■感想など■

2009年08月22日

第17章「切り裂かれたココロ」

■■【4】■■
 どこからどう見ても高校生にしか見えない男達が、見ようによっては中学生にしか見えないような背格好の(胸だけは特盛だったけれど)女の子を連れ込めば、大抵の店は難色を示すものだけれど、亮が皆を連れて行ったカラオケボックスは、その辺の話が既に通っているのか、もしくは店員が彼の知り合いなのか、特に咎められる事も無く全員入る事が出来た。
 店内は、入店した7時半には既にもうほぼ満室で、桂達は5人と6人に別れ、店内の、随分と奥まった部屋に通された。
 通路を何度も曲がり、同じような部屋と同じような壁ばかり見ていると、まるで立体迷路にでも入り込んだ気分になる。
 これでは万が一にも火災が起きた際などに、避難がスムーズに行えるとは思えないけれど、こういう繁華街のビル店舗などは消防法をクリアしなければ開店出来ないはずだから、何らかの対策は立ててあるのだろう。
 そうでなければ、適当に誤魔化した非合法的店舗……という事になる。

 そんな怪しいカラオケボックスではあったけれど、料理はそこそこ美味しかったようだ。
 桂はあまり食べられず、大根サラダなどの野菜類を齧っていたけれど、もっぱら部員達が貪るようにして食べていたメニューは、ツナサラダや焼き鳥やパスタやピザやサンドウィッチや…………とにかく、カロリーが高く量が多いものが中心だった。
 これでは栄養バランスも何もあったものではない。

 桂は、唄っている間、サラダを摘み、チョコを少し食べるだけで、後は飲み物ばかり飲んでいた。
 健司とは別々の部屋に入った桂だったけれど、そのうち、亮に挑発されるようにして飲んだ「モスコミュール」とかいうカクテルが美味しくて、唄っては飲み、飲んでは唄って……を繰り返すうち、いつの間にか隣に健司が座っていることも、特に不思議には思わなくなっていた。
 いつしかメンバーは、自由に隣の部屋と行き来しているらしい。
「けーちゃん……飲みすぎだよ」
「うっさい! オマエこそ飲んでないだろ。飲め。歌え。なんだ? ボクの酒が歌えないのか」
 目が据わっている上に、言ってる事が支離滅裂だ。
「……酒は歌えないと思う」
「屁理屈をこねるな。オマエはいっつもそうだ。だから亮に負けたんだぞ?」
「そうだー! 俺は健司に勝ったんだー!」
 今までモニターを見ていた亮が急に振り返って、桂にべたりとしがみついた。
 右手には透明なサワー系の飲み物を持ち、左手にはマイクを持っている。飲みながら歌いながら笑いながら、ゆさゆさと桂の身体を揺らした。
「亮、うるさい。抱きつくな。あっち行ってろ」
「そんなさみしー事言うなよーなーけーちゃーんー」
「うるさい。ばか。オマエくさい。あっちいけ」
「おーい誰だ? ジッタリンジンなんて入れたのー?」
「あ、ボク」
「けーちゃん歌えるの?」
「歌えるか歌えないかは歌ってからでないとわからない。それが歌というものだ。歌は心だ。心が歌だ」
「ししょー! カックイイー!」
「待て待て。みなまで言うな。みんな、ボクについてくるかー!?」
「おー! いえー!」
 ポップコーンとポテトチップスが宙を舞い、鈴とタンバリンとマラカスが鳴らされ、酒の入った猛獣どもが顔を赤くして咆哮していた。

