■感想など■

2009年09月16日

第22章「暴かれた本当の嘘」

■■【4】■■


 最初から惹かれ合うように調整されていたからこそ、桂は健司に心を許し、健司は桂を選んだ。


 その事実は、桂の心を粉々に打ち砕いた。
 それでも。
 それでも尚、美智子は語る。
「……健司と由香は、適合者のはずだった。
 確かにそう仕向けたのは私達だけど、決断したのはお前の意思だ。
 ……私達は何一つ強制はしていない」
 言葉の内容とは裏腹に、その表情には苦悩も逡巡も無く、ただ事実だけを述べる冷徹な科学者のような色だけがあった。

 「健司」という名の『ガーディアン』は、元々、桂の母である涼子と美智子が、『星人』のテクノロジーで“生み出した”人間だ。
 いわば、数百年前、まだ『星人』の数が多かった頃に彼らが個々で作り出した、不完全な、『混じり』と呼ばれる人々と同種であり、桂の父親であり涼子の『伴侶』である善二郎の祖先と、同じ“種類”の人間なのである。 桂も、言ってみれば『創られた人間』ではあるものの、彼等『ガーディアン』とは決定的な違が2つある。

 一つは、桂が『星人』の因子を正確に次代へと伝える事が出来るのに対して、彼ら『混じり』は不完全なマトリクス・スフィア(恒久的遺伝子情報)しか持たず、地球人と交配を続けるたびに情報は劣化し、やがて「ただの人」となってゆくことだろう。
 そしてもう一つは、完全な「調整」を受けない限り、20年から30年という短い時間で人生を終えてしまう事だ。

 不完全なマトリクス・スフィアが地球人の遺伝子に影響を与え、過去には多くの場合、寿命を迎える前に体細胞をガン化させてしまったのである。
 健司が『ガーディアン』から桂の『伴侶』となった際には、美智子も『桂が子供を宿すまでもってくれればいい』と思っていた。
 だからこそ、桂が子を成すために健司の肉体を“調整”したのである。
 それもこれも、『ガーディアン』が本来とは違う“役割”を与えられてしまったからに他ならない。

 それらの事実を、美智子は表情を凍らせたまま淡々と語った。
「もう一度言う。
 健司は、ガーディアンだ。
 お前を護るために創られ、お前を護るために一緒に育った。
 この船の中で」
 美智子の言葉に、桂は涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔を上げた。
「……ふ……ね?」
「そうだ。
 ここは、私達『星人』の“恒星間航行用大型移民船”(ふね)の中だ。
 健司はここで“創られ”、3年間『生体管理調整槽(コクーン)』で生育されたのち……お前が小学校三年生の時に『星人』の因子が発現したのを機に、谷口家に養子として送り込まれた」
 桂の顔が、口元が引き攣る。

 ――人間は、3年間の生育期間では、どうあっても8歳にはならない。

 つまり、健司は肉体年齢は桂と同じでも、実際には彼女よりも5つ年下という事になる。
 それよりも、桂と出会うまで『生体管理調整槽(コクーン)』とかいうもので外界と隔離されていたのなら、彼には生まれてからの記憶など無いはずではないのか?
 でも、健司には幼い頃の記憶がある。
 それを桂はいつか聞いた事があるのだ。
「う……うそだぁ……」
 少女は、信じられないものを拒むように、無理に笑ってみせた。
 それは、無理して笑ったチンパンジーみたいに、奇妙に歪んだ笑顔だった。
 鼻水が“たり”と垂れ、夕闇に家路を辿る悪ガキのように右手で乱暴に拭う。
 そんな桂に、美智子は小さく息を吐(つ)く。
「事実だ。
 健司の小学三年生……8歳までの記憶は、いわば作られた記憶だ。
 それにその頃の記憶も、お前に関する記憶も……お前が記憶している事実よりも多少オーバーに刷り込まれている。
 それは、お前の『伴侶』となるべく創り出された由香も同様だ。
 全て、お前に対する好意を確固たるものにするためにされた、後付の記憶なんだ」
 桂は机の上のアイスティのグラスに伝う透明な雫を見ていた。
 もう、涙は無かった。
 枯れたのだろうか?

