■感想など■

2009年10月06日

[TS]「この残酷で優しい世界の中で」〜あなたがつなぐあたしのこころ〜

■■【2】■■

 ――あの時の衝撃は、たぶんこれからも忘れる事が出来ないだろう。

 戸籍抄本の取得申請をした市役所の窓口係の男性が、通例どおりの事務手続きの途中で手を止め、そしてなんだかひどく怪訝そうな顔をして少女に証明書の提示を求め、彼女はカード式保険証とラミネート加工された学生証を差し出した。
 すると係の男性は、まるで値踏みするように彼女の顔と、学生証の写真と、ついでにブレザーの制服を下から押し上げる年齢に似合わないたっぷりと大きな胸を何度も繰り返し見て、
「お待ち下さい」
 とだけ言ったのだった。
 何か問題があるのだろうか。
 待合スペースにある臙脂色のソファに腰掛けると、係の男性が奥に引っ込み、上司らしい男性と何か話して、やがてその上司が今度はどこかに電話していた。
 閉庁間近の所内は、平日だというのに様々な手続きをする人達でごった返していた。
 ただ、学生は彼女一人だった。
 彼女も二学期の中間テストのテスト期間でなければ、平日にここへ訪れることは出来なかっただろう。
 それ以前に、市役所に用がある学生自体、そもそも珍しいのかもしれない。
 結局、発行まで20分以上もかかった戸籍抄本は、それ以外は特に問題も無く彼女の手に収まった。
 だが封筒に収めようと筆記机の上で折りかけた彼女が目にしたのは、自分の項目にある信じられない文字だった。

 長男。

 …長女―ではない。
 男、だ。
 しかも御丁寧に、「性同一性障害」という文字が特記事項にあるのを見て、愕然とした。
 しばらく呆然として、当然、次には「これは記述間違いだ」と思った。
 けれど、何かの間違いだ、おかしい、調べて欲しいと窓口係に問い正しても、書類ではそうなってるの一点張りで話にならない。
 そうこうするうちに閉庁時間が訪れ、彼女はなかば追い出されるようにして晩夏の空気の中へと歩き出した。

 それが、つい昨日のことだ。


 実は彼女には小学校から一年ほど前までの記憶が無かった。
 一年前、彼女の家は火事で焼け、その時彼女は不幸にも逃げ遅れかけた。その時、煙に巻かれ昏倒した事が原因で、軽度の記憶障害を起こしたのだという。
 顔や身体には奇跡的に火傷は無かったものの、昏倒した際にどこかで頭をぶつけ、そして短時間の無酸素状態に置かれたため数時間に渡って意識が戻らず、結果、3日間は集中治療室での治療を余儀なくされたのだとも。
 その結果、おおよそ7・8歳あたりから17歳までの記憶の大部分が、ごっそりと欠落してしまったのだ。
 それは、日常生活における経験や社会通念、常識などはほとんど欠落せず、いわゆるエピソード記憶や意味記憶(記憶のうち言語で表現できる種類のもの)を失う「宣言的記憶(陳述記憶)健忘」と診断された。
 これらは全て両親と病院の医師から説明された事ではあったが、彼女自身には火事にあったことも煙に巻かれたことも何も覚えていなかったためその真偽は確かめようが無かった。それに、事実、火事の事は母が切り抜きで見せてくれた新聞にも残っていたし、何より両親を疑う理由が無かったのだから、高校三年の今まで、それを全て事実として受け止めてきていたのだった。

 火事によって、自分の部屋にあったものだけでなく、彼女と家族の過去に関するものは何もかも焼けてしまい、倉庫にあったためかろうじて焼け残ったアルバムの一部から、数枚の写真だけが彼女の過去を証明していた。病院の白いベッドの上で、母に見せてもらった写真には、小学校の頃の彼女が髪を男の子みたいに短く刈って、服も男の子っぽい活動的なデザインと色を身に着けて遊んでいる姿が写っていたのだ。
 一緒に遊んでいる仲間も男の子ばかりで、両親は小さい頃から御転婆で困ったと楽しそうに笑いながら語ってくれたのだった。
 思えば、小学校の時は自分は男の子だと本気で思っていた。
 そういう記憶が残っている。
 幼馴染みの和敏…当時はカズくんと呼んでいた…と立ちションをした記憶まであるのだ。
 あの時、確かに自分には“チンチン”があったと記憶してたけれど、実は違ったのかもしれない。
 小さい頃、男の子に混じって一列に並び、ズボンを下ろして立ったまま放尿していたのだと考えると、それだけで顔から火が出そうになったことを覚えている。
 病院のベッドの上で突然顔を真っ赤にして身悶えし始めた自分の娘を、母が不思議そうに見ていたことも。

 それが一年前の事だ。

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