■感想など■

2009年09月04日

第20章「ここにあなたがいないこと」

■■【2】■■
 翌日から、桂は由香が外に出かけようと言っても用事があると言って出ず、健司からのメールも滞りがちで、電話も留守番電話にしたままだった。
 一度断ってしまうと、次からはもうどう会話したらいいのかわからなくて、“あたふたしてみっともないところを見せてしまうくらいなら最初から出ない方がいい”から……らしいのだけれど、そのくせ5日もそれが続いて、そのうち健司からちっともメールが来なくなると、今度はどうしようもなく寂しくて哀しくて後悔に涙さえ出そうになるのだから、女というものはやはり理不尽極まりない生物らしい。


 そしてそれは、夏休みに入って6日目の7月24日の事だった。

 食料の買い出し以外はほとんど一日中家に篭る……という“プチ引き篭もり”になってしまった桂だって、何も、日がな一日テレビを見たり漫画を見たり昼寝したりネットをしたり……といった人生の落伍者みたいな腐敗した生活をしていたわけではない。
 大量にあった宿題は、気を紛らわそうとしたらあっという間に6割くらい片付けてしまったので、なんだか馬鹿らしくなってそこで止めてしまっている。
 実は、未完成のままの絵をこの夏の間に完成させてしまおうとしていたのである。
 その絵というのは、健司に告白を決意し、由香と3人で映画を観に行くことを理由に公園へ呼び出して、他ならぬ彼からの「友達宣言」によって見事玉砕し、複雑な思いのままで「デート」した日から描き始めた、“心の中に在る「彼」の『イメージ』を絵の具に託してカンバスに描き出そうとしたもの”だった。
 スケッチを終えてカンバスにマチエール(下地)をジェッソで軽く作った後、下塗り程度に絵の具をのせただけでずっと止まっていた工程を、桂は2日ほど前からマイペースに進めていった。
 “何”を“どう”描くのかは、もう頭の中に全体像が描かれている。
 けれど、絵の具を置くたびに何かが違う気がして、何度も手が止まる。
 そして止まっては、健司になんとなく感じが似てる“ぽやぽや”な顔した牛のぬいぐるみを抱えてベッドに転がり、ケータイを見ては健司のメールを読み直して再び筆を取る……といった、いささか不健康な日々が続いていた。
 おまけにシッカチフ(乾燥促進剤)はなるべく使わないから、乾くまでにひどく時間がかかり、6日程度ではちっとも進んだようには見えなかった。

 昼御飯に作ったサンドイッチをカフェオレで流し込み、桂は一心に筆を動かしている。
 油絵の具の、あの独特な匂いの中で食事する事を由香などはひどく嫌がるけれど、桂や美術部員などは慣れたものだ。学校の美術準備室などでは、冬になるとストーブでソーセージを焼いたりもするから、もっともっと特異な匂いが充満するけれど、気になったのは最初の数日くらいなもので、今ではちっとも気にならない。
 セミロングのさらさらの髪を後でひっつめて、汚れてもいい上下のスウェットに部活用のエプロン……という格好の桂は、ただでさえ無い色気が更に無いこと甚だしかった。時々、無意識にお尻をぼりぼり掻くものだから、まるで『夏冬の“祭典”のための原稿を描くために日常の一切を犠牲にしているオタ系女子』みたいで、傍から見ると痛々しいくらいだろう。
 さすがに自分の部屋を油絵の具で汚すのは忍びないのか、今はほとんど倉庫代わりに使っている客間にビニールシートを敷いて描いていた。この部屋は午後から太陽の光がこれでもかと差し込むので、夏場は空調を効かせていても汗ばんでしまうほどだ。