 いや。

 少女の感情が、動くことをやめてしまったのかもしれない。

「急激な生育でもともと脆弱だった肉体を成長するにつれて頑強に調整したが、その調整もやや強引だった。
 そのために適合値が低く、それでも『ガーディアン』から『伴侶』として機能するために加えた修正が引き金となって…………お前と接触を繰り返すたびに体機能が異常を示し始めた。つまり……拒否反応だ」
「拒否……はん……のう?」
「お前の肌に接触し、お前の体臭を感じ、お前の吐息を感じるたびに、健司はお前から放出される性フェロモンを含んだ『香気』を浴びている」
「ボクの……匂い? ……」
 桂は、自分が女性化してから健司に触れたり、夕焼けの教室で抱き締められたり、彼を叩いたり首を絞めたりしていたことと、少しずつ彼が弱っていき、体調を崩し、水泳の記録を落とし、ついには風邪を引いて学校を休んだ事を思い出した。

 あれは全部、自分のせいなのか。

 健司が体調を崩して大会で成績を落としたのも、全部自分のせいなのか。

「健司は、本来、お前と子供を作れるような体にはなっていない。
 『ガーディアン』と『伴侶』は本来同じ素体から成るものだが、お前が初恋によって最初の変体期を迎えた時、男に暫定固定したのを確認した涼子様と私は、健司を『ガーディアン』に、由香を『伴侶』にと分化させるための初期調整を施した。
 そのまま何も無ければ、お前は由香と子を成し、健司を生涯の友としていただろう。
 だが」

 ――『圭介』の肉体は、健司への友情を愛情と捉え、由香ではなく、彼を『伴侶』に選んでしまった。

「それでも、健司がお前に対して愛情を抱き、欲望を抱かなければ、ひょっとしたらそこで変調は終わっていたかもしれない。
 だが…………あいつの…………自分が『伴侶』に選んだ相手の、その精子を受けるためなら何でもするような状態になっているお前の体に、対抗出来る者などいない」
「どういう……いみ……?」
 『フェルマーの最終定理』を聞いた幼稚園児のような、まるきり呆けた表情で桂は美智子を見た。
「性喚起物質……フェロモン……香り……。
 お前の体からは、他の誰でもない、健司にしか正しく機能しない、彼のためだけに特別にブレンドされたフェロモンが絶えず分泌されている。
 健司以外の男が濃厚なそれを吸い込めば、おそらく精神に異常をきたしてしまうほどの性フェロモンが」
 桂の脳裏に、自分を襲った男達の血走った目が浮かんだ。

 自分の体からは、男を引き寄せるばかりでなく、その男達を異常化させてしまう“モノ”が生み出されていたのだ……。

 少女は自分の両手で自分の体を抱き、身を縮こまらせて更に背中を丸めた。
「お前の体は女になってから……いや、健司を好きになってから…………今となってはどちらが先だったのかわからないが、ずっとあいつに対してそのフェロモンを発していたんだ」
「…………ずっ……と……?」
「…………その結果、健司は、あいつ自身の意思に関係無く、強く強くお前を求めるようになっていったんだ」

 決定的だ。

 もう、何も言えない。

 最後の最後まで信じていたものが、“プツン”と音を立てて切れたような気がした。
 健司は本当に、自分の意志で桂を選んでくれたのではなかったのだ。
 彼は、その生まれも、人生も、そして恋さえも、桂のために……桂一人だけのためにいいように操られていただけだったのだ。
「……ふ……ふふ…………」
 背中を丸め、膝小僧におでこを“ゴツゴツ”とぶつけながら、桂は絶望に歪んだ泣き笑いを浮かべていた。
 もう、涙も出なかった。

 健司が愛しい。

 健司を愛している。

 でも、自分が彼を愛すれば愛するほど、彼の自由意志は奪われていく。
 自分が彼を大切に思えば思うほど、彼は人間ではなく、ただの遺伝子融合のための『素材』だけの存在になってゆく。