 ……めちゃくちゃだ。

 ここには未成年者飲酒禁止法も風俗営業法も存在せず、それを罰する法の番人もいない。
 完全な無法地帯だった。
 もうちょっと早くこっちの部屋に来ればよかったと、異様に盛り上がったボックスの中で、健司は一人、ポッキーを齧りながら思った。健司は他の者と違って、大会に向けての練習メニューと、『病院』から言い渡された一日のカロリー摂取量に従い、さっきのモスでも「きんぴらライスバーガー」と「烏龍茶」だけに止(とど)めておいた。ここに来てからも、烏龍茶とトマトジュース以外はほとんど口にしていない。
『けーちゃん……』
 モニター前の桂は、自分が下着の上に綿シャツしか着ていない事をすっかり失念している。
 空調が効いてても暑いのか、前を第二ボタンまで外し、マイクを片手におっぱいを“ゆっさゆっさ”とハデに揺らしながら“タテノリ”の曲ばかり歌っている。それは、今となってはどこか懐かしいとまで思える「爆風スランプ」や「ブルーハーツ」、果てはマニアック過ぎて周囲がついてこられないアーティストまで多岐に渡っていた。
 おっぱいが揺れ、ミニスカートから白い太股や下着までが見えると、それだけで他の男達が歓声を上げ、拍手をする。それを自分の歌に対してのものだと思い気分を良くした桂が、さらに調子に乗って汗びっしょりになりながら歌いまくる……という悪循環。
 綿シャツが汗で透け、セミロングの髪が汗ばんだ額やほっぺたに張り付いて、モニター前で激しく歌う少女はちょっと色っぽく、そしてその性的な刺激に健司はハラハラしどうしだった。

 救いなのは、そんなに乱れていながら、彼女がちっとも「女の子っぽくない」……という事だろうか。

 女の子が女の子であるためには、意識無意識に関わらず「男の視線を意識した仕草」が必要なのだ。それは「媚び」と言ってもいい種類のもので、それがあるからこそ男は女に惹かれ、心を奪われる。
 今の桂は「隙」だらけではあったものの、男に対する「媚び」などは微塵も無く、健司にとってはかつて男だった頃の桂とほとんど変わってはいなかった。
 だからこそ、その桂の無防備な体が発する性的なサインに他の男子が反応してしまうのではないか? と、健司はハラハラしてしまっているのだけれど。
 つまり、桂には、自分だけの桂でいて欲しいのだ。
 他の男子が、桂の可愛らしさとか、えっちっぽいところに気づいたりするのが、イヤなのだ。
 オトコゴコロとは、かように複雑なものなのである。
『それにしてもけーちゃん…………今日はどうしたんだろう……』
 桂が席に戻れば、隣に座る亮に肩を抱かれたりして、そのたびに彼女は彼を殴り飛ばしたり蹴り倒したりしている。
 でも、ものすごく楽しそうだった。
 何もかも忘れたように……いや、忘れてしまいたいとでも言うかのように。
 健司はそれが、自分の放った言葉が原因だとは気付いていない。
 ……いや、思う事が出来なかった。
 自分の言葉なんかで桂がココロ乱してしまう……などと慢心出来るほど、彼は自分を彼女にとって重要な人間だと思っていないのである。


 そうこうするうちに、あっという間に3時間が過ぎ、時刻は夜の10時半になった。
 亮は時間を知らせる内線電話に対し、それが至極当然のように延長を言い渡し、けれど水泳部員はそれからそれぞれの理由で1人減り……2人減り……、11時になる頃には2つの部屋は一つになって、11人だった人数は6人まで減った。
 この頃になると桂はすっかり酔っ払い、睡魔が一個連隊ばかり立て続けに突撃してきて、何度か夜更かしをした小学生のように“かくんっ”と首を振り、涎を垂らして眠りこけそうになってしまっていた。
 けれど、そのたびに健司が「そろそろ帰ろう?」とか言うものだから、桂は「意地でもコイツの言う通りにしてやるもんか」なんてことを思って、新しい曲をデタラメに入力してデタラメに歌い、眠気を吹き飛ばしてきたのだった。

