■感想など■

2009年09月10日

第21章「あなたにここにいてほしい」

■■【3】■■
 “カラコロ”と、可愛くも涼しげな音が住宅街を通り抜けてゆく。
 浴衣姿の桂が、人もまばらな夜道を一人、懸命に走っていた。
 着慣れない浴衣。
 履き慣れない下駄。
 走るとは言っても全力は出せない。
 もどかしくて、いっそ脱いでしまおうか? と思った途端、少女はアスファルトのちょっとした段差に躓き、つんのめった。
 転倒こそしなかったものの、少女は激しい痛みに、咄嗟にその場へしゃがみ込んだ。
「いつっ……」
 左の中指の爪が割れていた。
 血が滲み、刺すような痛みが惨めな気持ちを加速してゆく。

 伸吾は、『あの時』の桂を見ていたのだ。

 亮と街中で出会い、裏道のところでキスをねだるように目を瞑り、顔を上げ、口付けを待つ姿を。
『違う! あれは健司の事を盾にされて、無理矢理……』
 そして、じゃれあうように、笑い合い、遠慮の無い関係である事を示すように、乱暴に男の足を蹴ったりする姿を。
『あれはじゃれてたんじゃない! 笑ってたのだって、あんまり馬鹿らしかったから……』
 健司から桂への恋心を打ち明けられていた伸吾は、それを健司への「裏切り」だと思ったらしい。
 彼は健司を慮って、ずっと、黙っていたのだ。
 でも先日、何かの拍子で、彼に漏らしてしまったのである。

「オレンジ色の短い髪の男と、桂が街でデートしていた」

 ……と。
 不用意だったと、伸吾は詫びた。
 けれど、健司はひどく落ちこんでいたらしい。桂に電話してもメールしても、一向に返事が来ず、向こうからも全く連絡が無いことに。
 だからこそ、伸吾はその事をずっと黙っていられなくて話したのだ。

 そして伸吾が健司に話してしまった日は、7月最後の日だった。

 おそらく彼には「オレンジ色の短い髪の男」という言葉だけで、それが亮の事だとわかったに違いない。
 だから、その日を境に、健司はケータイの電源を切るようになってしまったのだ。
 だとしたら、彼は桂のメールも、そもそもケータイに連絡した事すら知らないのだろう。
 ずっと、誤解したまま。
 ずっと、桂が自分を裏切ったと思ったまま。

 それはそうだろう。
 桂を犯そうとした亮から彼女を救って、それがきっかけで桂の秘密も何もかもを知り、結ばれ、そして恋人となったはずの相手が、その犯そうとした亮といくらも経たないうちに街でデートしていたのだから。

 本当は、亮とずっと前から付き合ってて、ただ喧嘩しただけだったのか?

 それを「救った」気になった自分に、デタラメな「秘密」を打ち明け、可愛そうだからセックスしてくれたのか?

 健司は悩み、そして、もう、4日も前から水泳部の練習には顔を出していないらしい。
 11日の県大会予選では、かろうじてではあったものの、ちゃんと通過したという話だったから、ひょっとしたら一人で黙々と練習しているのかもしれない。
 そう、部員達は噂しているらしい。
 でも伸吾は、彼が自分に何も言わずに練習を休むとは考えられない、と言った。
 桂は、二人がいつからこんなにも仲が良くなったのか、全く知らなかった。
 男から女になった事で、今まで忌憚無く様々な事を話し合えていた相手を失い、健司はそれを伸吾の中に求めたのかもしれない。
 いくら幼馴染みで、親友で、兄貴分であったとしても、今の桂は恋人で、女なのだから気軽に話せない事もあるのだろう。
 それを思うと、桂は哀しくなる。

 男と女は、それだけで、存在が別であるというだけで、こうも誤解を生む生物なのだろうか。

 その本質が変わらなくとも、ただ性別が変わったというだけで、距離を持ってしまうものなのだろうか。

『バカヤロウ……健司…………オマエ……ちくしょう……』
 割れた爪を庇い、足を引き摺りながら、桂は健司の家に急いだ。
 誤解を解かなければ。
 こんな形で「終わって」しまうなんて、あまりにも哀し過ぎる。
 まだ、始まったばかりなのだ。
 これからなのだ。
 ようやく「女」として健司と向き合えて、愛を確かめ合って、結ばれて、これからなのだ。
 どうしてあんなことくらいで壊れなければならないのか。

 空から星が、消え始めていた。
 雲が満天を覆い始めている。
 健司の家には、明かりが点いていなかった。
『どうして……』
 店の張り紙には、「しばらく休業します」とだけ書かれていた。
「す………………すみません! あの! ……すみません! ごめんください! ……あのっ……」
 ガシャガシャとガラスの引き戸を手で叩き、必死なって呼んだ。
 曇りガラスから見える店内は明かり一つ無く、家の中はしんと静まり返っている。
「すみません! あの! あの、健司くん、あのっ!」
 いくら叩いても、呼んでも、誰も答えない。
 ついには隣の家の人から「うるせー!」と怒鳴られ、桂は裸足のまま店の前を離れた。
 左手に下駄と巾着を下げ、20メートルくらい離れたところで振り返って、彼の家を見上げる。
 彼の部屋どころか、どこにも人のぬくもりを感じさせるような明かりは見つけられなかった。
「健司…………」
 やわらかい素足に、アスファルトが痛い。
 ほんの小さな小石が、激痛となって桂を苦しめた。
「健司……違う……違うんだ……ボクが好きなのは…………」
 ポツポツと空から水滴が落ち、桂は空を仰いだ。
 すっかり空を覆い尽くした黒雲から、糸のような雨がその数を増しながら降ってくる。
『ボクが好きなのは、オマエだけなのに……』
 涙が溢れた。
 雨で流れ、一緒になって頬を滑り、顎から滴る。
 すぐに雨脚は激しくなって、土砂降りの中、桂は歩いた。
 泣きながら、一人、歩いた。

 その日から3日間。
 桂は熱を出して寝込むことになる。
 少女は夢か現かわからないほどうつろな視界の中、ソラ先生が
「いくら『星人』の因子が発現したからといって、あんなムチャすれば体調を崩すのは当たり前だ」
 と、心底怒った顔で言っているのを、まるで他人事のように聞いていた。
 夢だと思った。
 その横に、あの楡崎要の、あの特徴のある笑顔が見えていたから。
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