 ――絶望という黒い闇が、心を塗り潰そうとしていた。

「そして、お前とセックスした事で、健司の肉体は崩壊を始めた」
 打ちひしがれた桂に、まるで追い討ちをかけるように、美智子の告白は続く。
「健司の肉体はお前の肌に接触し、お前の体臭を感じ、お前の吐息を感じるたびに、お前から放出される濃厚な性フェロモンを含んだ『香気』で蝕まれ、そしてお前とセックスしたことで、それが決定的となったんだ」
「…………ボクの体を愛したから?」
「…………健司には、拒絶反応が出ている。
 お前達は、普通の恋人達がそうするようにキスをし、唾液を交換し、性交して膣粘膜に亀頭粘膜を接触させたな?」
 桂は静かに頷いた。
 こんな時だというのに、頬がわずかに熱い。
 あの時の、濃密に、濃厚に、互いが溶け合うような甘い甘い時間を思い出して、桂の肉体が意思とは関係無く潤い始めていた。
「お前のその粘膜からあいつの体に、地球で言うところの“ナノマシン”が流入し、体内で異常増殖している。
 それは、お前の体を女性体に変化させた肉体改造型のものの亜種と言っていいものだ。ただ、この星の『後天性免疫不全症候群(エイズ)』ウィルスに似て、ライトなキスや水を媒介して感染・発動するような事は無い。
 だが、長時間の粘膜接触や体液交換、血液の流入によって、それは起こった」

 熱い口付け。
 切れた健司の唇を、桂は舐めるようにキスした。

 そして、コンドームを使うことなんて考えもしないほど、夢中になった初めてのセックス……。

 あの、愛に満ちた時間が、行為が、すべて健司には“猛毒”だったのか。

「…………このままだと……アイツは……どうなる……の?」
 はじめからわかっている答えを聞くのは辛かった。
 意識が無く、肉体が腐るように崩れ、出血が止まらない状態の健司を、少女はもう見ているのだ。
 果たして。
 美智子はわずかに目を伏せて言った。

「このままでは、全身の細胞がガン化する前に、死ぬ」

 全身の血が胸から噴き出し、からっぽになってしまった気がした。
 口元の引き攣りが、まるで痙攣のように動いた。
 唾を飲み込み、両手で顔を覆い、桂は熱い涙が手首を伝うのを感じた。

 まだ、流れる涙はあったのだ。

「……ボクのせいであいつは死ぬの?」
「……そうだ」
「もう助からないの?」
「そうだ。このままではそうだ」
「それは絶対?」
「そうだ。絶対だ」

 苦しい。

 胸が痛い。

 護りたかった。
 アイツを護りたかった。
 ずっとずっと、愛した男を護りたかった。
 護ってあげたかった。

 だのに。

 男だった自分への完全な決別と、何があっても自分が健司を護り、助け、そして癒してやるのだという決意と覚悟をカタチとした、ライトブラウンのミニスカートを両手で握り締め、桂は“ぶるぶる”と全身を震わせた。

『健司はボクが護る。もう、誰にも何もさせない。もう、離れない。ずっとオマエのそばにいるから』

 たった数分前、力の入らない、包帯に包まれた健司の大きくて少しひんやりとした左手を両手であたためるように包みながら、少女は誓った。
 愛する男に対する、揺るがない想いを込めて、誓った。
 誰に?
 誰に誓った?

 それは自分だ。

 他でもない、自分自身に誓ったのだ。

 だのに。


 ――その決意こそが、健司を「殺す」ものだったなんて!!


「――ぁあ〜〜〜〜ぁ〜〜〜〜〜あ〜〜〜〜…………」
 誰かが泣いていた。
 恥も外聞も無く、迷子の幼子のように拳(こぶし)で目を覆いながら泣いていた。
 それは慟哭だった。
 血を吐くような、懺悔してもしきれぬ。
 ただ、自分を責めるためだけの、聞く者の魂まで引き絞るような、そんな慟哭だった。

 そして、滂沱。

 声を上げ、ひしりあげ、泣きじゃくる。

 ローティーンのような小柄な体躯に不釣合いなほど大きい乳房が、顎から流れ落ちる涙の雫を受け止めていた。
「ボクのせいで健司が死ぬ……!!
 ボクが好きになったから健司が死ぬ……!!
 ボクを抱いたから、健司が死ぬっ!!!!」
 その事実が、桂の心を、魂を引き裂いてゆく。

 狂ってしまいそうになるくらいの後悔。

 いっそ狂えたら、どんなに良かっただろう!!

