■感想など■

2009年08月24日

第17章「切り裂かれたココロ」

■■【6】■■
 少しだけしっとりと湿り気を含んだ空気は、濡れたアスファルトと共に、ほんの少し前まで小雨が降っていた事を示している。
 健司は、まだ小刻みに震え、しゃくりあげている桂を店から連れ出し、なるべく人通りの少ない道を選んで、彼女の歩調に会わせてゆっくりと……けれど出来るだけ急いで歩いた。
 顔を拭いて鼻をかんで、くしゃくしゃのぐちゃぐちゃになった彼のハンカチは、まだ桂の手に握られたままだ。
 彼が見下ろせばすぐそこに、濡れたように艶やかな黒髪がある。
 闇にまぎれるように綿シャツの前を両手で固く合わせ、背中を丸めながら身を隠すようにして身体を寄せてくる桂のぬくもりが、今の彼の胸にはひどく……痛かった。
 「レイプ」……という血も涙も無い冷酷非道な言葉が、腹の下に熱を生む。
 今度、亮と顔を合わせた時、まともでいられるか自信が無かった。
 桂のシャツはボタンが2つ弾け飛んで、一つは取れかけていた。
 亮が無理矢理脱がそうとしたか、外している途中で面倒になり、乱暴にしたかのどちらかなのは明白だった。
 可愛らしいブラは、背中のホックが完全に捻じ曲がり縫製が取れて、全く役に立たなかった。今は、たっぷりと重たい乳房を支える事も出来ず、乳肉に被せるようにして「置いて」いるだけの状態だ。
 それでも外の空気は熱くも冷たくも無くて、傷付けられた少女が寒さに凍える心配が無いのは、健司にはありがたかった。
「早く、帰ろうけーちゃん。大丈夫。大丈夫だから」
 自分でも、何が大丈夫なのかわからないまま、その言葉だけを口にしている矛盾を感じている。
 そうして店員に見咎められる事無く上手に店を出て、道行く人に怪しまれないよう、普通の、どこにでもいるカップルのように歩いていると、桂が不意に街灯の下で立ち止まった。
 終電はもう出てしまった後だろうから、駅前のロータリーでタクシーを拾おう。
 そんな事を考えていた健司は、慌てて立ち止まり、少女の顔を覗き込む。
「けーちゃん……?」
 “ずずっ”と鼻を啜る音を立て、奥にたっぷりと鼻水が溜まっているようなくぐもった声を漏らしながら、桂は再びぽろぽろと涙をこぼしていた。
 そのくしゃくしゃの顔を見て、健司は胸を突かれ、息を呑んだ。
 健司の記憶の中で、桂が……『圭介』が泣いた事なんて数えるほども無い。
 けれど、女の子になってからは何度もあるし、ついさっきだってまるで子供のように泣きじゃくっていたのを見ている。
 それでも、少女がぽろぽろと涙をこぼす姿は、いつも、いつでも、たとえ何度目にしようとも、そのたびに健司の胸を“ぎゅうう”と強く強く締め付けた。
「こっ…………」
 健司のTシャツを握り締め、泣きながら健司にしがみついていた桂は、声を出しかけ、“ひゃくっ”としゃくりあげて、それでも懸命に言葉を紡ごうとする。
 健司は、桂の肩に手を置いて、散々迷ったあげく、赤ん坊をあやすように“ぽん……ぽん……”と背中を叩いた。
『……けーちゃん……』
 触れた綿シャツ越しの少女の体が、火照ったように熱かった。
 風邪でも引いてしまったのだろうか? と一瞬思ったものの、病気で発熱している……というより、いまだ抑え切れない感情の高ぶりが、そのまま肉体の発熱に繋がっているようだ。
 不意に、雨上がりのかすかに湿った空気の中、少女の汗ばんだ額や、首筋や、胸元から、えもいわれぬ香りが立ち昇り、健司の心を掻き乱した。