 桂はふと手を止めて、椅子から立ち上がり、イーゼルから少し離れてみる。
 なんとなく描き始めたものだから、前に描いた絵から枠だけ拝借して張り替えたカンバスだけれど、彼女は今さらながらF12号は「少し大き過ぎたかもしれない……」などと思い始めていた。
 縦60センチ、横50センチはあるのだ。
 せめてF8号(縦45センチ横38センチ)カンバスにしておけば良かったのだ。
 塗っても塗っても、ちゃんと色がのってる気がしない。
 絵の具もどんどん減ってゆく。
 高校生の小遣いでは油絵の具など高過ぎて、「ヒュー(チント)」絵の具しか買えないけれど、出来れば本物が使いたいところだ。
 もっとも、コバルトブルーなどのオリジナルな顔料タイプは猛毒なものが多いので、子供が扱うには安全性を考えれば顔料ではなく染料を主原料とするヒュー(チント)の方が適していると言えるのだけれど。
 それでも、桂はバーミリオンだけは発色を考えて本物を使うようにしていた。
 ただ……40mlだと3本で7千円近くもするから、20mlしか買えない桂だったけれど……。
 そのバーミリオンが、買い置きの分も無くなっていた。
 他の絵の具も、ちらほらと無くなりそうなものが増えてきている。
 テレピンも残り少ないし、ポピーオイルもメディウムも残り少なかった。
 健司とバッタリ顔を合わせたりするかもしれないから、本当なら街に出たくないけれど、背に腹は代えられない。
 家に配達してもらうとかネット通販で買うとか、家から出ない方法はいくらでもあるにはある。
 でも、正直ちょっと煮詰まっているのは確かなのだ。健司からメールが来ないのも気になってしまって、つい手が止まってしまう。
『ちょっと気分転換が必要……かな……』
 桂はそう想い、小さく溜息をついた。


 隣町のデパートに足を伸ばすのは、何日ぶりだろうか。
 それこそ、健司と「デート」して以来だった。
 雲が少なく天気がいいため暑さもひとしおで、ここのところ毎日部屋の中で空調に慣れた体には、ちょっと堪える。綿シャツとキュロットとスニーカーという涼しげな格好でも、直射日光で焼かれてちょっと歩くだけで汗ばんでしまうのだ。なるべくビルの陰や木陰を選ぶように歩くけれど、アスファルトから立ち昇る熱気に包まれれば、それさえも気休めでしかないように思えた。
 一応、家を出る前にシャワーを浴びて体を磨き、手についた油絵の具などは出来るだけ落としてきたけれど、小学生か中学生みたいな背格好の“ちびっこい”女の子が、重たそうに張ったおっぱいを“ゆさゆさ”と揺らしながら歩けば嫌でも人々の目を引いてしまう。もちろん、桂はもうそんな視線には反応しないように努力した。人々の好奇の目は、こちらが反応すればするほど顕著に、大胆になるものだと身に染みて知っているからだ。
 けれどそんな風に、駅から出てロータリーを歩き、デパートまでの道をなるべくキョロキョロしないようにしながら歩いていると、やはり、こういう時に限って会いたくない人間と出会うものらしい。
 よりにもよって、ちょうど角のアクセサリーの店から出て来た亮とバッタリと鉢合わせしてしまったのだ。
「……よ、よう」
 引き攣った桂に向かって、亮がぎこちなく手を上げる。丸刈り気味の銅色の髪は、まさしく“太陽”のように輝き、ベージュ色の麻のシャツとライトブラウンの綿パンツ、それにダークグリーンの革靴が、相変わらずオシャレなんだかそうじゃないんだか、よくわからないコーディネイトを形作っていた。
 少なくとも、スポーツマンには見えそうに無い。
 ヘリウムよりも軽くて“駅前ティッシュ”よりも安っぽい愛の言葉を大量生産する、売れないホストみたいだ。
 桂は、言葉も無かった。
「ひ、久しぶり」
「…………」
「元気……だったか?」
「…………」
「そういう格好も、似合うな」
「……っ」
 亮に対して桂は、薄いクリームイエローの綿シャツに明るいオレンジのキュロット、それに念のため頭に思念遮断カチューシャ……という出で立ちで、それは、いかにも元気印の夏少女……といった感じだ。
 少しゆったりした綿シャツは、胸のところがぱっつんぱっつんにならないためのものだったけれど、ゆったりしている分だけちょっとデブって見えるので、正直、あまり好きではない。そして、歩くたびにブラでホールドしてても“ゆっさゆっさ”と重たげに揺れるおっぱいは、相変わらず周囲の男達の好奇と欲望を、そして女達からは好奇と羨望と嫌悪を嫉妬を集めていたから、正直、「似合う」と言われても素直には喜べなかった。
「……じゃあな」
「待てよ」
 顔を顰めて亮の横を擦り抜けようとした桂は、彼の声に身を強張らせた。
「…………なんだよ」
「そう警戒するなって」