「ああっ……!! あ〜〜〜〜っ!! あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
 椅子から床に崩れ落ち、膝を付いて突っ伏し、床を叩く。
「健司……健司っ!! …………健司っ!! ……けんじけんじけんじけんじぃ……!!! ……」
 ひしりあげるような、魂を引き裂くような声が部屋に満ちた。
 聞く者の心を平常にはしておけない、深く心を斬りつけるような声だった。
「……ごめん……ごめんな……ごめんなぁ健司ぃ…………好きになってごめん……オマエと、オマエとえっちしたいなんて思ってごめんなぁ……」
 拳の皮が破れ、血が滲む。
「オマエと出会って……ごめんなぁ…………」
 爪が割れ、剥がれ、白い床が血で染まった。
「オマエと出会う前に、すごい熱出したあの夜に…………死んでしまえばよかった…………」
 割れた爪で床を掻き毟り、それでも足りないとばかりに、更に床を殴りつける。
 痛みは感じている。
 腕は痺れて、もう指先の感覚さえ無いほどだ。
 それでも、今、自分が愛し、そして必ず護ると誓った男が味わっている痛みや苦しみに比べれば、いかほどのものか。

「ボクなんか、死んでしまえばよかった……!!!! …………」

 このまま自分の体も砕けるのなら、桂は間違いなくそうしていたかもしれない。
 けれど美智子は、少女のそんな様子をじっと見つめているだけだった。やがて少女の慟哭はすすり泣きに変わり、床に跪いたまま肩を震わせるだけになるに至って、ようやく彼女は長く止めていたかのように大きく息を吸った。
「桂」
 小さい声だった。
 それでもその声は、少女の意識を強く貫いた。
 のろのろと体を起こし、桂は、血で汚れた床をガラスのような目で見つめたのだ。

「桂。
 選べ。
 お前はどうしたい?
 健司を助けたいか?
 それとも」


    「このまま楽にしてやりたいか?」


 美智子の言葉に、桂の肩が“びくり”と震えた。
『楽にする?』
 “楽にする”とは、どういうことか。
 わかっている。
 今なら教えられずとも理解出来る。

 それは、痛みや苦しみから解放するということ。
 この世界から開放するということ。

 ――桂の“呪縛”から、解放するということ。

「ボクは……健司が好きだ。
 できればずっとずっとあいつと一緒にいたい。
 アイツの笑う顔を見ていたい」
「健司の気持ちが、嘘だったとしてもか?」
 美智子の、鋭い言葉に刺し貫かれた胸を押さえて、桂は“ぎゅっ”と目を瞑った。
 何かを堪えるように“ぶるぶる”と体が震え、下唇を噛む。
 目尻から涙の雫が“ぽろり”と落ち、桂は決心したように胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「たとえアイツの感情が、無理矢理つくられたものでも、ボクのこの感情(きもち)はホンモノだ。
 ボクは、アイツが好きなんだ。
 ずっといっしょにいたいんだ。
 同じ道を生きていきたいんだ」
「だが、お前と一緒にいれば、健司は」
「もし」
 美智子の言葉を遮って、桂はまっすぐに彼女を見た。
「もし、それが出来ないとしても、アイツには生きていて欲しい……ボクのせいでめちゃくちゃになった人生を、もう一度ちゃんと自分の意志で生きて欲しい……さっき、ソラ先生は言ったよね?」
「何を?」
「『このままではそうだ』って。それって、まだ可能性はあるって事でしょ? 助けられるって事でしょ?」
 桂の決意に満ちた声音に、美智子の顔に同情とも憐憫とも言えない笑みがかすかに浮かんだ。
「たった一つ、助けられる方法はある」
「やっぱり!」
 桂の顔が希望にすがる遭難者のように、切羽詰ったものへと変わった。
「お、教えて! それを教えてっ!」
「でも、それをすれば彼はお前の事を忘れてしまうかもしれない。
 それでもいいか?」
 純潔の『星人』の、悲しいくらいに優しい微笑みに、桂は絶句した。
 涙が、意思とは無関係にボロボロとあふれる。
「忘れる?
 ボクのことを?」
「ああ。
 なにかも、だ。」
「全部?」
「全部だ。可能性は、果てしなく高い」
 桂は一瞬だけ逡巡し、再び毅然と顔を上げた。
「で、でも、助かるんでしょ?
 それで健司は死なないんでしょ?」
「ああ。
 だが、全部だぞ? お前に関する全てのことを」
「じゃあ、かまわないっ!!
 かまわない。
 それで健司が助かるなら、それで構わない」
 後から後からこぼれる涙を拭いもせず、桂は床に両膝をついたまま美智子の足元ににじり寄り、すがりついた。

「先生、たすけて」

「健司をたすけて」

「先生、おねがい」

「おねがいします」

「おねがい……」

 可愛らしい顔を、顔を涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃにしたまますがりつき、床に額をこすり付けて桂は泣いた。
 きれいなおでこが赤く擦れ、血が滲んだ。
 それでも、桂は床に額を付けたまま、懇願する。