 ――それは、不思議な感覚だった。

 カラオケボックスの部屋でも、強く感じていた感覚だった。
 その香りを胸一杯に吸い込むと、全身に力が湧いてくる。
 この世界のどんな人間が少女を傷つけようとしても、どんな集団や組織や、果ては国が少女を傷付けようとしても、自分ならば全てのモノから少女を護る事が出来るような、そんな気にさせてくれる香りだった。

 ――自分が、この少女を護るために、この少女を愛するためだけにこの世界に産まれて来たような、そんな気になるのだ。

 そしてその想いは、例えようも無いほどの幸福感と高揚感を彼に与えていた。
 そんな健司の胸の中で、少女は、肩を震わせながらその色を失った可憐な唇を開く。
「――こ……恐かった……ど、どうなるかっ……とっ……お……おもっ……おもた……たっ……」
 震えて口がうまく動かないようだ。
 息を吸い、つっかえつっかえ、それでも懸命に何かを言おうとしている少女が、健司には哀しい。
「……ボっ……ボク……あ、あいつ…………お……男……男だ……だって……けど、おんっ……おんなっ……女だ……だか……らっ……ちっ……ちかっ……らっじゃっ……か……かな……かな……な、かなわなっ……かったっ……」
「……もういい。もういいよけーちゃん。帰ろう? ね?」
「ボっ……ボクっ……だっ……もっ……もうっ……だっ……」
「けーちゃん…………」
 何を言ってるのか、全くわからなかった。
 しゃくりあげ、鼻水を啜り、それでも必死に伝えようとする桂が、健司にはひどく小さく、か弱く、そして愛しい生き物に見える。
 そう思ってから、改めて感じる、自分の左手が置かれた桂の右肩の、あまりの小ささ、細さ……ほんの少し力を入れたらそれだけで折れてしまいそうな華奢な骨格に、ハッとして胸を詰まらせた。
 彼は、昔の桂――『圭介』を重ねるあまり、今の桂の本質に気付かなかった――いや、あえて自分で目を反らしていたその事実に思い至ったのだ。
 今、腕の中にいるのは、幼馴染みで兄貴分で親友でヒーローだった少年ではなく、元気を無くし、か弱く、可愛らしい、一人の少女なのだ。
 頭も、肩も、手も足も小さく、首や腕や足首は細くて、片手で“ぽきり”と折れそうなくらいだ。
 こんな少女が身も世も無く泣きじゃくっているという図は、たとえ少女に好意的なものを抱いていない赤の他人だったとしても、生物として本能的に持っている庇護欲を強烈に刺激してしまっていたに違いない。
「ちょっと、休もう?」
 駅前の目抜き通りを1本裏に入った道だったけれど、そこにも深夜までやっている喫茶店くらいはある。
 その店の近くまで少女を励ましながら歩き、そうして、いざ入ろうとした時、桂は急に立ち止まり、俯いたままいやいやと首を振った。
「けーちゃん? ……」
 心配そうな健司を、桂は濡れた瞳で見上げ、自分の体を抱いたまま再び首を振る。
 そうして後退りながら、スカートの裾を“きゅっ”と右手で掴んで引っ張った。
 そこに至ってようやく健司は、桂が「破れた服でパンツさえ履いていないからイヤだ」と言っているのだと、気付いた。

 自分は、なんて馬鹿なんだろう。

 健司の心を、再び処理し切れないほどの罪悪感が湧き起こる。
 桂はもう「男」ではなく、人の目に晒される事に激しい羞恥を感じる、一人の「女」なのだ。
 それでも、こうしているよりは……と、健司は気持ちを奮い立たせてドアに手をかけた。
「……俺、タオルか何か、借りられないか聞いてくるよ。けーちゃんはここに…………」
 ふと目を離した隙に、少女は自分の身体を抱くようにしながら、脱兎の如く駆け出していた。
「……え?」
 どこにそんな力が残っていたのか。
 走り出した桂は、前を見ていないかのような勢いで駆けて行く。
 しかも、駅とは反対方向だった。
 翻ったミニスカートから見えた白いお尻が、夜の闇の中で鮮やかに彼の目を焼いた時、彼はハッとして目を瞬かせた。
「?! ……ちょっ……けーちゃん!?」
 街路樹が立ち並ぶ散策路を越え、繁華街を抜ける頃、健司は暗い公園の入り口に駆け込んで行く桂を見つけ、声を上げる。
 いつの間にか、雨が降ってきていた。
 真っ黒な空から、7月も末だというのに冷たい針のような銀雨が降り注ぐ。
「けーちゃん……あんな格好で……」
 水銀灯がポツン……ポツン……と寂しげに立ち並ぶ公園の中を見やりながら、健司は額から伝い落ちる雨を拭った。