 ――無茶を言う。

 自分を“レイプしかけた男”を前に「警戒するな」というのは、野犬の前に投げ出された子兎に「安心して寝ていいよ」と言うようなものだ。
 たとえそこが衆目の街中であったとしても、警戒して損は無い。
「アホ」
「おいおい……」
 無視して歩き出した桂の隣を、亮は当たり前のように歩調を合わせながら歩く。傍から見ていると、まるで恋人同士のような近さだった。
「ついてくんな」
「話があるんだよ」
「ボクには無い」
「聞いた方がいいと思うけどな」
「レイプ犯と話すことなんか無い」
 桂の言葉に、擦れ違った若い女性が“ぎょっ”となって亮を見る。
 彼はそれには全く構わず、桂の耳に口を寄せるようにして身を屈め、早口に言った。
「あの店、俺の叔父の店だって、言ったよな?」
「あの店?」
 わかってて聞いた。
「カラオケの」
「それがどうした」
「防犯カメラは、24時間動いてる」
 前を向き微笑んだまま小さく囁いた亮の言葉に、桂の体が震えた。
 歩道の端で足が止まる。
「正直、俺、あん時の記憶があんまり無いんだよね。
 気がついたら頭から血が出てるし、部屋はメチャメチャだし。
 健司も桂もいないし。で、叔父貴に頼んで防犯カメラのビデオをもらったわけ」
「……何が言いたい?」
「とりあえずソコ、入らない?」
「断る」
 暗さの全く無い顔で近くの喫茶店を指し示す亮に、桂はキッパリと言った。
 その喫茶店は、前に素子先輩と入った事のある店だった。
「容赦ねぇんでやんの……」
「話ならそこで聞く」
 男っぽく顎で路地の入り口を指して、桂はその曲がり角の柱の陰に背中を預けた。
 大通りから1本外れた道のせいか、少し閑散としているけれど、それでも亮に何かされそうになったら助けを求められるくらいの人通りはある。
「で?」
 胸の下で腕を組み、挑発的に見上げてくる桂の視線に恐れることも無く、亮は彼女の頭上に手を置いて、睦言を囁く恋人のように少女の顔を覗き込んだ。
「――話は、わかるよな?」
「何が?」
「ビデオには、俺とけーちゃんのえっちシーンがバッチリ映ってる」
「それで?」
「けーちゃんの巨乳も、薄いあそこのお毛々も」
 “かあぁっ!”と桂の顔が、羞恥と怒りで真っ赤に染まる。
 視線だけでブッ殺しそうな目付きで睨みながら、それでも桂は声を抑えて会話を続けた。
「それで?」
「いや、高く売れると思うんだ。ウラモノとしてさ」
「オマエもレイプ犯として警察に売られるかもしんねーけどな」
 押し殺した桂の声に対して、亮はおかしそうに「くくくっ」と喉の奥で笑った。

 悪そうな笑みだ。

 ものすごく、悪そうだ。

「それはないよ。ちゃんと修正するから」
「てめぇ……」
 重たい乳房を支えるように組んだ腕へ力がこもり、指の関節が白くなるまで手が握り締められた。
「恐い顔すんなって。当然だろ?」
「……要求は?」
「話が早いね」
「要求は?」
「イライラすんなっての。可愛い顔が台無し」
「要求は?」
 セリフを遮られた亮は舌打ちすると、ますます桂の顔に口を寄せて囁くように言った。
「俺の女になっ」
「断る」