 そして、何度目かのトイレの途中で、桂がふと気付くと、自分がいつの間にか男子用のトイレに入っている事に気付いた。
『…………あれ?』
 そういえば、少し前からずっと男子用を使ってた気がする。
 まるで、女になったばかりの頃のようだ。あの頃は、気を抜くと極当たり前のように男子トイレに入ってしまっていた。
『べつにいいよな……大きい方ですれば』
 中には誰もいなかった。
 桂は今さら女子トイレに入り直すのはやめにして、個室に入る前に洗面所の鏡の前に立ち、自分の姿を堂々と映してみる。

 ――ひどい顔だ。

 髪はぐちゃぐちゃ。綿シャツはくしゃくしゃで汗に濡れ、空色のブラが透けまくっている。自覚の無いまま、そのシャツはいつの間にか第三ボタンまで外していたようで、ブラのカップがすっかり見えてしまっていた。その上、ミニスカートにはひどい皺が寄り、学校指定の紺の靴下は、だらしなくも右足が半分脱げかけている。
 ハッキリ言って、まるで、レイプの被害にあって未遂のまま交番まで逃げてきたような姿だった。
 こんな姿を見せられたら、たとえ健司が自分の事を女として好きになってくれていたとしても、幻滅すること必然である。
 百年の恋も覚めるというものだ。
「…………ぶす……」
 桂はそう呟くと、鏡の中の少女に向かって「い〜〜〜っ!」と顔を顰めてみせた。

 以前、多恵さんと彼女の友達の「タカちゃん(鷹森美咲/たかもりみさき))」や「マリさん(神林茉莉江/かんばやしまりえ)」と食事をした時、ワインを飲んでへべれけになり、散々彼女達に迷惑をかけた桂は、もう絶対に酒は飲まない……と決めたのではなかったか?
 なのに今日、こんなになるまで飲んでしまった。
 意外だったのは、あの時はワイン2杯でもう前後不覚になってしまったのに、今日はモスコミュールとかブルーハワイとかソルティドッグとか、カクテルばかり4杯も5杯も飲んでいるのに、意識を失う気配が全然無い事だろうか。
 これも『星人』の因子が発現した事による、形質変化がもたらしたものだとすれば、とことん便利な体だ。
 その証拠に、あれだけ飲んだアルコールも既に抜け始めている。
 一度飲酒した事で、アルコールが臓器にとって有毒な物質であると判定し、急速に分解するための生体機構(プラント)が体内に創られたのかもしれない。
 桂はいそいそと服を直し、蛇口を捻って冷たい水で顔を洗うと、よれよれのハンカチをポケットから取り出してごしごしと拭いた。
 アルコールはだいぶ抜けたものの、顔を洗っても、頭そのものは少しもシャッキリとしない。
 ムチャクチャな方法で甲斐なく返り討ちにされ続けていた睡魔も、今度はとうとう選りすぐりの精鋭部隊を送り込んできたらしい。黙ってじっと立っていたら、立ちながらでも眠ってしまえそうだった。

 桂は飽きたように鏡から視線を外すと、ふらふらしながら個室に入る。扉を閉め、鍵をかけ、パンツを一気に膝まで下げて便座に座り、イキオイ良く放尿すると、水分をたっぷり摂っているからか、水のように薄い尿が迸り、便器に当たって激しい水音を立てた。
「ふぅ〜〜〜…………」
 はしたないかもしれないけれど、用を足しながらオヤジくさく息を吐くのが、なんだかたまらなく気持ち良かった。
 学校の女子トイレでこんな事したら、たちまち物笑いの種にされてしまうから、いつもはちゃんと気をつけているのだけれど、男子トイレでは、さすがに誰も咎める者などいない。
「んっ…………ふぅんっ…………」
 ところが、ウォシュレットで汚れを洗い流した途端、“ぴくんっ”と刺激がお尻から背中にかけて走り抜け、桂は思わず甘い声を漏らし、無意識に尻を揺すっていた。
 慌てて口を抑え、誰にも聞かれなかったかどうか、じっと耳を澄ましてしまう。
 “ずくんずくん”と断続的に波のように這い登る刺激を感じ、両脚の間のパンツを見れば、内側に貼り付けたままのナプキンが、白っぽい粘液をこびり付かせてぐちゃぐちゃに濡れている。
『……げっ……』
 これは、高分子吸収体の内包されたナプキンでも吸収しきれないほどの蜜液が、あそこから染み出してしまった……という事なのだろうか?
 やはり、大勢の男達の汗の匂いや体臭の中に何時間も身を起き、そして隣では健司が“じっ”と心配そうに見守っている……という状況は、桂自身が思うより遥かに彼女の身体を高ぶらせていたようだ。
『あ〜あ…………』