         §         §         §

 その公園は、繁華街近くにある大手金融関係の社員達の憩いの場として、昼間はそれなりに人の集まる場所だった。

 けれど、夜にはオフィス関係から人が全くいなくなるため、0時を過ぎた今頃は当然のように人口空洞地帯となっている。
 もっとも、すぐ近くに警察署があることから、危険な人間やチンピラの類は滅多に見かけないものの、逆に安全を期待したカップルの、ちょっとした溜まり場くらいにはなっていた。
 今は小雨が降りしきり、その中でそれでも行為に及ぼうとする恋人達は、さすがにいそうにも無かったけれど。

 健司が見つけた時、桂は、公園の中にある小さな池の側のベンチでひとり、雨に濡れながら座っていた。
 そんな少女を、雨を避けるために彼はなかば引きずるようにして、近くの庵へと連れてゆく。
 「庵」とは言っても木に模した鉄骨と竹に模した樹脂を組んだ、簡単な小屋のようなものだ。5メートル四方ほどの広さで、2方の向かい合わせの壁には四角く切り取ったような大きな窓があり、それと直角の2つの壁際には、備え付けの簡素な椅子がある。
 2人はその椅子に並んで座り、じっと外の雨音に耳を傾けていた。
「雨、やまないね」
 少し離れたところにある水銀灯の明かりだけがうっすらと差し込む薄闇の中で、水面や木々の葉を叩く雨音と、公園の外を走る車の音と、桂の鼻を啜る音だけが聞こえている。
 夏だというのに、雨に濡れたせいか少し肌寒い。
 健司は、どこかどんよりとした瞳でじっと動かない桂をそのままにする事に少し不安を覚えながらも、意を決して、100メートルほど離れたところにある自動販売機コーナーで、急いで温かい飲み物を買ってきた。さすがに7月ともなると、5つあった自動販売機の中にも、ホット飲料は缶のコーンスープとミネストローネ……という、需要があるんだか無いんだか良く分からないものしか無かった。
 それでも、冷たい飲み物よりずっといいだろう。
 そう思いながらコーンスープを2つ買い庵に戻ると、桂は健司が出て行った時と全く同じ格好で床を見ていた。
「はい」
 差し出しても受け取ろうとしない桂の手に、強引に缶をのせ、正面の椅子に座ろうとしながらも思い直して、彼女の隣に座った。
 プルトップを開け、半分程を時間をかけてゆっくりと飲む。
 その間、健司も桂も、一言も話さなかった。
 庵から見える公園の池は、雨のカーテンの向こうで、そこだけが地面に真っ暗に開いた「穴」のように見える。
 太平洋戦争の頃、この場所は都会から戦火を逃れてやってくる人達の疎開先になっていて、それよりずっと以前の戦国時代には主街道沿いの小さな宿場町だったというから、血生臭い騒動や動乱とは比較的無縁の土地だった……と聞いた事がある。それでもこんな夜に池を見ていると、幽霊とか妖怪とか魑魅魍魎とか“人ならざるもの”が這い出してきても、ちっとも不思議ではないような気さえしてくる。
「……夜の公園って、ちょっと、恐いね」
 健司はそれとなく桂の様子を伺ったけれど、桂は缶を両手で持ったまま、じっとコンクリート打ちっぱなしの床を見ていた。
 濡れて乱れてよじれて絡まったセミロングの黒髪から、ポタリポタリと雨粒が落ちる。
 ボタンが取れ、閉じる事の出来ないシャツの前から、少女の呼吸と共にやわらかく揺れる大きなおっぱいが、薄闇の中で白く浮かび上がっていた。