 一呼吸も間を置かなかった。

「即答かよ。しかも全部聞かねーで」
「アホか。ホントにオマエって最低な野郎だな」
「そんな意地悪なこと言うと、あの映像、ムービーに落としてネットに流しちゃうよ?」
「好きにしろ。オマエの女になるくらいなら、全国の寂しいクソ野郎どものオカズになる方がまだマシだ」
 二人を少し離れた場所からちらりと見れば、傍目には何か睦言を囁きあっている微笑ましい恋人同士に映ったかもしれない。
 けれど、実際に交わされているのは、触れれば切れそうなくらいに鋭い、カミソリのような言葉の応酬だった。
「健司も平気かな?」
「なに?」
「いやぁ……実は他にもビデオがあってさ、俺達と真夜中まで“酒アリぱーちー”ブチかましてた……なんて、もし学校に知れたら…………県大会常勝の水泳部顧問は……なんて言い訳するのかね?」
 桂は頭を綺麗に剃り上げた“筋肉ダルマ”こと「サムソン」こと「森本直樹」の、やたらと暑苦しい顔を思い浮かべた。
 あの猪突猛進な体育教師は、水泳部を出場停止にするだけでなく、健司を停学……しいては退部処分にしかねない。
「……オマエも映ってるだろうが」
「きょうび、んなものは画像処理で何とでもなるよ。俺のクラスにデブオタのマニアがいるんだ。
 童顔ロリ巨乳の無修正をエサにすれば、きっと喜んでカンペキに仕上げてくれると思うよ。
 あ、童顔ロリ巨乳ってのは桂(お前)のことね」
 確かに、“小学生か中学生みたいな顔のくせにおっぱいばかりプレイメイト顔負けの大きさで描写される女の子が出て来るアニメ”が大好きな“その手の人種”には、今の桂は垂涎の対象に違いない。
 自分がレイプされかけている映像が「そういう」最悪な人種に渡り、その上で健司が停学や退部になってしまうというのは、最悪最低な結果だろう。
「……てめぇ……健司は関係無いだろ!?」
「顔色が変わったな」
「健司を巻き込むなっ!」
「そんなに健司のことが好きなのかよ」
「健司を巻き込んだら、ボクはオマエをぜっっっっったいに!! 許さないからなっっ!!」
「うわ……否定しねぇ」
 亮は小さく息を吐くと背中を伸ばし、桂の隣に並んで柱に背中を預けた。
「わかった。『俺の女になれ』ってのは諦めるよ。その代わり……」
 桂は抜けるような青空をバックに、ニヤリと笑う亮の顔を、今にも殴りかかりそうな顔で見上げた。
「ちゅーしてくれ。今、ここで」
「はあ!?」
 もっと凄い事を要求されるかもしれないと身構えていた桂は、亮の言葉に拍子抜けしたような顔をした。
 はっきり言えば、「抱かせろ」とか「セックスフレンドになれ」とか、そういうエロゲーとか煩悩漫画や妄想小説とかで呆れるくらい頻繁に繰り返される、どうしようもなく頭の悪いシチュエーションを思い浮かべていたのだ。
 もちろん、“「ちゅー=キス」だからいい”というわけでは、決してない。
 健司以外の男と唇を触れ合わせるなんて、吐き気がするし、そんな事をしたら唇だけでなく、体全体が穢れてしまうように感じるのだ。
 それでも……。
「どうする? ちゅーしてくれたら、ビデオを渡してやるよ」
「きたねぇ…………オマエ、それでも男かよ」
「男だからだよ。こうまでしてもけーちゃんとイイ関係になりたい男心をわかって欲しいな」
 亮は、爽やかなスポーツマン的笑顔で嘯(うそぶ)く。
 ツンツンに尖った短い銅色の髪が陽光にきらめき、真っ白の歯が似非ホストみたいに唇から覗いて輝いた。
 たぶん、女はこの笑顔に騙されるのだ。
「イイ関係?? ……どうあってもボクとオマエじゃ、最悪の関係にしかならねーよ」
「少なくとも、今以上の“最悪”は無いだろ?」
 ギリギリと歯を噛み合わせ、顔を真っ赤にして亮を睨み付ける桂の、その目が潤んでいた。