 煩わしい身体だ、と思う。

 いっそ、男に戻れるものなら、戻ってしまった方がいいのかもしれない。
 健司への想いが、完全に断たれてしまうのであるなら。
 考えたくないから考えまいとしていた想いが再び胸に去来し、桂はちょっとだけ鼻を啜った。
 でも、泣くものか、と思う。

 自分にだって、意地というものがあるのだ。

 そんな風に思いながら、剥がしたナプキンをトイレットペーパーで包んで丸めた時のことだった。
 不意に聞き覚えのある声がして、桂は思わず身を強張らせた。
「お? 誰が入ってんじゃん」
「だれだよカラオケ屋でクソしてんのは」
 何がそんなに可笑しいのか、ゲラゲラと笑っている。
 典型的な、アルコール摂取による軽度の躁(そう)状態だった。
 アルコールのだいぶ抜けた桂から見ると、彼等の話している様子はまるきり馬鹿そのもののように思える。ついさっきまで自分も同じ状態だったと思うと、さすがに桂は少し気恥ずかしかった。

 彼等の会話から、入ってきたのは、11時を過ぎても残っている水泳部員のうちの2人だった。
 2人は個室には構わずに、小便器に直行して、すぐに数分前の桂のようにイキオイ良く放尿し始めた。
「けど、なんかヤバくね? この店、酒に薬でも入ってんじゃねーかな?」
「だよなぁ……この店来てからコイツが勃(た)ちっぱなしだぜ」
「やべぇくらいにギンギンな」
 2人はそれから「勃起してると小便しにくい」だの「イッパツ抜いてくか」だの、正真正銘のヨッパライオヤジみたいな会話を交わしていた。立ち昇るアンモニア臭と男達の汗の匂いやアルコール臭に、桂は思わず軽い吐き気さえ覚えてしまう。
 小便器と個室の扉の間は1メートルも無い。
 そのため、ぼそぼそとした会話の全てが桂の耳に入ってくるのだ。
『早く出てけよー……』
 いくらなんでも彼等の前に出て行く事は出来そうになかったから、桂はトイレットペーパーで包んで丸めたナプキンを左手に持ちながら、じっと息を潜めて様子を見ることにしたのだった。
 ところが、すぐに眠気と吐き気で意識が朦朧としてくる。しかも中途半端に生暖かい室温が、それに拍車をかけていた。
 そのうちに、小便器に注がれる水音が途切れると、
「それにしても山中って、なんかいいカラダしてるよな」
「“けーちゃん”な。ホント、それにいい匂いだ」
 話が突然、桂のことに移っていた。
 桂は便器に座ったまま、“ギクリ”として身を震わせる。
「乳でけーしな」
「ぶるんぶるん揺れてたな」
「今日、あれオカズにしよ」
「マジかよ?」
「言ったらヤらせてくんねーかな?」
「アホ、聞いてなかったのか? あいつは元男だぞ?」
「え? ナニ!? オカマかよ!?」
「仮性……なんとかっつーんだと。遺伝的には生まれた時から女なんだけど、ずっと男の体で、最近、やっと女になったらしい」
「なんだ。女ならいいや。あのでっけーオッパイしゃぶりてぇ!」
「気持ち悪いこと言うなよな。元男だと思うと吐き気がするぜ」
「ゲイバーのホステスよりいーだろ?」
「変わんねーよ。仮性なんとかっつーのは、モノによっちゃチンポまであるらしいぞ? あいつもアレでチンポ持ちだったかもしんねーし」
「でもヤリてーー! マンコあるんだろ? 穴ありゃいいや。俺は」
「アホ」
 薄いドア一枚隔てて、男が自分を抱きたいとキモチワルイ声を上げているというのは、桂にとって鳥肌が立つほど気持ち悪い状況だった。
 たとえ一億円積まれても、こんな男達に抱かれるなんてのはゴメンだ。
『うえ〜〜…………コイツら、後でコロス……』
 桂がムカムカしながら心の中で毒づいていると、もう一人、トイレに入って来る足音が聞こえた。
「よお谷口、オマエ、もう決めたのか?」
「え?」