 目のやり場に困り、肩に何かかけてやろうにも、健司も今はTシャツしか身に着けていないし、ジャージなどが入ったサブバッグはコインロッカーの中だ。
 ミニスカートからすらりと伸びた白く眩しい太股には、夜目にも薄く線が走っているのが見える。引っ掛かれたか、自分でどこかに引っ掛けたか、身体のそこかしこにある蚯蚓腫れの一つだろう。
 健司はスープを一口飲み、そのどこか粉っぽい味を舌の上で転がして、そこで初めて亮との殴り合いの最中、口の中を切ってしまっていた事に気付いた。
「……あったかい……」
 健司が唇の端を指でなぞっていると、肩を落とし俯きながら、手の中のスープ缶の熱さに両手で転がすようにしていた桂が、ようやく搾り出すような声を紡いだ。
「……ごめん……な……」
 それは小さく、呟くような、そして苦しそうな声だった。
 それでも健司は“ふっ”と身体が軽くなった気がした。
 “ずんっ”と背中から重く圧迫していたものが、さあっと吹き払われたような感じさえ、する。
「大丈夫?」
「……ばか。オマエこそ、大丈夫なのか?」
 顔を上げ、上目遣いにこちらを見る桂のほっぺたを、涙なのか雨なのかわからない粒が滑り落ちる。
 懸命に笑おうとしている姿が、痛々しかった。
「……さんきゅ。助かった」
「……あ、うん……」
「…………大丈夫だよ。……最後まで、ヤラれてない」
 口篭もったのをどうとったのか、桂は苦しそうな、怒っているような、どこか複雑な表情で肩を竦めてみせた。
「いや、別に、その、聞いてないよ」
「……そうか?」
「うん」
「そうか」
「……うん」
 どちらともなく曖昧に笑い、そして再び地面に視線を向ける。
 庵の屋根に触れた木立が“ざわっ”と鳴った。
 雨がまばらになり、そのかわり、風が少し出てきたようだ。
『寒い……』
 濡れた体の体温を奪うそよ風に、桂が“ぶるっ”と身を震わせる。
 実際のところ、桂が自分の置かれた状況を正確に把握する事が出来たのは、この時が初めてだったと言っても良かった。
 亮に犯される直前、獰猛な声を上げながら風のように部屋に入ってきた影を目にしてから、どこか夢の中をさ迷っていたような気がしている。
 爆発的に怒りに塗り潰された手で何かを引っ掴み、亮を打ち据え、痛め付けた事は覚えていた。
 でも、覚えているだけだ。
 記憶はあるけれど、実感がまるで無い。
 確かに、手は痛いし脚もまだじんじんとしている。なのに、それを自分がしたのだという現実感だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
「痛くない?」
「な、何が?」
 不意にかけられた健司の言葉に、桂はびくりと肩を震わせる。
 今になって、健司に危うい所を助けられたのだ、という認識が胸に“ことん”と落ちてくる。
「脚とか、引っ掻いたみたいだし……」
「へ……ヘーキだよこんなの。オマエこそ、亮にメチャメチャやられてなかった?」
「別に……やられてなんかないよ」
 “ほにゃっ”と微笑む顔が、あまりにもいつもの健司で…………だから桂は、胸がいっぱいになって息苦しささえ、感じてしまった。
「あ……そこ、切れてる」
「え?」
「そこ。口んとこ」
「どこ?」
「ここ」
 カラオケボックスから出てから、ずっと見る事の無かった笑みが、桂の口元に浮かんだ。
 彼女は“くすっ”と笑みを漏らし、右手を伸ばして健司の唇の横を