 泣きたくなるくらいに嫌なのだ。

 気持ち悪いし、こんな……人の弱味につけいるようなヤツに唇を許すのも腹立たしいし、何より、大好きな健司を裏切る事になるのだから。
『ボクは健司のものだ。ボクに“ちゅー”していいのは健司だけだっ!!』
 それでも。
『…………ちくしょう…………』
 組んでいた両腕を下ろし、顔を伏せ、桂は悔しさと腹立たしさに下唇を噛み締めた。
「わかった」
 地の底から響いてくるような、おとぎの国の誰も足を踏み入れない森の奥深くにひっそりと住む魔女のような、そんなしゃがれた声が少女の小さな頭から聞こえて、亮は小さく肩を竦めた。
「ちゅー……してやる」
「ディープなヤツな。フレンチじゃなくて」
「フレンチ?」
「唇を合わせるだけのヤツ。そんなんじゃなくて、舌と舌を絡めるねっとりと深いヤツだぜ?」
「…………〜〜〜〜っ…………」

『亮の唾液が口の中に入る』

 そう考えただけで、気が遠くなるくらいの嫌悪に、昼に食べたサンドウィッチとカフェオレが胃の中でぐるりと寝返りを打った気がした。
 酸っぱいものが込み上げてきそうな気がして、顔から血が音を立てて引いてゆくような気分にもなる。

 ――でも。
 それでも。

 それで健司の将来が護れるのなら、安いものだ。

 桂は覚悟を決めると周囲をちらりと見回し、通行人が別段自分達に注意を払っていない事を確かめて、
「……わかった」
 まるで魂が引き絞られるような、ひどく苦しげな声を出した。
「顔を上げろよ」
「……っ……」
「目を瞑れ」
 亮の言うままに顔を上げて目を瞑り、唇を“ぎゅっ”と引き結んだ桂の顔は、もう見た目にも真っ青だった。
 身を硬くして、目尻には堪えきれない涙が光り、握り締めた両手がぶるぶると震えている。
「そんなに硬くなんなよ」
 “ふっ”と光が翳り、亮が屈み込んだのがわかった。
『ごめん…………健司……ごめん…………ごめん…………』
 心の中に身も心も捧げた幼馴染みの顔が浮かび、桂は何度も何度も詫びた。
 亮の吐息が頬を撫でる。
 ミント系の匂いがして、普段ならとても好ましい香りのはずなのに、吐き気が込み上げて、それを我慢したら涙が零れた。
 ……と。
「……ったく…………健司のために、お前がそこまでするのかよ」

 ――不意に“ぺちっ”と、おでこを叩かれた。

「んうっ!?」
「桂ってさぁ…………ホントに健司の事が好きなんだな」
 目を開けると、怒ってるような、泣き出しそうな、そんな曖昧な笑みを浮かべた亮が桂の目を覗き込んでいた。
「しないのか?」
「やる気うせた」
 いっそサバサバしたような亮の言いように、桂の体から力が抜け、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまう。
 力み過ぎた体が、ぶるぶると震えていた。
「どういうつもりだよ」
 涙を手の甲で拭いながら見上げると、顔を顰めながら亮が拗ねたように言った。
「俺は、実力で健司に勝ちたいんだよ。泳ぎでも、女でも」
「はあ?」
「こういうのは、正直俺のスタイルじゃねぇーもん」
 高校2年のくせに“俺のスタイル”ときた。
 拗ねたような顔に、まるで少年のような幼さを浮かべているくせに。
「……いいのか? こんなチャンス、もう二度と無いぞ?」
「残念?」
「んなワケあるかバカ野郎」
「まあ……さ、チャンスなんて、桂が俺に惚れたら何度でもあるでしょ」
「もう二度と無いぞ」
「……二回も言う事ないじゃん……」
 力を込めてキッパリと言い切った桂に、亮の眉がハの字に下がる。
「人の事、犯そうとしやがったくせに」
「いや、だからそれは……」
「人の顔、引っ叩きやがったくせに。腫れたんだぞ? すげー腫れたんだぞ?」
「いや、だからあれは違うんだって」
「何がだよ」
「俺にとって、けーちゃんはさ、なんか違うんだ。他の女とは。だから、本当にあんな風にするつもりなんか無かったし、ビデオ見てても正直あれが俺だって、ちょっと信じられねー気分だったもん」
「よく言うよ」
「ホントだって。自慢じゃないけど、俺、今まで一度だって女の子に手ぇ上げた事なんか無いんだぜ?」
「痛かった」
 しゃがみ込んだまま両膝を抱えて、桂は“ぶすっ”と言った。
「悪かったよ」
「すっげー痛かった。恐かった。死ぬかと思った」
「だから悪かったってば。ごめん。すみません。俺が悪かったです。いやもう、ついでにコクっちゃうとさ、あのビデオは色々ヤバイからって、叔父貴が目の前で処分しちゃったしダビングもしてないから、この世にはもう無いんだよ」
「はあ?」
「つまり、さっきのはウソ」
「ウソ?」
「ウソ」
「マジ?」
「マジ」
「ネットに流すとか、学校に渡すとか……」
「出来るわけないじゃん。無いんだもん」
「てめっこのっ」
「だから悪かったってばさー」
 ぶきっちょな“ねこぱんち”で亮の足を殴り付けると、彼は顔の前で右手を立てて謝りながら飛び跳ねた。
「…………はっ……」
 桂は、すっかり気が抜けて、ビルの階段部分に座り込んでしまう。
 その顔からは、ついでに凶悪な険まできれいに抜け落ちていた。
「ははっ……」
 知らず、乾いた笑いが込み上げてくる。
「ははは」
 ワケもわからず、亮も笑った。
「ははっ……はははっ……」
「ははははははははは」
「ははっははははははっ……」
「うわはははははははははははは」
「笑うなバカ」
「うおっ」
 横から柱にもたれる亮の脚を遠慮無く蹴倒し、彼の真新しい綿パンツにクッキリと足跡をつけた桂の顔は、肩の荷が下りたかのように晴れやかだった。