 ――健司だった。

 その途端、頭にしつこくまつわりついていた眠気も吐き気も、一気に吹き飛んだ。
 ゲンキンなものだ。
『あ……』
 しかも、桂の剥き出しの股間が、膣が、子宮が、健司のたった一言に反応して『きゅん』と蠢いたのだ。
 急激に収縮した尿道から、出きったはずの尿がほんの少し“ちゅっ”と飛び出し便器を叩いたくらいだ。
 健司の声に情けないほど過敏に反応し、彼のすぐ後の個室の中でドア一枚を挟んでパンツを下ろし、便座に座り、あそこを晒しているという状況が、とてつもない羞恥と、それと同じくらいの高ぶりを彼女の中に呼び起こしていた。
 睡魔の精鋭部隊など、あっという間に全滅してしまっている。
 両手で口を押さえていないと、声を上げてしまいそうだった。
「何が?」
 健司が小便器の前に立ち、ファスナーを下げる。すぐに尿が便器を叩く音が響き、健司が溜息のような吐息を吐いた。
『ああっ……』
 “ドキンドキン”と心臓が早鐘を打ち、ほっぺたが熱く火照る。顔も耳たぶも首筋も胸元も赤く染めて、桂は目を瞑り両手で自分の身体を抱いた。
 小さい頃は並んで立ちションだってした事があるし、何度も男子トイレで一緒にもなった。健司の放尿姿などうんざりするくらい見ていたのに、今の桂にとって、その想像は泣きたくなるくらいの羞恥を巻き起こした。
『こんなトコでおしっこなんてするなっ!!』

 ムチャ言ってる。

 自分が今、男子便所にいるという事を、少女は一瞬だけ、これ以上無いくらい綺麗サッパリ忘れていた。
「もう決めたのかって聞いてんの」
「ナニを?」
「アレだよアレ」
「さっさと済ましといた方がいいぜ? そーすりゃ、後は楽しむだけだしな」

 ――何の話だろう?

 桂は息を潜め、便器から腰を浮かさんばかりに前傾して、ドアに顔を寄せた。
「まだだよ? なんかその気になれなくて……」
「何が不満なんだよ。こっちは代わって欲しいくらいなのによ」
「さっさと決めちまえよ。んでイッてこい」
「言い方が下品だよ」
「うっせ。大体なぁ、おまえだけなんだぞ? まだイッてねーの」
 用を足した2人の足音が移動し、水音が響く。洗面所の前で手を洗っているのだろう。
 ペーパータオルで手を拭く音までが、いやにクリアに桂の耳へ届く。
『何だよ? 何の話をしてるんだ?』
 桂の頭の中で、彼等の会話の中の言葉がぐるぐると回る。
 単語の羅列が意味を成さず、彼らが何を話しているのか、全くわからなかった。

『アレ』

『さっさと済ます』

『後は楽しむだけ』

『その気になれない』

『代わって欲しい』

『イッてこい』

『言い方が下品』

『イッてないのはおまえだけ』

 胸が苦しいほどドキドキしていた。
 喉がひりついて、思わず唾を飲み込み、その音がドアの向こうに聞こえやしないかと恐れた。
 なにか、聞いてはいけない気がした。
 これ以上聞いてしまうと、もう取り返しがつかない気がした。
 聞いちゃいけない、気がした。
 けれど。
「こういうのはな、相手に好かれてるうちが花なんだよ」
 男の一人が、そう口にした途端、桂の頭の中でパズルのピースがカチリとはまった気がした。

 唐突に、理解した。
 不意に、
 すとん……と、
 お腹の底に、“落ちて”きた。

 さっきまで、彼等は“誰の”話をしていた?
 “誰”と“何を”したいと言っていた?

