いてゆく。
「ちょ……待てよ!」
 小走りに走って、桂は健司のシャツの裾を掴んだ。
「オマエ、何怒ってんだよ?」
「怒ってる? 俺が? なんで?」
 声は、完全に不機嫌になっている。
 けれど顔だけは薄い笑みを浮かべているから、その全然健司らしくない落差が、ちょっと恐かった。
「…………ひょっとして……ボクが亮と話してるのが面白くないのか?」
「何言ってるの?」
「……いや、その…………だからさ……し…………嫉妬……してたり……?」
 一瞬、健司の顔から全ての表情が消えた。

 ――図星だったのか?

 嬉しさがこみ上げそうになった桂の口元が、続いて彼の唇から出た言葉に凍る。
「自惚れてるね。なに? そうして欲しいの?」
「――なっ…………」
 上から見下ろすようにして言われた言葉に、桂の体温が一気に上がった。
 血管の中を流れる血液が沸騰し、全身から湯気が立ち上ってもおかしくないとさえ思えるほどの、急激な高ぶりだった。
「…………へ……へぇ……言うじゃねーか。健司のくせに」
「……俺だって、いつまでもけーちゃんの子分や弟分じゃないって事だよ」
「オマエ……」
「凄んでも、そんな格好じゃちっとも恐くない」
 桂のミニスカート姿に視線を走らせ、あろうことか健司は“ふんっ”と鼻を鳴らした。
 今まで一度だって聞いた事の無い、侮蔑と軽蔑の音だった。
「俺が怒ってるとしたらね、それはきっとけーちゃんがカッコワルイからだよ」
 血の気が引き、喉がひりつくように乾いた桂は、“こくり”と唾を飲み込んで健司の言葉に顔を上げた。
「ボクが? カッコワルイ?」
「少なくとも俺の知ってるけーちゃんは、もっと強くて、シャンとしてて、自分を持ってるカッコイイとこがあった。
 でも今のけーちゃんはカッコワルイよ。
 ものすごくカッコワルイ。
 悪いけど、今のけーちゃんは好きになれないね」
「へ…………へぇー……」

 “ずがんっ”と、きた。

 健司は嫉妬からではなく、桂が男だった昔を知る、一人の男として、友人として、桂を批判しているのだ。
 なじっているのだ。
 端から見たらオンナみたいに…………いや、オンナそのものとして、亮に対して「デレデレ」としているその姿が、「カッコワルイ」のだと、「好きになるに値しない」のだと、そう言っているのだ。
 そして、
「昔のけーちゃんのままの方が、何倍も良かった」
 道端に痰を吐き捨てるように言われた言葉が、桂の胸を深く抉(えぐ)った。

 決定的だ。

 もう、取り返しがつかない。

 言いたい。

 誰のためにこんなになったと思ってるんだ?
 誰のせいで女になったと思ってやがるんだ?

 言うぞ?

 ちくしょう。

 後悔するなよ?

『ボクだってお前なんか大嫌いだ! もう2度とそのツラ見せんなっ!』

 けれど、口をついて出たのは少し湿った、震えるような声だった。
「し……仕方無いだろ!? ……今は……女なんだからっ!」
「けーちゃん……」
 由香が気遣うように“そっ”と右手で背中に触れ、左手で左腕を擦ってくれたけれど、ぶるぶると震える体はちっともおさまりはしなかった。
 この体の震えは、悲しみからくるものなのか、それとも怒りからくるものなのか。
 それすらも、今の桂にはわからなかったのだ。
「俺は……それをもっと自覚してって言ってんの」
 無情に健司はそれだけを告げると、様子を伺って少し離れた所で静観していた水泳部員達の方へ、すたすたと歩いていってしまった。
「別にっ…………別に……お前のために女になったんじゃないやい……」
「……けーちゃん……」
 夜の帳が下り始めた夏の繁華街は、桂の血を吐くようなつぶやきを雑踏の中へと飲み込み、やがてその哀しいつぶやきは、うねるようにさざめく人々のざわめきの中へとまぎれ、消えていった。
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