「わっ……」

 その瞬間、触れかけた桂の指を避けるように、健司が顔を引いた。
 御丁寧にも、火のついた枝を突然眼前に突き出されたかのように上半身を仰け反らせて。

 ――その瞬間、桂は“びくっ”と指を引っ込め、顔を凍りつかせる。

   『気持ち悪い』

 脳裏に蘇るその言葉が、桂の心の最後に残った強い部分を一気に壊していく。

 粉々に砕き、吹き散らす。

 微笑みを浮かべていたままの桂の凍った表情がゆるゆると緩み、涙がこぼれ、“くしゃっ”とつぶれて嗚咽が漏れた。
 その漏れた、引き絞るような、糸を引くようなうめきさえも彼に「気持ち悪い」と思われるかもしれないと気付き、手で口を覆い、顔を背けた。
 それでも声が漏れる。
 体がぶるぶると震え、声が、漏れる。
「けーちゃん?」
「ごっ…………ごめんっ…………」
 顔を隠し、涙を隠し、鼻水や涎で汚れた顔を隠し、桂はただ幼馴染みの視線から逃げる。
 自分の全てが気持ち悪いと思われていた事に気付かず、幼馴染みのそばで幸せな夢を見ていた自分の記憶が桂を苦しめる。
 自分の愚かさを暴き、自分の無知を暴き、自分の心の甘ったるい幻想を暴き、粉々に砕いて吹き散らす。

 触れてはいけないものに触れようとした。

 触れようとしてしまった。

 自分には、そんな『資格』なんか、無いのに。

 健司が助けてくれたのは、仲の良かった幼馴染みだから。
 たとえ気持ち悪いって思ってても、優しい健司は昔馴染みを見捨てられなかっただけ。

 甘えるな。

 甘えるな。

 甘えるな。

 男にも女にもなれない、出来損ないの、オマエなんかが。

「けーちゃん……」
「いっいいんだ。もう、いいんだ」
「なにが……?」
 泣き笑いのまま、腰掛けたイスの端にまで逃げるように自分から距離を取った桂に、健司はうろたえたように言った。
 喉がからからに渇き、彼は何度も唾を飲み込む。
 桂がこちらに身体を向けた時、開いた綿シャツから役目を果たさないブラが見え、真っ白ですべすべした肌の重たげな乳房が顔を覗かせた。
 それだけでもたまらないほど胸が苦しくなったのに、彼女が身を寄せ、唇に手を伸ばした途端、そのブラがずれて、紅い乳首が“ぷるっ”と揺れながら目に飛び込んできたのだ。
 それに驚いて、どうしようもなくなって、つい桂を避ける形になってしまった。
 けれど、それを彼女に言う事は出来なかった。
 こんな時だというのに、さっきからずっと“ゆさっ”“たゆっ”“ふるっ”と重たそうに揺れるおっぱいや、下に何も履いていないミニスカートの奥の暗がりが気になって仕方ないなんて。
 でも、どうして桂がまた泣き出してしまったのか、健司には全く想像も出来なかった。
 もしかして、亮にレイプされかけた事を改めて思い出して、それでまた恐怖と痛みに苦しみが蘇ってしまったのだろうか?
「――そのままで、聞いてくれるか?」
 逡巡したまま、どうすればいいのかわからず、所在無げに両手を膝の上で閉じたり開いたりしていた健司は、不意にかけられた言葉に安堵した。
 けれど、少女の声はひどく“硬い”。
 健司から視線を外し、セミロングの髪で顔を隠すように俯いてさえ、いた。
「……なにを?」
「今から話すこと、黙って聞いて欲しいんだ」
「なに?」
「いいから、すぐ済むから」
 その切羽詰った口調に、健司はそれ以上何も言う事が出来なかった。

         §         §         §

 桂は、薄暗がりの中、健司に女になってからの不安や、戸惑い、そして同性だった男への嫌悪や恐れなどをポツポツと話した。
 女になったこと。
 女になってゆくこと。
 女であることを知ってゆくこと。

