■感想など■

2009年10月07日

[TS]「この残酷で優しい世界の中で」〜あなたがつなぐあたしのこころ〜

■■【3】■■

 昨日の市役所からの帰り道、彼女は自分が記憶を無くしているにも関わらず、どうして今まで過去のクラスメイトや友人を尋ねて過去の自分を取り戻そうとしなかったのか、不思議に思っていた。現在は過去の上に成り立つものである。過去が無ければ、人は拠るべくものを失って不安になるのが当然だろう。
 でも、彼女はそれをしなかった。
 この1年間、クラス会のような過去の自分を知る人との邂逅の機会が無かったこともあるが、幼馴染みの和敏がいたことで、自分の失われた過去を全部取り戻したような気になっていたのかもしれない。
 幸せだった。
 満ち足りていた。
 そんな一年だった。
 だから、過去を失った事に不安を感じなかったのだろうか?

 けれど、どうしても自分が元は男で、性同一性障害によって性転換したのだとは到底思えなかった。
 年齢の割には多少大き過ぎるように感じなくもないたわわな乳房も、健康診断の際に取った胸部レントゲンでシリコンや生食パックなどで膨らませた人工乳ではない事は(もともと自分の胸が嘘乳だなんて思ったことが無いのだから、確かめようと思って見たわけじゃないけれど)承知済みだし、第一、彼女には毎月ちゃんと生理があるのだ。
 つまり子宮と卵巣は正常に機能しているということで、それに膣だって(誰かに確かめてもらったわけじゃないけれど)ホンモノだ。
 クリトリスだってちゃんと普通のサイズで、チンチンみたいな大きさなんかじゃない。
 両親に聞いてみる前に自分の中で整理したくて、市役所から帰ってきて晩御飯の前に、彼女はバスルームで自分の身体を調べてみた。

 …ちゃんと感じた。

 湯あたりしてへろへろになってバスルームを出ると、あまりに長湯だった娘を心配して母が廊下に立っていた。
 バスルームでしていた事を知られたかもしれない恥ずかしさに、少女は女の子らしく丸みを帯びた豊満な体を縮こまらせながら二階の自分の部屋へ逃げるようにして上がった。
 下から聞こえた母の、
「ヘンな子ねぇ…」
 の言葉に、ちょっとムッとしながら。

 でも結局、両親に戸籍のことは聞けなかった。

 聞くことで、聞いてしまうことで、この今の幸せに満ちた生活が壊れてしまうのではないかと恐れたのだ。
 そしてその恐れが現実のものとなったのが、今日の事だ。


 今日…和敏とキスをした。


 たっぷり時間をかけて、普段履かないようなミニのスカートと和敏の大好きなおっぱいのラインがクッキリと出るサマーセーターを着て、「可愛いって褒めなかったら蹴っ飛ばす!」とか思いながら向かった彼のアパートで、「可愛い」と言われて「似合う」と言われて「普段からそういうカッコすればいいのに」と言われ、挙句に「好きだ」と言われて「ぎゅってしていいか?」と言われたら、もうとろとろにとろけて身体を預けてしまうしかなかったのだ。
 ファースト・キスだった。
 大人達がするような、互いを貪るような動物的なキスなんかじゃなく、小鳥がするような、唇と唇を軽く触れ合わせるだけのものだったけれど。
 身体が、震えた。
 寒さに凍える子ウサギのように体中が震えて止まらなかった。
 彼に見詰められ、肩を抱かれ、覚悟したはずなのに目を瞑った途端恐くなった。
 自分が今から何をされるのか十分理解していたし、了承した証拠として目を閉じたのだからキスされるのはハッキリとわかっていた。
 手がじっとりと汗ばんでいるのがわかった。
 心臓が面白いくらいドキドキと跳ね回っていた。
 頬のあたりにかかる彼の吐息がミントの香りを含んでいて、ちゃんと彼が自分に気を使ってくれていることを頭の片隅でむちゃくちゃに喜んでいる自分がいた。
 彼は私を大事にしてくれる。
 大事にしてくれようとしている。
 けれど、その自覚と身体の震えは別物で、どんなに肩を抱く彼の手が優しくても止められるものではなかった。
 変わる。
 自分が変わる。
 その確信があったのかもしれない。
 唇に触れた彼の唇のやわらかさに、


 吐き気がした。


 彼を突き飛ばし、逃げるようにしてトイレに駆け込んで胃の中のものを全て吐いた。
 涙と鼻水と酸っぱい胃液を全部出して、彼のために精一杯オシャレして1時間もかけて選んだお気に入りのサマーセーターの右袖で強引に拭った。
 心配してトイレを覗き込んだ彼を再び突き飛ばし、呆然とする彼を横目に部屋を横切ってブーツを掴むと、裸足のままアパートの階段を駆け下りた。バッグが彼のベッドの上に放り出したままだと気付いたのは、裸足のままめちゃくちゃに走って、どこか知らない細道の交差点で立ち止まった時だった。
 和敏が追いかけてくるかもしれないことが恐くて、物陰に隠れてブーツを履くと紐を適当に結んで再び走った。
 ブラをしていても盛大に上下に揺れまくる胸が鬱陶しくて、涙が後から後から溢れて流れた。
 髪をなびかせ、胸を揺らし、泣きながら走る少女に、道行く人が奇異な目で見た。
 でも、構わなかった。
 この自分は自分じゃない。
 本当の自分じゃない。
 それに気付いてしまったから。

 かつて自分は、男だった。

 その記憶が、封じたはずの記憶が、彼女の脚を、ただ和敏の元から少しでも遠くへと動かしていた。
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