 亮の言葉を信じるのであれば、彼にはこれ以上桂を無闇に脅したり自分の物にしようとするつもりは無いようだった。
 レイプそのものも、トイレから出てきた桂を見つけてから次に目覚めるまで、ほとんど記憶が飛んでいるらしいし、証拠となるビデオは彼の叔父が目の前でテープを引き出してハサミでバラバラに切り刻んでしまったらしいから、それを盾に無理難題を吹っかけたりネットに流したり小遣い稼ぎをしたりとかは出来なさそうだ。
 あくまで、亮の言葉を信じるのであれば……だけれど。
「健司と付き合うのか?」
「…………出来れば、そうしたい」
「もうエッチしたのか?」
「……っ…………」
 桂はあからさまな亮の言葉に、顔を赤くして黙り込んだ。
 それが答えだった。
「ちぇー……もうしたのかぁ……」
「なっ何も言ってないだろ?」
「じゃあしてないのか?」
「しっしてないっ」
「……あのさ、俺ってこれでも結構もてるから、いろんな女の子と付き合った事があるんだけどね? ロストバージンした女の子ってのは、結構色々変わるもんなんだよ。話し方とか、歩き方とか、男を見る目とか」
「そっ……そうなのか!?」
「桂も自覚あるんじゃないの?」
「…………いや、ボクは別に……」
 難しい顔をして考え込んだ桂の横顔を見て、亮は不意に「くくくくっ」と鳩のような声で笑った。
「やっぱり桂って可愛いなぁ……」
 可笑しそうに笑う亮を見て、桂は“きょとん”とした目をすると、次の瞬間、
「なっ……だっ……騙したなっ!?」
 トマトみたいにほっぺたを真っ赤にして、亮の脚を“げしげし”と蹴りまくった。

 亮と別れた後、桂はふと視線を感じ、通りの向こう側を見た。
 花屋の軒先に見えた横顔と後姿は、よく見知った人物のような気がしたけれど、思い出した時にはその人物は店の中へと入っていってしまったため、声をかけそびれてしまった。
 その人物は桂のクラスメイトで隣の席で、その上茶道部の現役副部長でありながら、まるで漁師みたいな体格とヘアスタイルが茶道部どころか高校生にすら見えない「浜崎伸吾」その人だった。
「なんだよ伸吾のヤツ……見てたんなら声かけてくれればいいのに……水臭いヤツだなぁ……」
 桂が男だった頃から、その居住まいや言動の大人びた感じになんとかく距離を感じ、それほど交友があったわけではなかったけれど、街中で会った時くらい挨拶の一つもして欲しいと思うのは、別に悪い事ではないと、彼女は思った。
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