■感想など■

2009年09月03日

第20章「ここにあなたがいないこと」

■■【1】■■
 夏休みに入り、テレビでは連日のように女優「高原照子」……つまり桂の母「山中涼子」の話題でもちきりだった。
 突然の休業宣言の後、日本から姿を眩ましただけでも十分話題だったのに、欧米の有名な映画監督のオファーを受けたとか蹴ったとか無視したとか様々な憶測が飛び交い、プロダクションに問い合わせても対応は通り一辺倒のマニュアル対応だったから、情報がまったく得られないマスメディアがこぞってニュースにしてしまったのだ。
 去年の暮れに公開された映画『ふたりの恋』で共演した香坂舞菜という新人女優などは、あの映画のあとはちっともパッとしなかったのに、まるで話題に便乗するかのように再びライトを浴び始め、とうとう秋の新番組の主役に抜擢されたそうだ。

 考えてみれば「高原照子」というのもふざけた名前だ……と、桂は思う。
 実はこの名前は「高天原(たかまがはら)」と「天照(あまてらす)」を合わせたものだという。
 日本人ならきっと一度は聞いた事があるであろうこの2つの名は、日本創世神話「日本書紀」に出て来る神々の住まう天界の名と、そこに住まう女神の名前だ。
 “宇宙”という「天」からやってきた“星人”という「神」の女性…………という事でつけたらしいのだけれど、恐れ多いにも程がある。これはやはり地球の神を信じていない母だから出来たのだろうな……と、桂は思わなくも無い。
 彼女はこの話を、現在ヨーロッパを飛び回っているらしい、他ならぬ母自身から電話で聞いたのだ。

 それもつい最近……桂が健司と結ばれた次の日に。

 話によると父母は今フランス西部にいるらしく、イタリア半島を南下してから今度はトルコに渡る予定だそうだ。最初はドイツを中心にして東欧から北欧にかけて周り、最後には母が“眠って”いたチベットにも寄る予定だと聞いていたから、向こうに着いてから急遽変更したのだろう……と思うしかない。
 電話の向こうから聞こえる声は、相変わらず元気過ぎるくらい元気そうだったけれど、なんだか機械を通したような小さくて硬い声になっていたのが、気になると言えば気になった桂だった。
 まだまだ日本に帰るには時間がかかるということで、母は桂が一人で暮らしていることをひどく心配していた。
 困った事があったらすぐに美智子(ソラ先生)に連絡するように……とか、『星人』のコミュニティではいつもモニターしてるはずだけど突発的な事故などには対処出来ない場合が多いから気をつけるように……とか、桂は『そんなに心配なら大事な一人息子…………娘を置いて行かなきゃいいのに』と思うことしきりだった。来年の受験の事とか体の事とか健司のこととか、確かに色々気がかりな事はあったけれど、それでも一緒に行っていればここまで不安になる事は無かった気もするのだ。


 健司と別れて家に帰った桂は、彼の残り香が消えてしまうのを寂しいと思いながらも、たっぷりと時間をかけてシャワーを浴び、肌を磨き汗を流し、あそこをしっかり綺麗にして、それから少しだけ眠った。
 そして、夢を見たのか見なかったのかわからないくらいぐっすりと寝入って、昼過ぎに空腹を感じて起きだした彼女は、顔を洗いに寄った洗面所でびっくりする事になる。

 ――顔が、腫れていた。

 カラオケボックスで亮に張られた左の頬が赤くなり、まるでおたふくのように厚ぼったくなっている。
 シャワーを浴びた時にも、体中に傷跡があったのを見つけていたから、今の自分は本当に傷だらけなのだと自覚した。
 男だった頃には、顔に傷が付く事などさして気にもとめていなかった。
 でも、女になった今では、それが、ひどく悔しい。
 男が女に暴力的な優位性を示そうとする場合、顔を張るのが一番効果的だと、一般には思われているところがある。
 顔を張られると、ショックと恐怖と痛みで大抵の女は硬直し、萎縮し、抵抗出来なくなるからだ。
 特に、人から「可愛い」とか「綺麗だ」とか言われ慣れている女はそれが顕著で、顔を傷付けられる事に本能的な恐怖を感じるため、顔を張られたり殴られたりするくらいならレイプされる方がまだマシだと考える者までいる。
 鏡に映った顔で、右頬より明らかに腫れている左頬を指でなぞり、桂は自分の無自覚さに呆れた。顔を張られれば、腫れるのは当然なのだ。