『そうか……そうなんだ……――』

 ――男2人と、健司は、セックスの事を言っているのだと、そう……桂は思った。

 そしてその相手は……。

「みんなそう言うけど、俺にも選ぶ権利があると思わない?」
「ばか。羨ましいって言ってるヤツだっているんだぜ?」
「なんたって、でかい」
「ああ、でけーよなぁ……羨ましいぜ」
 笑い混じりの声音が、ぞっとするくらい気持ち悪い。
 桂が健司に友人以上の想いを抱いているという事が、彼等にはもうすっかりバレているのだろうか?
 2人は健司に、さっさと桂とセックスしろと、そうけしかけているのだろうか?
 でも健司は、桂が相手では“その気にはなれないでいる”という事なのだろうか?

 息を止め、唇を震わせ、個室の中で桂はじっと健司と2人の会話に耳を澄ましている。

「あんまりでかくてもさぁ…………気持ち悪いよ」

 ――キモチワルイ?

「か〜〜〜っ!! ばかっ! このばかっ! それがいーんじゃねーか!」
「何ゼータク言ってんだコイツ。向こうに求められてってのは、すげぇラッキーなんだぞ?」
「でもさ……」
「なんだよ」
「でも、相手が何考えてるかわかんないのって、やっぱり気持ち悪いよ」

 ――ナニカンガエテルカワカラナイカラ、キモチワルイ?

「何が気持ち悪いもんかよ。イッてもいねーのに」
「でも……」
「じゃあ言えばいいじゃねーか。気持ち悪いって。何考えてるかわからないって」
「そ……それはさすがに言えないよ……」

 ――オサナナジミダカラ?

 ――ソレトモ、ソレガケンジノ『ヤサシサ』?

「今日も見に来てたもんな」
「そうそう。お前の泳ぎをじっと見てた」
「答えは早いトコ出した方がいいぜ?」
「その気が無いなら無いって言わねーと、あの手のヤツはしつこいからな」
 健司は2人の言葉には答えず、洗面所で手を洗うとペーパータオルで拭いた。
 ガサガサと水に濡れ、彼に屑入れへと投げ入れられるペータータオルに、桂は自分を重ねた。
 両手で覆った口元から、小さく、細く、かすかに、呻き声が漏れた。

 3人が出てゆく。

 何かを話している。

 でも、もう何を話しているのかわからない。

 しばらくしてからようやく呪縛から開放されたように、桂は震える手でウォシュレットのスイッチを入れ、股間を拭き、湿ったパンツを引き上げた。
 景色が全て、歪んで見えた。
 軋む個室のドアを開け、のろのろと洗面所で手を洗い、ホルダーからペーパータオルを引き出す。
 鏡を見ると、ぼろぼろと涙をこぼした背の低い、ショートカットの、おっぱいばっかりやたらとでかい、中学生みたいな女の子が、泣き笑いのまま立っていた。

 その少女が、唇を噛む。

 今さら、どうしてショックなんて受けているんだろう。
 健司が自分を受け入れてくれるはずなんか無いって、ずっと思ってたじゃないか。
 由香に慰められ、励まされ、いつの間にか自分もその気になってただけじゃないか。
 自分が健司を好きでい続ければ、自分らしくあるままに受け入れてくれるよう努力すれば、きっとこの想いは受け止めてもらえるなんて――そんな、都合の良い話。
「……ふっ……うっ……」
 いつから、なんだろう?
 もう、ずっと前からなのかな?
 女になった事を明かした、あの日からなのかな?
 カッコワルイと言われ、嫌いとまで言われ、その上、今度は桂のいないところでハッキリと「キモチワルイ」って言われた。