 無様だった。

 みっともなかった。

 普段の桂を知っている人間が見れば、その不恰好さに顔を背けるかもしれない。
 それほど、彼女の姿は人として無様であった。
 そんな桂の頭に、美智子の左手がそっと置かれる。
 さらさらの黒髪を撫でながら、彼女は悲しみとも苦しみともつかない表情を浮かべたまま静かに言った。
「お前と健司の生体波長を『生体管理調整槽(コクーン)』で同調させ、その上でお前の体内で再合成した『カウンター素子』……ウィルスに対する『ワクチン』にあたる成分を、健司の体内に注入する」
「それで健司は助かるの?」
「理論上は……な。
 だが、ハッキリと言えるのは、無理に合成した『ワクチン』で、お前の体は過剰な免疫反応を起こし、きっと耐えられないほどの激痛を感じるだろう……ってことだ。いわば、『自家中毒症』をもっと劇的に悪化させたようなもの。または、『アナフィラキシーショック』にも似た反応だろう。
 …………ひょっとしたら、死ぬかもしれない」
「かまわない」
 健司が助かるなら何もいらない。
 そう言いたげな瞳で、桂は美智子を見上げている。
 『星人』としては、健司を助けるために桂が死ぬなどという事態はどうしても避けたいところだった。
 いっそ健司を助ける方法など何も無いと言ってしまった方が良かったかもしれない。

 けれど、美智子にはもうこれ以上、桂を騙し続ける事など出来そうにも無かった。

 もちろん、本当に桂に命の危険が迫った時は、迷わず健司を切り捨てるつもりではいたのだけれど。
 なぜなら桂は、今の桂は、もう“一人”ではないのだから。
「……死ななくても、『ワクチン』を作るとそれに順応・対抗するために体が急成長し肉体が固定され、もう健司と同じ時を生きる事が出来なくなる。涼子様のようになるということだ」
「母さんの……?」
「ある程度まで成長し、その姿で何年も、何十年も生きる事になる。
 幼生固体ならぬ、いわば成体固体(?)のようなものだな。
 それはつまり、健司が老いて死んでも、お前は生き続けることになる……ということだ。
 ここで健司が助かっても、お前は愛する人が死ぬのを、もう一度見る事になるかもしれないんだぞ?」
「だけど、健司は健司の人生を生きる事が出来る」
「……そうだ。
 ……そうだが、どっちにしろ、もう二度と健司と会えない。
 成長したお前を、『桂』として逢わせるわけにはいかないからだ」
「…………っ……」
 桂は息を呑み、顔を伏せた。
「それでもいいか?
 選択しろ。
 たぶんこれがお前の、最後の選択だ」
 突き付けられた言葉は、もう答えのわかっている問いだった。
 桂は、泣きじゃくり、涙と鼻水でぐちゃくちゃになった顔を毅然と上げて懇願した。

「それでもいい。
 もう、二度と逢えなくてもいい。
 健司が生きていてくれるなら、もう何もいらない。
 たとえ逢えなくても同じ時代を生きる事が出来るなら、それだけでいい。
 ボクなんかと出会ったのがいけなかったんだ。
 ボクが、あいつを選ばなければよかったんだ。
 ボクの命なんかいらない。
 あいつが生きていてくれるだけで、それだけでいい。
 ボクのぜんぶをあげる。
 命もなにもかもぜんぶ。
 ぜんぶだ。
 だから生かして。
 健司を、助けて」

 この時の桂の顔を、美智子はおそらくこれから何年……何十年生きたとしても、決して忘れないだろう。
 美しかった。
 愛しい者を全てを投げ打ってまで救いたいと願う少女の……いや、一人の『女』の、純粋な願いが煌(きらめ)いていた。
 美智子は一度大きく息を吸い、吐いて、再び優しく桂の黒髪を撫でた。
 シルクの手触りが切なく、苦しく、そして哀しい。
「私としては……私達としては、本当はお前にそんな選択はして欲しくないんだ。
 けど……お前はもう決めたんだな」
「うん」
「じゃあ、最後に一つだけ、言っておく。
 これを聞いて、決心が揺らいで、それで覆しても、誰もお前を責めたりなんかしない」
「…………なに……?」
「いいか桂。
 お前は妊娠しているんだ」
「え?」
 桂は“ぽかん”と口を軽く開けたまま美智子の目を見つめた。
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