 そして、女であることへの喜び……。

 女として、一人の男を好きになった。
 友達だった。
 親友だった。
 その男を想うと、どうしようもなく心がざわつき、自分でもどうしたらいいか、わからなくなる。
 相手の名前を桂は一度も口にしなかったけれど、健司にはそれが、自分の事なのだと伝わったに違いない。
 桂は話しながらそう思っていたし、健司が軽く息を飲んだことで、それは確信へと変わった。

 健司は、最後までじっと聞いていた。
 桂は俯いたまま彼の顔を見られなかったけれど、もしこれで完全に嫌われても、伝えなければならないと強く思っていた。
 やがて桂の話は、『どうして女になったのか』という、最も根本的で最も大切な話へと進んでいった。
「……女性……仮性半陰陽ってのは、あれは、実は……ウソ……なんだ」
 胸を抱き、子供の頭ほどもあるたっぷりと重たい乳房を両腕に感じて、桂は震えながら目を瞑った。

 『星人(ほしびと)』と呼ばれる、地球外生命体の話をした。

 母・山中涼子は純血の『星人』であり、健司や由香から見れば「異星人」なのだと話した。

 自分はその母と、地球人の父との遺伝子を掛け合わせて産み出された子供で、女になったのは、その因子が発現したからなのだと、話した。

 健司が……彼がどこまで理解したかわからない。
 でも、口を挟む事は許さなかった。
 理解してもしなくても、とにかく今は全部聞いて欲しいと思った。
 この時、真実を話してしまうことで、その後どうなるとか、そんな事を考える頭は無かった。
 ひょっとしたら『星人』のコミュニティの手によって、健司の記憶は消されるかもしれない。
 そうでなくとも、健司や由香達の前から姿を消さなければいけなくなるかもしれない。
 ところが、『秘密』を告げるのであれば、本当なら当然考慮しなくてはいけないのだろうそれらの事柄が、今の桂の頭にはこれっぽっちも無かったのである。

 そして話は、自分が「オンナノコ」になった核心へと進んだ。

 いつも身近にいた一人の友達に抱いた友情という感情を、発現し肉体を支配し始めた『星人』の因子が「愛情」だと誤認し、肉体変化のスイッチを入れてしまった。
 肉体変化は『星人』の因子が地球人との混血を望み、その遺伝子を最も効果的に取り入れるための機構として、自分を男から女へと変えてしまった。
 体が変化し、女になり、徐々にその肉体に馴染むと共に、本来なら同性であるべきその一人の男を、心から『好き』になっていった。
 『友情』ではなく『愛情』として。
 おっぱいがこんなにも大きくなったのも、肉体がその友達から遺伝子をより確実に受け取るために、その友達好みに変化した結果なのだ。
 男には絶対に訪れるはずもない“生理”が訪れ、肉体的には完全な女になった時、自分は男に戻る道を自ら捨ててしまった。
 自分の中に生まれ、育ってゆく『愛情』を、もう認めたいと思うようになっていたから。
 もう、女として生きる事しか、考えないようになっていった。

 やがてそれからは加速度的に、肉体的にも、社会的にも、精神的にも女性化が進み、恋を自覚し、体はどんどん歯止めが利かなくなっていく。
 その友達を想うだけで、体が反応してしまう。
 元は、同じ男だったのに。
 普通の、単なる友達で、親友で、弟分みたいだったのに。
 その相手に、恋して、感じて、求めてしまうことの嫌悪と、それと同じくらいの……いや、それ以上の「歓喜」。

 けれど、その想いがどうしても伝えられないまま日々は過ぎ、それに伴って体だけがどんどん“熟して”いった。
 そしてとうとう、その友達でなくても、あんなに嫌悪していた他の男にも体が過敏に反応してしまうようになる。
 体が、「男」を求めた。
 どんどんえっちになって、どんどん感じやすくなっていった。
 男の体臭を感じるだけで濡れた。
 触れられただけで全身が痺れた。