 ずっと、思われていたのだ。

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、ずっと、思われていたのだ。

 彼のあの牧歌的な、見てるこっちがほっとするような笑みは、本当の自分の心を隠す仮面だったのだ。
 そういえば、小学校の頃、いぢめられていた健司は、いつも笑っていた。
 笑う事で本当の心を隠していた。
 その仮面みたいな笑顔を、桂は強引に剥がした。
 それから健司は、あの仮面みたいな笑顔をしていない。

 ――いや、ちがう。

 していないと桂が思い込んでいただけだ。
 健司は、

『女になったボクをキモチワルイって、嫌いだって、ずっと、思ってたんだ』

 鏡の中の女の子が、くしゃくしゃに顔を歪め、ぼろぼろと大粒の涙を流して、それでも笑っていた。
 歪んだ唇が、嫌な形をしていた。
 由香が「可愛い」って言ってくれた顔が、猿みたいになってた。
「ひっ……ひっ………………ひっ……ひっ…………」
 しゃくりあげ、鼻を啜り、堪えても堪えても涙が溢れた。

 ――もう、どうでもいい。

 ――なんだっていい。

 男子トイレを出る時、サラリーマン風の男性と擦れ違って、桂はその男性が“ぎょっ”とした顔をした事にも気付かなかった。
 ふらふらと廊下を歩き、その足は、自然と健司達のいる部屋から遠ざかるように動いた。
 彼女は迷路のような通路の中で、心の迷路に入り込んでゆく。

 いつかの由香の言葉が脳裏に浮かんだ。

『トモダチだから? 親友だから? だから好きになっちゃいけないの?
 そんなの、誰が決めたの?
 好きになっちゃヘン?
 おかしい?
 好きなのに押さえ込んで好きじゃないなんて思おうとしてる方が、どうかしてるよ。
 そっちの方が、ヘンだよ』

 そうだ。

 ずっと、素直になれない自分がいた。
 心のどこかで、引っかかってた。
 素直になることを、恐がってた。

 ……ちがう。

 素直になる事で何かが壊れてしまう…………それを恐れている自分がいたんだ。
 健司は自分を、親友としか思っていない。
 それどころか、“気持ち悪い”って思ってたんだ……
 たとえ姿形が変わったとしても、男だった頃の『圭介』を覚えている限り、ずっと今の『桂』にその影を重ねてしまう。
 そんな人間を、女として好きになってくれるわけがない。
 あの楡崎というヤツが言った通りだった。
 心のどこかで、ずっとそう思ったから、なんだかんだと理由をつけて諦めようとしている自分がいただけなんだ。

 その認識を、改めて強く強く心に刻み込まれてしまった桂は、まるで死刑台に向かう罪人のように、重たい脚を引き摺るようにして廊下を歩いた。
 毛足の短い、安っぽい擦り切れた絨毯を踏んでいる感覚が無かった。
 それどころか、自分が本当に歩いている感覚さえ希薄だった。
 自分の全てが汚れている気がした。
 男にも、女にもなれない自分が、人間としても、生物としてもひどく中途半端で、できそこないのオモチャみたいに思えた。
「どうした? 桂ちゃん」
 気がつくと、隣に亮がいた。
 遊園地でちっちゃな迷子の女の子を見つけた、迷子センターの「おにいさん」の顔をしていた。
「あんまり遅いから心配しちゃったぜー」
 馴れ馴れしく肩を抱いてきても、もう殴る気も蹴倒す気も起きない。
 それをどう誤解したか、亮は桂の顔を覗き込むと、
「……ちょっと他の部屋で休んでこうか?」
 と、ものすごく嬉しそうに、言った。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/31107454

この記事へのトラックバック

★足跡代わりにポチッとしてってくださいな★