 ――健司は、こんな傷だらけの女を抱いてくれたのか。

 そう思うと、恥ずかしくて情けなくて、でもそれと同じくらい嬉しかった。
 桂は冷蔵庫の中のオレンジジュースを一杯飲むと、部屋に戻り、ベッドに寝転がって、数時間前の出来事を反芻しながら……自慰をした。
 彼の触れたところ……頬や鼻や唇や首筋や耳たぶや、胸元やおっぱい、それに脇、そして腿からあそこまで。彼のタッチを思い起こしながら指で順に触れてゆくと、まるでそこに火が点ったかのように熱くなった。まだ膣内(なか)に指を入れるのは痛かったから、包皮に包まれたクリトリスを真新しいパンツの上からそろそろと撫でるだけだったけれど、健司にそこを嘗められていると思うだけで体中が熱くなり、あっという間にイッてしまった。
 …………でも、満足なんて、出来なかった。
 確かに健司とのえっちでは、痛くて痛くてそれどころじゃなかったから「イク」なんて夢のまた夢、考える事も出来なかったけれど、それでも、こんな風に自分でするより、ずっとずっと、泣きたくなるくらい心が満ち足りたように思う。
『ああ……だから自慰(オナニー)って……』
 「自分で慰(なぐさ)める」って書くんだな。
 ベッドの中でぼんやりとしながら、桂はちょっと寂しそうに、悲しそうに、苦しそうに、「くすっ」と笑った。

 少しまどろんだ桂は、ケータイのメール受信音で目を覚ました。
 メールは健司からのもので、「大丈夫?」とか「昨日は嬉しかった」とか、なんだか胸が“むずむず”するような、ほっぺたが熱くなるような、そんな事が書かれていた。
 桂はベッドに腰掛け、ケータイを胸に抱いて、何度も何度もメールの文面を眺めていた。
 けれど、せっかく「恋人らしくする」と誓ったはずなのに、ただメールを返すというだけの事がどうにも恥かしくて、彼からのメールになかなか返事が出来なかった。

<<大丈夫。健司こそ、おばさんに怒られなかった? 昨日はボクも嬉しかった。まだ少し痛いけ >>

 ここまで描いて、5秒ほど固まって、慌てて「まだ」から後を消した。
 顔が火照る。
 たったこれだけのことなのに、胸がドキドキする。
 息を吸い、キーを打つ。

<<あそこに、まだ健司の>>

 消した。
 そして、随分長いこと書いたり消したりしていた桂は、最後に

<<好きだよ。>>

 と書いて、ようやく10分経った頃にそのまま送信しようとして、

 消した。
 結局、メールしたのは、

<<大丈夫。ありがとう。嬉しい。>>

 たったこれだけ。
 けれどこれだけ送るのに、実に1時間もかかった、いつまでも“へなちょこ”な桂なのだった。

 その日は午後3時を過ぎてから、由香からもメールが来た。
 「今から桂の荷物を持って行く」という内容だった。
 桂は特に気にする事も無く了解したけれど、やってきた彼女は桂の顔を見るなり、彼女にしては“すごい勢い”で家に上がり込み、冷凍庫の製氷機から氷を掴んでタオルに包んで、呆然とキッチンの入り口で突っ立ったままの桂をソファに強引に座らせると彼女の腫れた左頬に当てた。
 そして今まで見た事が無いくらい恐い顔で
「これ、どうしたの?」
 と聞くと、それきり桂が事の次第を正直に話すまで、じっと目を見たまま人形のように黙り込んでいた。
 亮がヘンになったのはひょっとしたら自分が原因なのかもしれない……と思っている桂は、相手が亮だという事が言えず、カラオケボックスの他の客に絡まれたという事にしてしまったけれど。
 桂が話し終えて、恐る恐るちっちゃな幼馴染みの顔を覗き込むと、由香は
「(夏休みの)勉強会をしよう!」
 と突然言い出した。
 あんまりにも突然だったので、桂がほっぺたに当てたタオルを床に落としそうになったくらいだ。
 もちろん彼女の上げたメンバーは、当然のように「自分」と「桂」と「健司」で、けれど桂は、今は酷い顔だから気恥ずかしくて彼と顔を合わせられないと言って断った。それに、つい昨日、大会まで会わないというようなことも言ってしまった手前、いまさらどんな顔をして逢えばわからなかったのだ。
 由香は桂の話に何も口を挟まなかったけれど、随分長い間、一人で何かを考えていたようだった。

 でも結局、この日は何も言わず、彼女は桂の荷物を置いて帰っていった。
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