 でも。

 そんなのはボクじゃない。

 本当のボクじゃない。

 苦しかった。
 辛かった。
 でも、その友達に「告白」する勇気なんか、無かった。



「だってボクは、本当の女なんかじゃ、ないから」


         §         §         §

 話し終える頃には、言葉は嗚咽になり、くぐもったうめき声となって、ぷっくりとした唇を割った。
 健司は椅子に座ったまま、じっと桂とは反対の窓から外を見ている。
 何を思っているのか、どう感じているのか。
 桂からは何も窺い知る事は出来なかった。

 やがて彼は小さく息を吐くと、
「けーちゃんの声が、聞こえたんだ」
 そうポツリと呟いた。

「最初は、空耳かと思った。
 トイレに行って、帰ってきたら、けーちゃん、いなかったし。
 カラオケの曲がうるさくて、外の音なんて聞こえなかったけど、でも、けーちゃんの声が何度も聞こえてきたんだ。
 『助けて。助けて。健司。助けて』って。
 そのうち、泣いてる……って、思った。
 『健司、健司、健司、健司、健司』って、ずっと俺の名前を呼んでる小さな声。
 俺、てっきり自分がどうかしちゃったんじゃないか? とか、けーちゃんの事考えてたから、だから空耳なんじゃないか? って思った。
 けど、違った。
 自分でもわからないけど、じっとしてられなくなって、またトイレ行くって部屋を抜け出して……声の聞こえる方にある部屋を片っ端から見てまわった。
 そしたら……」

 健司の言葉に、桂は自分の体を抱く両手に力を込めた。
 恥ずかしくて、情けなくて、消えてしまいたいくらいだ。
 自暴自棄になって、どうなってもいいと思った自分が情けなかった。
 亮の好きにさせてしまった自分が、どうしようもなく情けなかった。
 ぽろぽろと涙がこぼれ、“ひっ……ひっ……”としゃくり上げるたびに膝の上へ落ちた。

「……だから、けーちゃんの言う事、俺は信じるよ」

 ――ぜんぶ。

 そう言って、健司はひどく真剣な目で軒先を落ちる雨垂れを見た。


「……男に、戻りたい? けーちゃん」
 少しして、健司はようやく落ち着いた桂に“ポツリ”と言った。
「ボクの言った事、信じるのか?」
「信じて欲しくないの?」
 今の桂には、にっこりと笑う健司の顔が、ひどく眩しかった。
 桂は自分から目をそらし、唇を噛んで、肩を落とした。
 胸の高ぶりが、急速に冷えていく気がした。
「…………もう、女じゃいられないし、嫌われてるから……」
「誰に?」
 彼の言葉に、桂は胸が苦しくなり、それを跳ね除けるように健司を“きっ”と睨んだ。
「……オマエが……それを言うのか?」
「……なんで?」
「オマエ、気持ち……悪い……って……」
 それだけで“じわわわ……”と新たな涙が盛り上がり、こぼれそうになる。
「けーちゃん?」
「いい! もういい。言うな。なんにも言うな」
 健司は、突然すごい剣幕で首を振り、両手を“ぶんぶん”と振る桂にあっけに取られ、それから今は何を言っても無駄だと思って口をつぐんだ。
 今の彼女は感情が高ぶって、きっと自分の言う事はまともに聞いてもらえないんじゃないか? と、そう思ったのだ。
「男に戻りたいかどうかなんて…………もう、わかんないよ」
 それから桂は、完全に女に固定化するには、このまま次の生理が来るのを待てばいいのだと言った。
 そして、もし男に戻りたければ、母や他の『星人』に協力してもらい、戻る方法を探ることも出来るとも言った。
「けど、さっき亮にさ……された……事で、体が……女でいるメリットよりデメリットを感じたとしたら、ボクはもしかしたら男に戻るかもしれない……」
「デメリット?」
「……女でいることや、女の体で男の遺伝子を受けることにストレス…………それも、心と体に、いっぺんにものすごい負担をかけるようなストレスを感じること。
 もしそれを感じると、体がより効率的な方法をとろうとする……みたいだ。よくわかんないけど」
「ストレス…………今度は女から男に…………?」
 じっと考え込む健司の横顔を盗み見るようにして見ながら、桂は小さく溜息を吐いた。
 本当は、ストレスを受けながら膣内に射精されないといけない……という事も明かすべきなのかもしれないけれど、その勇気が今の桂には持つ事が出来ない。
 実際、亮の陰茎の先端……亀頭は膣口に触れていたわけだから、下手をすれば膣内に精子が混入してしまった可能性も、無くはないのだ。
 俗に“先走り液”とか“我慢汁”とか言われる粘液の中には、少量の精子が含まれる事が往々にしてあるからだ。
『ボクは、もうきっとこのままだと健司には一生抱い…………抱いてなんかもらえない。
 気持ち悪いって思われてるし、本当の女じゃないって知っちゃったから、前よりもっと気持ち悪いって思ってるかもしれない。
 こいつの笑顔は、もう……信用出来ない…………』
 そう思いながら、桂はなんとも言えないような顔で正面の壁を見つめる健司を見ていた。
 「信じたい」と思ってるくせに「信じられない」と自分の感情を切り捨てようとする自分自身が、どうしようもなく嫌だった。
『でも…………』

 もう……遅いかもしれない。

 けど、間に合うかもしれない。

 男に戻るなら、戻ってもいい。
 女のままなら、それでもいい。

 どうせ健司には何もかも話してしまった以上、男に戻っても女のままでも、今までと同じではいられない。
 何かしらの調整手段がコミュニティから行われるに違いない。
 だとするなら、何もしないで後悔するより、後悔しないように何かをした方がいい。

 今、強く強く心で感じているままに。

「…………うん。そうだ」
 桂はそう一人ごちて、一つ深呼吸すると、
「オマエなら、いいや。
 オマエなら、全部任せられる……」
 不意に桂は健司の右腕に頭を持たせ掛けて、囁くように言った。
「え?」
「ボクを……抱いてくれないかな?」
「ええっ!?」
 離れようとする健司の腕を取って、桂は強引にその場に彼を押さえつけた。
 おでこを健司の二の腕に押しつけたまま、深呼吸をする。
 健司の汗の臭い、体の臭いを、胸一杯に吸い込んだ。

 顔を見られるのは嫌だった。
 顔を見るのも、今はダメだ。

 健司という愛しい存在を、これ以上無いくらいに近く感じる。
 心臓が激しく高鳴り、顔が熱くて、ほっぺたがカッカッと火照る。
 全身の毛穴という毛穴から、どっと汗がふき出したような気がした。
 けれどそれとは逆に、健司に力ずくで拒否される可能性が浮かび、震えるほどの恐怖さえも感じてしまう。

 勇気が、欲しかった。

「……お……男に戻るにしても、女に固定するにしても、ボクはもう、このままじゃ、イヤなんだ。
 なんか、答えが欲しい。
 自分の中で、納得したいものがあるんだ。
 このまま時が過ぎるのを、ただ待ってても、それで結果が出るなら、
 それだったら、その前に…………」
「けーちゃん…………」
「その前に、ボクは…………オマエに、抱かれてもいい。
 いや、ちがう……な。
 オマエがいいんだ。
 健司が、いいんだ。

 オマエに……抱かれたいんだ……」

 搾り出すような声に、健司の身体がびくっと震えた。
 忘れかけていた雨音が耳を打ち、それと同じくらい……いや、それよりもっと大きな心臓の鼓動が、うるさいくらいに鳴り響いていた。
「けーちゃん……でも俺…………」
「きっ気持ち悪いのはわかってる。
 いくらお前でも、元男だってわかってりゃ、そう思うのは無理無いもんな。
 胸だって……こんな、むちゃくちゃデカくてカッコワルイし」
「……そんな……俺は……」
「けど、ボクはケリをつけたいんだ。……ボクの、一生のお願いだ。な?」
「………………俺でいいの?」
「…………オマエしかいねーんだよ。
 カッコワルイかもしんないけど……これで最後にするから……だから……」
 桂の言葉に、健司は小さく息を吐き、
「……ん…………わかった」
 小さな答えを紡いで、全身の力を抜いた。
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